(15)繋ぐ声
時計の針は間もなく二十時を回ろうとしていた。
要救助者の地点まで九十メートル強。平地を走れば小学生でも二十秒と掛からない。だがこの難所は……一般的に考えて登攀に要する時間は約三時間、K点を越えればその倍は掛かると言われている。
南たちはクライミングを楽しむ訳ではない。より有効で安全な手段を用い、通常の半分で登る計算をしていた。
準備を整え、登攀直前に南は眞理子に無線を入れる。周波数を合わす事で眞理子の声は拾えていた。だが、機種が違えば交信が容易でない。南も消防無線を借りることを考えたが……。慣れない道具は事故の素になる。そう思い諦めたのだった。
眞理子の了解を得て、南は七原と二人で向かうことを告げる。
『七原、聞こえるか?』
警察無線から流れたのは眞理子が七原に向けた声だった。
『はい。七原です』
『膝は震えてないか?』
『少し……でも、大丈夫です』
『南の指示に従え。万一の場合、その場に体を固定して待機。すぐに私が行く。――どうぞ』
『七原、了解しました!』
『南、了解! 隊長もお気をつけて』
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眞理子が南の無線を受けたのは、オーバー・ハングの上部傾斜に沿って下りる途中のことだった。無線だけは両方を抱えてきている。それは眞理子が負うべき責任が増えた証であった。
『安西、君に妻や子供はいるか?』
眞理子は僅かな時間も、消防無線に向かって話し続けている。それは、闇と遥か下方に見えるライトに、相棒同様吸い込まれそうになっているはずの安西に向かってであった。
『じ……自分は、独身であります』
『では家族は? 恋人は? 天涯孤独じゃないだろう?』
『は、い。彼女が……』
『なら思い出せ。彼女の顔を、声を。大切な女性の唇や肌、髪の香りを思い出すんだ』
無線の向こうで息を飲む音がした。眞理子に言われた通り、様々なことを思い浮かべているのだろう。だが直後に発せられた声は絶望に包まれていた。
『そ、そんなこと……もう会えないかも知れないのに』
『会いたくはないか? もう一度、触れたくはないのか?』
『会いたい……けど』
『なら諦めるな。土壇場で生死を分けるのは執着だ。好きな女を抱くためなら、男は踏ん張れるだろう? お前がいないのをいいことに、あの宇佐美分隊長が彼女に手を出したらどうする?』
眞理子の質問に安西は絶句する。いや、安西だけでなく、耳にしていた隊員のほとんどが「死んでも死に切れない」と思ったのだった。
この時、眞理子はちょうどK点を越えた直後であった。闇に慣れた目は、すぐに安西の位置を視認する。だが、ここからが正念場だ。
北壁のオーバー・ハングは二段構えとなっている。下段を北壁の廂と呼び、上段を北壁の屋根と呼ぶ。K点とは屋根、二段目の先端部分のことだ。まさに天井を横に移動するように、傾斜は徐々に厳しくなり……眞理子の体は下に引っ張られる感じになる。ともすれば方向感覚を奪われ、上下の向きさえ判らなくなるのだ。
その二段目の裏側、ちょうど真ん中辺りに安西はいた。岩肌に張り付いている。眞理子は戻るための支点を確保しつつ、慎重にルートを選んだ。
その間も、無線を通じて彼に話し続けながら……。
『生きて還る、そう腹を括れ』
『でも、佐藤さんが死んだのに……自分だけ……』
それはあらゆる事故に遭遇し、生き残った人間が陥り易い“落とし穴”である。罪悪感というスコップで、間違った場所に穴を掘ってしまうのだ。時には眞理子のように、周囲の人間が穴を掘り、突き落とそうとするケースもあった。
『安西――酷なようだが、お前が死んでも佐藤は生き返らない』
『そ、そんな……』
『そしてお前が死ねば、佐藤の死は無駄になる。それが嫌なら、お前は必ず生きて還るんだ』
『でも、もう動けません。自分はもうここで……』
自分より技術も上の先輩隊員が、目の前で落下したのである。二人のロープが縺れ、懸命に掛けなおそうとした佐藤は「死にたくない」そう言って落ちて行った。一人残された安西に、希望など持ちようもないだろう。
安西の耳に眞理子の声が聞こえなくなった。自分はもう、無線越し以外に人の声を聞くことはないのかも知れない。彼の胸が再び絶望の色に塗り潰される寸前――
「大丈夫だ。私が連れて帰る。待たせたね」
彼の耳に響いたのは無線の音ではなく、直接、降り注ぐ声。
ヘッドライトが岩壁に反射し、淡く柔らかい光となって眞理子の顔を照らし出す。安西の目に映ったのは勝利の女神であった。
眞理子は真っ先に、安西のハーネスにカラビナを使って命綱を掛ける。これで落ちるときは二人一緒だ。安西は自分の命が誰かと繋がったことに、胸の奥から息を吐いた。
『岡村班長、こちら沖だ。安西隊員を確保した』
『無事ですか!』
『ああ、問題ない。すぐに戻る。上はそのまま待機だ。以上』
無線から流れる仲間たちの歓声を、不思議な気持ちで安西は聞いていた。
「安西、上に戻るぞ。ついて来れるか?」
「無理です……自信がありません。このまま下に」
眞理子は首を振る。北壁の屋根は直線距離に比べて恐ろしく長い。百メートルの登攀に匹敵する時間を要すると聞き、安西は声を上げた。
「な、なんで……こんなことになったんだよ。僕は消防士になりたかったのに。山岳レスキューに入ったわけじゃない! なのに、どうしてこんな」
山でのレスキューは、望まない人間にとっては環境そのものが試練である。ましてや『山送り』の身分からは早く抜けたい。何事もなく配属期間が過ぎれば……それが彼らの正直な気持ちであった。
普段は意地と虚勢で人命救助を語る口も、勢いが止まれば泣き言の一つも零れるというものだ。
そんな安西を叱ることなく、眞理子は冗談めかして言った。
「気持ちは判る。私もそうだ。この就職難に公務員になれてラッキーと思ったのは束の間だったな。刑事ドラマよろしく、拳銃抱えて悪党逮捕に走り回れるかと思いきや、山岳警察に配属された。初めての登山から十年……人生の三分の一を富士で過ごしてる。――安西、人生に不測の事態は付き物だ。泣いて膝を抱えていても、事態は好転しない。ルートは作ってある。私の後をついて来ればいい。生きて戻ろう……出来るな」
――たかが女じゃねえか。女のケツに張り付いてて、よく恥ずかしくないな。
そんな言葉で眞理子を揶揄したのは安西であった。その『たかが女』に自分は励まされ、命を預けている。部下に言った言葉を知れば、眞理子はどう思うであろう。助けに来なければ良かった、様を見ろと言われるかも知れない。
「は、い」
眞理子がそれに気づかないことを祈りつつ、震える声で答える安西だった。