(17)恐怖の錘
眞理子がホッと息を吐き、思い出したように左腕の痛みに顔を顰めた時だった。
不意に、警察無線から呼び出し音が鳴り、南が眞理子に応答を求める。彼の報告は、要救助者確保とアクシデント発生の両方であった。
『要救助者を確保しました。脈拍と呼吸を確認、呼び掛けには応じません。目立った外傷、出血等はありませんが、頭蓋骨や脊椎等の損傷は不明です。それと……さっきの消防隊員の悲鳴を聞いてから、七原の様子が変です』
南の言葉に再び双方のレスキュー隊に緊張が走る。
岡村班長は立て続けのアクシデントに、縋るような視線を眞理子に向けた。
『七原――聞こえるか? 沖だ。七原返事をしろ』
『……は、い……』
意識はあり返事はするが……無線から聞こえる七原の呼吸音は不規則であった。眞理子はすぐに、容量を超えた恐怖が適切に処理出来ず、七原はパニック発作の症状を起こしているのだ、と気づく。
無線の向こうでは、南も懸命に七原の名を呼び続けていた。
『隊長、駄目です。七原が動かなくなりました。意識はあるようですが……混濁してます』
『南、遺体の状態は酷かったのか?』
『……はい。一応、人としての形はある、といった程度でした。でも、欠損や腐敗のない分、幾らかマシではあったと思うのですが』
この遺体や出血に対する感覚も人それぞれであった。
眞理子もそうだが、南などは強い方である。もちろん、経験による慣れもあるだろう。出動回数の多い富士に配属されて三年も経てば……嫌でも神経は鍛えられる。数百メートル滑落し、川に流され、判別が難しいほど欠損した水死体の回収作業にあたっても、夜には焼肉が食べられるほどに。
今回の場合、様々なマイナス要因が重なっただけで、決して七原が繊細なわけではなかった。
『判った。三十分待機だ。すぐに行く』
『了解しました』
眞理子は一旦外した装備を再び背負うと、今度は完全装備で下に向かおうとした。
その様子を見ていて、岡村が飛んで来る。
「待って下さい、沖隊長。今戻ったばかりで……それに、左腕の治療もまだです。そんな体で、まさかK点を上から越えようなんて、考えていませんよね?」
「怪我は大したことはない。部下の七原隊員は、訓練以外で北壁は初挑戦なんだ」
答えながら、眞理子はさっさと安全確認を済ませ動き始める。
「でも……」
「隊のリスクは全て私が背負う。そのための隊長だ。命令を聞け、とふんぞり返っているのが仕事じゃない。君たちは登山道を通って、北壁の下で合流だ。ヘリは無理だな……担架を用意して、救急車を待機させておいてくれ。じゃ、後は頼む」
眞理子は軽く左手を振ると、部下たちが待つ場所へ向かったのだった。
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死と隣り合わせという現実は、充分に判っているつもりだった。事実、毎年幾つもの遺体を回収している。命懸けで救助した遭難者も、搬送後に病院で亡くなるケースも間々あった。
だが……同じレスキュー隊員の死に直面したのは、七原にとって初めてのことだった。
七原充は今年の三月に、高校時代から付き合い続けて十年になる彼女と晴れて結婚したばかりだ。立花と同じく順番は微妙だが、年末には父親になることが決まっている。
(妻を残しては死ねない。ましてや、子供も見ずに死ぬなんて……)
生への執着は生きて戻る為の鎖となる。だが、過ぎればそれは枷となり、死の底へ沈める錘となってしまう。
ぎりぎりのラインで必死に抑えていた恐怖を、眞理子の切羽詰った声と安西の悲鳴が突き崩した。
吸っても吸っても酸素が足りない。心臓が激しく打ち、息苦しいのだ。やがて手足が震え、全身にびっしり汗を掻いていた。掌にも汗が溜まり……そのせいで岩を掴む指が滑った時、彼の脳裏にすぐさま死が過った。
山岳警察に志願し、レスキューの仕事に就いて七年。そして富士に着任して三年。北壁での登攀救助が初めてとはいえ、組リーダーの自分がこれ以上無様な姿を見せるわけにはいかない。判ってはいても、次第に意識が遠のいて……。
「七原……いい加減戻って来い」
ちゃんと呼吸をしなければ。南の足を引っ張らないように動かなければ。……まるでセメントに塗り固められたかのような七原の精神に、眞理子の声が沁み込んできた。
「七原、目を開けろ。私を見るんだ」
「た……いちょう?」
「そうだ。ゆっくり息を吐け、吸うな、吐くんだ。そうだ、全部吐いてから吸うんだ」
ごく至近距離に、眞理子の顔があった。クライミング用のグローブを嵌めた剥き出しの指先が、七原の頬に触れる。岩を掴み、自分たちと同様に指先はザラザラのはずだ。だが眞理子の指は、妙に柔らかく温かかった。
「七原、ここが何処か判るか?」
「北壁の四段目……地上約百メートルの地点です」
「お前の所属と階級は?」
「富士山岳警備隊所属、階級は巡査部長です」
「では、お前が今やるべきことは?」
一呼吸入れると、七原はキッと表情を引き締めた。
「遭難者を救助して下降します」
「よし。南、七原が復活した。下降開始だ」
「了解!」
部下たちにとって、眞理子は精神安定剤である。“隊長がいる”それだけで、彼らは安心してレスキューに挑めるのであった。
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二階級特進となった消防の佐藤隊員は、眞理子と同じ二十九歳だった。独身だが婚約間近の女性がいて、葬儀で泣き崩れる姿に誰もが胸を痛めた。
そんな尊い犠牲を出した結果――遭難者は一命を取り留める。それは彼らにとって、唯一の救いであろう。
佐藤隊員の公葬から三日後、眞理子は五合本部で始末書を書いていた。
「ねえ、南……しゅくしゅくと、ってどんな字だっけ?」
「粛清の粛です」
「宿題の宿じゃダメ?」
「……駄目だと思います」
そんな隊長と副隊長の掛け合いを横目に、水原や結城たちは話していた。
「なんか、報われないよなぁ」
「命懸けで助けて……減俸に始末書じゃ。隊長が気の毒すぎる」
「でも、まあ……“やっちゃった”からなぁ」
そうなのだ――眞理子は公葬で“やってしまった”のだった。