(2)女神の卵
港から約三十分、世界遺産をバックに屋久島最大のホテルはそびえ立っていた。デラックスツインが標準で客室は百部屋以上ある。バンケットホールはビュッフェ形式にすると、最大三五〇名のパーティが可能だという。
今回、全国から約六十名ほどの山岳警察官僚が集まり、地元の招待客を合わせて総勢百名程度のパーティであった。ホテルの従業員は、普段のゆったりしたムードからは考えられないほど、忙しく走り回っている。だが、そんな彼らより慌しくしているのが、鹿児島県警山岳警察の人間であった。
その中で一際目立つのが紅一点……長崎優花巡査だ。
二十三歳だが十代に間違われることも多いという。短く刈り上げた髪のせいだろうか。眞理子より少し低めの身長で、バストとヒップは二サイズ程小さく見える。筋トレは欠かさないのだが、筋肉も贅肉も付かないタイプらしい。それは彼女にとって悩みの種であった。
そう、この長崎優花は、れっきとした山岳警察のレスキュー隊員なのである。
内部試験に合格し、山岳訓練を経て最終試験も突破し、昨年春に配属された。だが、主に無線要員として扱われるだけで、現在までレスキュー隊員としての出動は一度もない。
本人は山育ちでレスキュー隊員に憧れており、なんとしても一人前になりたいと思っていた。
だが、それには大きな問題が一つ。彼女が所属する霧島山岳警備隊の隊長・瀧川修司警部は、山岳レスキューにおける女性隊員不要論を唱える人物だった。
瀧川は国立大学卒のキャリアだ。そして、大学で山岳部に所属していたこともあり、現場で指揮を取る数少ない官僚であった。しかも、素晴らしいレスキュー技術を持っていることになっており、今回、総本部長から表彰される予定の人物が彼なのだ。
そんな瀧川だが……部下の評判はすこぶる悪い。
ただ、評判の良いキャリアなど存在しないに等しい。仮にいた場合、大した出世は見込めないだろう。大方の意見は、「大した実力もないくせに」「所詮、井の中の蛙」というものであった。
だが、表立って彼に意見するものなどいない。それもそのはず、彼の父親は鹿児島県警本部長の瀧川警視長なのだ。瀧川警視長はかなり厳格な人物と評判であった。しかし、ひとり息子には甘く、親馬鹿になり目が曇っている、というのが専らの噂だ。
そして、その瀧川警視長の同期で親友と言われるのが、那智総本部長である。その関係で、瀧川は息子が山岳警察に入るのを認めたともいえよう。
「へえ、山岳警察のお偉いさんに女もいるんだ」
優花は受付に立ち、来賓の確認とチェックインカウンターへの誘導を行っていた。彼女と同じく受付に立つ同僚の声に、優花は顔を上げる。
「え、嘘? ホント? 誰っていうか、どこよ!」
「ほら。『富士山岳警察・沖眞理子』だってよ。階級は……警部だ。キャリアかな?」
彼女はちょっとがっくり来た。キャリアにはロクな奴がいない。自分の所属の隊長を見たら一目瞭然である。
「歳は?」
「んなの書いてあるかよ」
「じゃあ肩書き」
「さあ? 本部長代理とある。同じ富士から副本部長が来てるから……もうちょい下じゃない?」
「現場の人間じゃないんだ」
「ここに現場の人間が来ると思うか? 安全な場所でふんぞり返っている、お偉いさんばっかりだ」
「まあ、そうだけどね」
「キャリアなら二十代だな。ノンキャリなら五十くらいのオバハンかもな」
そう言うと同僚は肩を揺すって笑った。この春採用で一つ年下の……正確には後輩である。だが彼は、男というだけで既に出動経験があった。隊長の瀧川が優花を軽んずるため、他の隊員も似たような態度を取る。頭にくるが、今の優花には何も出来なかった。
五年前、優花は家族で富士登山に出掛けた。彼女の高校卒業を記念した家族旅行である。
その時、なんと彼女は遭難してしまったのだ。
フリークライミングの経験もあり、二千メートル級の山には何度も登っていて、彼女は富士を甘く見ていた。初めての、そして憧れの富士登山ではしゃぎ過ぎたのだ。親とはぐれてしまい、四歳下の弟とふたり迷子になってしまう。見知らぬ山で一歩も動けなくなり、危うく大惨事になるところを、レスキュー隊員に救われたのだった。
雪の中、寒さに震える彼女を担ぎ、山を下りてくれた人がいた。
「大丈夫。もう大丈夫だから。弟も無事だよ。さあ、一緒に帰ろう」
確かに女性の声だった。レスキュー隊と言った気がする。名前も名乗ったはずなのに、よく覚えていなかった。
弟の身を案じ、迷惑を掛けてすみません、と謝り続ける優花に「――大丈夫」と何度も励ましてくれた。心と体の震えが自然に治まってくるような……そんな温かな声は、今でも耳に残っている。
鹿児島に戻ってようやく落ち着き、お礼が言いたいと連絡したが……。女性の隊員はいない、と言われてしまった。民間の応援なら判らない、とも。両親も、優花を直接助けてくれた女性の名前は聞いておらず、今となっては本当に女性だったのか自信もない。
だが、そのことがきっかけで、優花は山岳警察のレスキュー隊員を志したのだ。
ちなみに彼女が登ったのは北富士……山梨県側であった。
周囲のざわめきに、優花がハッと顔を上げた時、自分の方に向かってくる独りの女性に気が付いた。真っ直ぐに優花を見つめ、視線が合うとニッコリと微笑んだ。つられて彼女も笑顔で会釈する。
(観光客かな? 今日は貸切って張り紙もしてあるのに……)
優花はほとんど興味はないが、ファッション雑誌から抜け出たようなイメージである。ひょっとしたら、屋久島で何かの撮影があるのかも知れない。だとしたら、少し厄介だ。マスコミの関係者に下手な対応をして、低俗な週刊誌に『警察の失態』のように書かれてはとんでもないことになる。
実は、昼から飛び込みの客がやって来ては、クレームの対応を優花に回され辟易していた。目の前の女性はヒステリックに怒鳴りつける印象ではないが……女は判らない。と同じ女の優花は思う。
その女性は優花の前に立ち、笑顔のまま口を開いた。
「お世話になります。富士から来ました、長岡と沖です。よろしくお願いします」