(3)幸運
眞理子はエントランスに立ち、屋久杉のオブジェを見上げていた。
大浴場に露天風呂、サウナにプールにフィットネススペース。ホテルの敷地内にはだだっ広い庭園があり、なんと滝まであるという。
公費で泊まれるのだからラッキーと言うべきかも知れないが……。眞理子にすれば、悪徳警官になった気分で居心地が悪い。
「ほら、沖。さっさと部屋を聞いて来んか! キーも忘れるな」
長岡は荷物を床に下ろしつつ、ふんぞり返って眞理子に命令する。男の部下なら荷物を持たせてやれるのに、という態度がありありだ。
空港といい、港といい、まるで自分の秘書か女房のようであった。どうやら、愛人と思われるのが嫌で、わざと邪険な扱いをしているらしい。
だが、眞理子も黙って従うタイプじゃない。
「部屋は長岡さんと同室ですかぁ?」
わざとらしく大きな声で眞理子は叫んだ。周囲の視線が一斉に長岡に降り注ぐ。
「ば、ばかもん! そんなわけがないだろう!」
「あら、それは残念」
「なっ!」
五十過ぎの中年男が真っ赤になっても大して可愛くはない。からかうのも程々にしながら、眞理子は『受付』と書かれたカウンターに足を運んだ。
「えっと……静岡県山岳警察本部の者ですが。部屋ってあります?」
山岳警察の制服を着た婦人警官が、微動だにせず眞理子を見つめている。隣に立つ男性警官も、眞理子の胸元から足先まで視線を往復させるのに忙しいらしく……。一度目の問いかけはどちらからも返事は返って来ず、これは二度目だった。
「あ! 失礼しました。遠くからご苦労様です。えっと、富士ですね」
「ええ、あっちが長岡警視、私は沖です。よろしくお願いします」
「えっと、はいっ! 警視は和室と伺っています。沖警部は海側のお部屋になりますが……よろしいでしょうか?」
世界遺産を窓から望める、というのがホテルの売りだという。そのせいか、山側の部屋を希望する人間が多いようだ。確かに美しい山々ではあるが、山は日頃から飽きるほど見ている。
「ええ、寝られたらどこでも構いません。あの男は……部屋がなかったらリネン室でも放り込んでやって下さい」
眞理子は、数メートル後ろで苦虫を噛み潰したような顔で立っている長岡を指差しながら、声を潜めて言う。
「あの……沖警部殿。自分は鹿児島県山岳警察、霧島山岳警備隊の隊員で長崎優花巡査であります! あ……長崎県とは関係ないです。何か御用がありましたら、遠慮なくお申し付け下さいっ!」
優花は眞理子の砕けた様子に親近感を持ったようだ。右手をこめかみに合わせ、敬礼して言った。
そんな彼女に眞理子も笑顔で答える。
「なるほど……長崎巡査ね。私は、富士山岳警備隊、隊長の沖です。よろしくね」
軽く敬礼して、眞理子はホテルのフロントに足を進めたのだった。
その後、優花が狂喜したのは言うまでもない。
「隊長……隊長って言ったよね!? ちょっと凄くない、女性で隊長なんて! しかも富士だよ富士。一番出動回数の多い富士で隊長!」
優花はウットリとした眼差しで眞理子の後姿を見送る。
「ちょっと、なあ、落ち着け。キャリアで形だけの隊長かもしれんだろ?」
「そんなことないって! あの余裕といい、落ち着きといい、絶対にちゃんとした隊長よ。私、あの人に認めて貰いたい。そしたら、本当のレスキュー隊員になれるもの!」
「お~~~い」
同僚の声など無視して、優花は完璧に舞い上がっていた。
それもそのはず。優花は隊長の瀧川から、出動させてもらえない、無線要員として扱われる、だけでなく……雑用同然で警官としても認められていなかった。その憤懣やるかたない思いは限界まできている。もし富士の隊長に認められたら……優花にとって眞理子との出会いは、ここを抜け出す唯一のチャンスかも知れないのだ。
(何が何でもアピールする! 絶対に認めてもらう! ……それにあの声、何処かで)
眞理子の声に懐かしいものを感じつつ、希望に燃える優花であった。
~*~*~*~*~
『ああ、南……何か問題でも?』
携帯が鳴り、とくに確認せず眞理子が出ると――南であった。
時計は間もなく二十時になる。眞理子は半日ぶりに長岡と離れ、ホッと息を吐いていた。もちろん、長岡も似たようなものに違いない。
デラックスツインと呼ばれる部屋は、独りで泊まるには勿体ないくらいのスペースだ。セミダブルのベッドが二台あり、テレビにバーカウンター、小さな応接セットが置かれている。バルコニーにもテーブルと椅子のセットがあり、海を眺めてのんびり……と言いたいところだが、既に真っ暗であった。
洗面所の中には小窓があり、開くと室内が見えて随分と開放感がある。トイレと浴室が別な点も、二人連れの時はありがたいだろう。
『いえ……今日は出動一回でした。とくに問題はなく、無事に終了しましたが』
無事に終了した割には南の声が暗い。
『ん? どうした?』
『あ、いえ、大丈夫です。そちらはどうですか?』
『うーん。右を見ても左を見ても、警視以上のお偉いさんばっかりだよ。場違いというか……ま、様子見だね。でも長岡さんと半日ツーショットはきつかった』
眞理子はうんざりした声で南に愚痴をこぼした。すると、南は思いついたように、『せっかくですから、縄文杉でもご覧になられては?』と言い始める。眞理子が手近にあるパンフレットに目を落とすと、縄文杉までは片道四時間以上は掛かると書かれてあった。
『これでも午後は会議だからね。ヤクスギランドなら回れるだろうけど』
『隊長なら半分で行けるでしょう?』
『南……装備は持ってきてないし、屋久島まで来て訓練する気はないよ』
『それも、そうですね』
心配事でもあるのか、南はやはりどこか元気がない。だが無理に口を割らすような真似は、眞理子の主義ではなかった。
『じゃあ切るよ。ああ、何かあったら連絡しろ。それと――大丈夫ですってそんな声で言うな。全員が不安になるぞ』
眞理子は南の返事を聞かず電話を切った。
そのまま、携帯を二つに折りベッドの上に放り投げる。ハイビスカス柄の派手なムームーの上に携帯は着陸し……。「ガンバレ、南」小さな声で呟く眞理子であった。