(5)周囲の思惑
――ガンガンガン!
眞理子はドアの前に立ち、思い切りドアを叩いた。
「長岡さん! ちょっと長岡さん、出てきて下さい。お話があります。お聞きしたいことがあるんですけど! 長岡副本部長っ!」
隣のドアが開き、何処かの本部長クラスが眞理子をコソッと覗き見ている。不在か居留守か判らないが、どちらにしても長岡が出てくる気配はなさそうだ。
食事の後、箕輪と瀧川が引き上げ、眞理子は那智から詳しい話を聞こうとした。
「総本部長殿。ちょっとお話が……」
「いやあ……まあ、明日だ。話は明日にしよう。それじゃあ、お休み」
そう言うと、那智はそそくさとロイヤルスイートに戻ってしまったのである。
――もう一人、事情を知っていそうな奴がいる。
眞理子は携帯を手に取り、富士宮署に併設された山岳警察本部に掛けた。
『ああ、五合本部の沖です。風見本部長をお願いします』
『本部長はすでに帰宅されました』
時計を見ると既に十時近くだ。よく考えれば、事件もないのに本部長がそんな時間まで署にいるはずがない。携帯に掛けてやろうか、と思ったが……那智の言っていた風見の妻の妊娠を思い出した。
ひょっとすれば、眞理子との噂が耳に入っているかも知れない。誰にどんな誤解を受けても気にはしないが、誰かを傷つけるような誤解を自ら招くつもりはなかった。
(仕方ないな……明日か)
眞理子は諦め、ため息を一つ吐いた。
~*~*~*~*~
同じ頃、南は談話室に座り、独り考え込んでいた。
(……聞けなかった)
少しも大丈夫ではない。しかも『大丈夫』じゃないことは隊長代行の件だけではなく――。
「え? 見合い?」
「そう、見合いだって」
「誰が?」
「隊長に決まってるだろ!」
「誰と!」
「なんか知らねえけど……どっかの警備隊の隊長で東大卒のキャリアだってさ」
「隊長は知ってるのか?」
「知ってるから、あんだけおしゃれして行ったんじゃねえ?」
「隊長が結婚したら、ここはどうなるんだ?」
「まあ、どっかから隊長が来るか……副長が昇格するか……どっちかじゃねぇの?」
当直の結城以外、全員揃った食堂はシーンと静まり返った。
本日非番の佐々木が、麓の富士宮署に勤める同期から仕入れてきた情報だ。それによると、那智総本部長の紹介で眞理子がキャリアと見合いする、というものだった。
実は……初めは出張にかこつけて、風見が眞理子が連れて行く算段だった。だが、那智から眞理子の見合い計画を聞き、風見は大反対。那智は眞理子の同行に副本部長の長岡を指名し、風見は渋々引いたのである。
そして長岡の本心は……当然厄介払いだ。つい先日も消防本部に乗り込むわ、分隊長と大隊長を殴るわ、とにかく問題ばかり起こしてくれる。長岡は、そんな眞理子を富士から追い払いたかった。
ちなみに、那智に悪意はない。純粋な親心だ。那智は、眞理子が藤堂と長く付き合っていたことを知っている。その後、藤堂の大怪我と引退、そして別離も。更に、風見との過去の交際を知った上で、彼との仲を懸念したのだった。
風見が眞理子に未練があるのはすぐに判る。一方眞理子の場合、仕事と違って恋愛が絡むと意外に流され易い。風見に強気で押されたら、縒りが戻らないとも限らない。しかし、風見の妻は管区山岳警察局長の娘だ。不倫が明るみになっては、二人……特に眞理子は警察に居られなくなるだろう。
藤堂は優秀な隊員だった。彼は人生の半分をレスキューに捧げてくれたと言ってもいい。眞理子も同じく、若いうちから重い責任を懸命に果たしてくれた。二人が幸せになってくれることを那智は望んだ。
だが……眞理子も来年三十歳になる。那智は自分が退職する前に、眞理子の身が立つようにしてやりたい。そんな思いから、彼はこの縁談を纏めようとしたのである。
更に、この見合いを持ち込んだのは瀧川の方であった。
彼はたまたま訪れた富士宮の山岳警察本部で眞理子を見初め、父を通じて那智に持ちかけたのである。
これに心底驚いたのが南だ。
見合いの話など全く聞いていない。眞理子が承知していたなら、南には言ってくれたはずだ。先月話した時も、最低でも二~三年は続けるような口ぶりだった。
「ちょっと待って下さい。隊長は……そんなことは言ってませんでしたよ。何かの間違いでは?」
「事実みたいですよ。同期が言うには、決まったらじゃじゃ馬が追っ払えるって副本部長が喜んでたらしいです」
眞理子が見合い結婚など、富士が噴火してもあり得ないだろう。いや、富士に灰色熊が出るようなものである。百歩譲って、眞理子がキャリアとの結婚に気持ちが揺れるような女性なら、二年前に風見のプロポーズを受けていたはずだ。
懸命に眞理子の見合い話がデマに違いないと思い込もうとする南の背後で……
「隊長も来年三十だからなぁ」
「ああ、知ってる知ってる。女が一番結婚を焦る歳なんだろ?」
「ほらっ。隊長のトコ、お兄さんが今年結婚したじゃん。親にせっつかれてるのかもよ」
南は益々蒼白になり……そして、あの電話を掛けた訳だが。
談話室のソファに膝を抱えて座り込み、南は眞理子より大きなため息を吐いたのだった。
~*~*~*~*~
翌朝六時……眞理子は既にシャツと短パンに着替えていた。
とくに登山用の服など持参してはいない。そう伝えると、装備は向こうで用意すると言っていた。一番、身軽に動ける格好をして、眞理子は瀧川の連絡を待つ。
会議に来たはずが……何が嬉しくて屋久島の縄文杉見学コースを登ることになったのか。いや、世界遺産である。大勢の観光客が訪れる場所で、縄文杉自体には何の不満もない。
パンフレットによると、荒川登山口からトロッコ道を登るコースで、往復所要時間は約十時間。縄文杉の標高は約一三〇〇メートル……登山口からの標高差は約七〇〇メートルだという。
「はあぁ~」
朝は苦手ではないが、どうも溜息がこぼれる。
直後、ドアがコンコンとノックされた。
「おはようございます! 沖警部殿」
早朝から元気に現れたのは、例の長崎優花巡査だ。
「ああっと、長崎さんだっけ。おはようございます」
「瀧川隊長に、登山装備を一式お持ちするように、と言い付かって来ました」
「そうか……あなたは彼の部下なわけね」
眞理子はそのことに改めて気づき、納得するように首を縦に振った。
「あの、沖警部殿……」
「殿はやめてよ。そんな偉くない」
眞理子は軽く答えたが、優花の顔は酷く真剣だ。そして、深刻そうな声で眞理子に尋ねたのである。
「では、沖警部。警部は……うちの隊長の何ですか?」
(いや、それを教えて欲しいんですが)
咄嗟にそんなことを思い浮かべる眞理子だったが……。