(6)悠久
「えっと、何かと言われても……。どっちにしても、他人の男には手は出さないから、安心して」
「はっ? あ、いえ、そんな意味じゃありません! 誰があんな……あ、いえ、えっとぉ」
優花の様子に、眞理子は思わず自分の経験と照らし合わせてしまう。
だが、どうやら見当違いだったようだ。
「ああ、ゴメン。勘違いみたいだね」
「いえ、こちらこそ……あの、警部もキャリアの方かな、と思いまして。それで」
眞理子はようやく得心が行った。優花は眞理子を瀧川の同類だと思ったらしい。
「いや、キャリアじゃないよ。私は高卒だし」
「え! 高卒採用で、その若さで警部ですかっ!? あの……失礼ですがお幾つでしょうか?」
「……二十九だけど」
「ええっ! 二十代で警部! どうやったら、そうなれるんですか?」
一々大袈裟な優花の言動に、眞理子は笑いを堪えつつ質問してみる。
「昇進したいの?」
「昇進というか……レスキューの仕事がしたいんです! ちゃんとしたレスキュー隊員としての仕事が。今は雑用とか、無線要員に過ぎませんから」
よほど悔しい思いをしているのだろう、奥歯をギリギリ鳴らし、優花は俯いた。彼女の辛さは痛いほど判る。なぜなら、以前の眞理子がそうだったからだ。
配属されてすぐの頃、眞理子を甚振る筆頭は……風見本部長、当時の副隊長であった。
レベルはまさしく小中学校のイジメだ。物を隠したり捨てたり、時間をわざと伝えなかったり、嘘の命令で笑い者にしたり……。藤堂や秋月が彼らに組することはなかったが、馴染めずに山を下りるなら早い方がいい、と眞理子にはかなり厳しかった。
一度、隊員全員で風呂に入り“裸の付き合い”だが女には無理だ、と風見に笑われたことがある。その挑発に、眞理子はなんと全部脱いで大浴場に入って行ったのだ。そんな十九歳のオールヌードに股間を押さえ逃げ出したのは男性隊員のほうだった。
後日、藤堂に呼び出され、「お前は男になるために山に来たのか? レスキューに性別は必要ない。お前自身の問題だ」と眞理子は説教される羽目になったが……。
昔のことを思い出しながら、眞理子はナップザックに入った装備を点検する。
「装備はこれだけ? 本当にハイキング程度なんだね。用意したのは……あなた?」
「あ、はい。装備や下準備など、誰でも出来ることが私の仕事ですから」
「そう……」
眞理子は何か言おうとして、途中で止めた。
あの瀧川に、様々なことを承知でやらせるだけの度量があるだろうか? 眞理子の中の答えは“否”であった。
だが……初見で全てを判断するのは危険だ。顔以外にはピンとくるものは何もない男だが、端っから除外する必要もない。折角のお膳立てである。那智の推薦状もあることだし、遠慮せずに藤堂と比べてやろう――そう思い直す眞理子であった。
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屋久島は一ヶ月に三十五日雨が降る――と言われるほど雨が多い。
実際には場所によって違うものの、山では三日に二日は雨、といった感じだ。この日も登山口付近では小雨がちらついていた。平日のせいか観光客は少なめだ。それも、大体は六時くらいまでには登り始めるという。眞理子らが到着したのが七時半は回っていたため、管理事務所の人からは遅い出発を指摘されるくらいであった。
トロッコ道を歩き始め、三十分もせずに眞理子はこの瀧川という男に見切りをつけていた。
なるほど、会話は人の腹を探るのが上手いのか、適当に合わせてくる。朴念仁の最たる藤堂では比べ物にならない要領の良さだ。
眞理子が気になったのが彼のペースであった。当初、眞理子の傍から離れず始終話し掛けて来る。当然ペースは落ち、縄文杉まで行く気はないのだろう、と眞理子は判断した。だがその直後、遅れているからと唐突に歩く速度を上げたのだ。そのあまりに乱雑で自分本位のペース配分に、眞理子は呆れて開いた口が塞がらなかった。
途中、眞理子がわざとゆっくり進んでも、瀧川のペースに対する抗議だとは気づかなかった。仮にもレスキュー隊員なら、どうして付いて来れないのか。これだから女は、とあからさまな不満を口にしたほどである。
藤堂や秋月などは、何年も眞理子が気づかぬほど自然にペースを合わせてくれていた。馬鹿にされていたようで不満を口にした眞理子に、登攀パーティは互いに合わせるのが鉄則だ、と叱られた記憶がある。
そのことは、富士転属当初の南でさえ守っていた。彼は一見ポーカーフェイスに思えるが、実際は非常に判りやすく態度や表情に出る男だ。眞理子が南のオーバーペースを諌める為、強制的にペースダウンすると、不満を飲み込んで渋々スピードを落としていた。
トロッコ道の途中、三代杉辺りに差し掛かった時、それまで降り続いていた小雨が止んだ。
すると、
「どうです。たまには仕事以外で山に入るのもいいでしょう?」
そんな風に眞理子の隣に並び、瀧川が話しかけてきた。
この時の眞理子は、いよいよ瀧川を無視して置いて行こうか、などと不埒なことを考えていたのだ。だが、一緒に山に入った以上、パーティとしての責任を途中で放り出す訳にはいかない。
「ええ、まあ。でも、特に登山の趣味はありませんので。仕事以外で山に登ることはないですね」
「女性はそれで十分ですよ。登山など女性の趣味としては適さない。山は男のものです。眞理子さんはとてもファッショナブルだ。そのスタイルの維持も大変でしょう?」
――山に登れることがどれほど偉いつもりだろうか?
随所に見られる女性差別に、いい加減返事をするのも馬鹿馬鹿しい。
「皆と同じ訓練をしているだけです」
「私は妻や恋人には、常に綺麗にしていて欲しい。いつまでも女性でいることを忘れないで欲しいのです。山男どもに囲まれても、あなたはそれだけのステイタスが保てる人だ。君は美しい……」
酔っ払いの相手に慣れた飲み屋のママさんでも鳥肌が立つような台詞を口にしつつ、瀧川は眞理子の背中に手を回して来た。そして、そのまま顔を寄せてくる。
眞理子の脳裏に……キャリアを叩き伏せたらクビだろうか? と過るが。
「瀧川警部、観光客ですよ」
冷ややかな眞理子の声に、ギクッとして瀧川は離れた。どうやら、やることはやりたいが……結婚せずに逃げられる体勢も確保しておきたいという所か。いざという時、責任転嫁するタイプに違いない。
幾つかの橋脚を通り、トロッコ道の終点で標高九〇〇メートル。その先は急峻な山道が続く。眞理子は瀧川の誘惑をかわしつつ、気づかれぬようにどんどんペースアップする。その結果、先発の観光客に追いつき、通常昼頃と思われた縄文杉に十一時前には到着していた。
推定樹齢七二〇〇年の縄文杉は、悠久の歴史をその全身に湛え、素晴らしく雄大なものであった。保護の為、展望デッキからしか見ることが出来なかったが……。
「ま、眞理子さん……さすがに、山歩きに慣れているようですね」
どうしてこんなに疲れるのか判らない、といった風情で、瀧川は肩で息をしている。
「とんでもない。足手まといになってなければいいんですが」
ニッコリ微笑みながら、眞理子は縄文杉を見上げた。こうして登ってみて改めて思う。やはり山は、眞理子にとって遊びの場所ではなく“仕事場”だ。人々が癒しを求める空間も、彼女にとっては神経を研ぎ澄ませ、絶えず周囲の安全に気を配ってしまう。
しばらくして落ち着いたのか、瀧川は眞理子の肩に手を回して来た。それをスルッとすり抜けると、
「さ、瀧川警部。下山しましょうか」
眞理子はさっさと登って来た道を引き返し始める。うんざりした顔で後に続く瀧川であった。