(16)決断
闇は本来、恐怖を誘うものだ。
だが今回は違う。手元や岩盤しか照らさないヘッドライトのおかげで、安西は高さを意識せずに済んだのだった。
眞理子は一つ一つ確実にハーケンを打ち込んで行く。自分が降りた時に大よそのルートは取ってあった。だがスピードアップの為、端折った部分が多々ある。安西の速度に合わせ、足りない部分を追加しては、彼を誘導して行った。
K点から安西の場所まで、眞理子の場合約二十分足らずで到着した。だが、同じ距離を戻るのに、すでに一時間近くが経過している。急かす訳にはいかないが……安西の体力を見極めるのも、眞理子に与えられた当面の課題であった。
安西は消防隊員で眞理子の部下ではない。だが、第一分隊所属であること、そしてK点をクリアしたことからも、腕は悪くないはずだ。彼に怪我がない以上、自力で登攀を促すのが、眞理子の役目だと思っている。安西のレスキュー隊員としての自信をこれ以上傷つけない為にも……そう考えていた。
いよいよ残すはK点越えだ。ここさえクリアすれば、後はロープを辿って歩いて登れる。眞理子はルートを付け、後方からフォローする為に安西を先に行かせた。
安西は眞理子が打ち込んだハーケンにカラビナを掛ける。そして、三点支持で慎重にK点を越えて行く。安西がクリアしかけた瞬間、眞理子は上方を掠める閃光に気づいたのだ。咄嗟に、無線に向かって叫ぶ。
『すぐにライトを消せっ!』
しかし、その指示は遅かった。
断崖から顔を出した安西の目に、唐突に光が射し込む。
「う、わぁっ」
目が眩んだ一瞬の出来事だった。岩を掴んだはずの指先は空を切り――安西はバランスを崩す。その直後、彼の足は宙に浮いた!
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夜間の救助活動においてライトアップは非常に難しい。レスキュー隊員の常に後方から、を意識していなければとんでもない事態になる。
眞理子の声は周波数を合わせた警察無線からも流れ、下方から登攀中の南たちの耳にも届いていた。
「副長! ライトって、どういうことだよ。隊長は……」
「待て。大丈夫です。誰も落ちて来ていません」
不安に駆られた七原に南は告げる。
南たちの背後を高速ですれ違った影はない。眞理子ならどんな不測の事態でも、どうにかするはずだ。彼らには信じるしかなかった。
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ハーケンが二本三本と弾け飛ぶ。安西の体は宙を舞い、闇に吸い込まれるように墜落する。眞理子の腰にも一気に負荷が掛かった。
足場にしただけの利きの甘い箇所はともかく……。眞理子が墜落時に備えて打ち込んだハーケンが、そう簡単に外れることはない。冷静に墜落の衝撃さえ堪えればよいのだが、問題は安西だ。
安西は引力の存在を肌身で感じ、パニックを起こし暴れだしてしまう。それは非常に危険なことであった。どんなに抜けない釘も、強く左右に動かせば穴が広がって抜けやすくなる。ハーケンも同じだ。そして、今の安西に暴れるなと怒鳴っても聞こえはしないだろう。一刻も早く彼自身を引っ張り上げなければならない。
眞理子は右手一本でバランスを取り、左手を伸ばして安西のロープを掴もうとした。だがその腕に、暴れた彼のロープが絡みついてしまった!
唯一自由になるはずの左腕をロープに奪われたのだ。しかも、安西が暴れる度に、眞理子の左腕を万力で挟まれたような激痛が走る。だが、迷っている暇はない。眞理子は瞬時に決断し、なんと右手も離したのである。
眞理子は自らの判断を信じ、命綱一本で百メートル上空を舞った。
墜落の衝撃が下半身に装着したハーネスを伝わり、眞理子の体を軋ませる。右腕で安西のロープに取り付き、渾身の力で彼の体を引き寄せた。
『隊長! 隊長! 沖隊長!』
闇の空間に忙しなく眞理子を呼ぶ声が広がり、消えて行く。消防無線からは岡村班長の声が、警察無線からは、南をはじめ部下たちの悲鳴にも似た叫び声であった。
「安西、目を開けろ。私を見ろ。大丈夫だ、大丈夫。必ず連れて帰る。私を信じろ!」
眞理子に腕を掴まれ、直接、声を聞き、安西のパニックはようやく収まった。だが、彼の手足は震え、唇は真っ青だ。目の焦点も定まってはおらず、眞理子は限界を感じ取る。そのまま安西を背負い、ハーネスで固定した。これで仮に安西の意識が落ちても墜落は避けられる。
『沖隊長! 何とか言ってください! 沖隊長っ!』
無線からは半泣きの絶叫が聞こえる。岡村であった。それにつられて水原たちの声も大きくなる。
『隊長! たい……』
『やかましいっ! 忙しいんだ、静かにしろっ!』
『……』
眞理子の一喝に無線は一気に静まり返った。
二人分の体重が掛かったことで、ハーケンは全滅と思ったほうがいい。こうなれば、ボルトに取り付けたロープだけが頼りである。なるべく振動を与えないように、眞理子は腕の力だけでロープを攀じ登ったのだった。
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その僅か二十分後、眞理子は安西を連れて生還した。
「すみませんっ! 新人がやりました。時間が掛かって……心配するあまり……本当に申し訳」
「同じ言い訳を、死体の前で出来るか?」
「……」
「気を引き締めろ。責任者は岡村――お前だ」
「はい……すみませんでした」
眞理子の言葉は、岡村にはきつい一言となった。周囲の隊員も頭を下げるだけで言葉が出ない。そんな彼らにあえて何も言わず、眞理子は毛布に包まれ、カタカタと震える安西隊員に近づいた。
安西はヘルメットを外し、ボサボサの髪をしたままで眞理子を見上げる。口を開こうとするが、どうやら声が出ないらしい。眞理子はそんな彼を見つめ、とびっきりの笑顔で言ったのだ。
「よく頑張ったね」
乱れた髪を更にクシャクシャに撫でられ……安西はようやく声が出たのだった。
「おき……隊長。もうしわけ……ありませんでした。警察に、喧嘩を売ったのは……僕です。た、たかが女って……すみませ」
彼は声と一緒に安堵の涙も流れてきて、それ以上は上手く言葉にならない。だが、余程気になっていたのか、これだけは必死に付け足した。
「あの、実は……自分は、彼女とはまだ、そういうことになってなくて。ホントは……自分は何も知りませんっ! すみませんでした!」
恥ずかしそうに言う二十代前半の若者に、眞理子は苦笑いを浮かべる。
「それは……無事に帰れて良かったね」
富士の女神に魅せられた若者が、ここにもひとり……。