(14)命の重さ
☆遺体の描写があります。苦手な方はご注意下さい。
ホバリング中のヘリからロープで降下した眞理子は、消防の第一分隊と合流する。
ここ最近、眞理子は消防の応援に回ったことがなかった。そのせいか、ほとんどの隊員と面識がない。彼らは一様に、悪名高き富士の“女の隊長”を不安な眼差しで見つめるだけであった。
山岳警察の立ち上げ以降、消防にとって山岳レスキューの任務は著しく減少した。そのため、彼らは全員通常のレスキュー業務と兼任している。二~三年程度で移動を繰り返す隊員がほとんどだ。レスキュー隊員の全員が富士で山岳レスキューも経験するように、ということらしい。
そんな中で、最も山に適性のある人間がこの第一分隊に集められていた。まず気圧である。平地に比べ低い気圧で動かねばならない。体質のよっては、高度に慣れるまで時間が掛かり、高山病になりやすい人間もいる。山岳警察では事前の適性検査で弾かれてしまうが、消防にはそんな検査項目はない。登攀技術だけでなく、そういった条件もクリアしているのがこの第一分隊の隊員であった。
現場では隊員たちが慌ただしく動き回っている。だが、全く統一はとれていない。犠牲者を出した現実に半ばパニックである。とにかく大声を上げて動くことで、込み上げる不安と焦りを解消しようとしているようだ。
眞理子は小さく息を吐くと手近な隊員を掴まえ、岡村班長の所在を確認する。隊員は言葉ではなく視線で岡村の居場所を教えてくれた。
そこには……肩を落とし、項垂れたまま座り込む一人の男がいた。
「岡村班長ですね。富士山岳警備隊の沖です。ただ今より安西隊員の救助に向かいます。クライマーの救助には下方より向かうよう、部下に命じてあります。安西との交信のため、消防無線を貸して下さい」
眞理子の言葉に岡村は顔も上げず、俯いたままだ。
「岡村班長?」
「後は……お任せします。私には……もう」
おそらくは、班長となって初めての試練なのだろう。しかも相当、上から言われたと見える。最前線と後方の連結部分とならねばならない、中間管理職の辛さは眞理子にもよく判る。だが……。
彼女が口を開こうとした時、不意に背後から罵声を浴びせられた。
「貴様のせいだぞ! 貴様が余計なことを言うから、失敗したんだ!」
まさに、噛み付かんばかりに吼え始めたのは宇佐美であった。
「私から指揮権を奪えて嬉しかろう? ざまあ見ろ、と思っとるんだろうが! 役立たずばかり揃いおっ……て」
眞理子は左足を一歩引き――その瞬間、問答無用で宇佐美の鳩尾に右の拳を叩き込んでいた。そして、前屈みになった宇佐美の頚動脈目掛けて軽く右の手刀を打ち下ろす。
消防隊員が唖然とする中、あっという間に宇佐美は静かになった。
「現場の指揮権は私にあります。救助活動を妨げる要素は、強制的に排除させて頂きます。……ああ、もう聞こえませんね」
眞理子は地面に崩れ落ちる宇佐美に視線を向け、澄ました顔で言い放つ。そして、岡村に向き直ると胸倉を掴み、一気に引っ張り上げた。
「後悔も反省も今がすべき時じゃない。一人の死を悲しんで、二人とも死なせる気か? 班長の負うべき責任を果たせ。お前の部下はまだ、崖っぷちで戦ってるんだ!」
断崖に響き渡る怒声に、岡村だけでなく全員が目を見開き眞理子を見つめていた。
噂と実像の差に、驚きのあまり声もない。代々、先輩隊員から申し送りを受ける言葉がある「富士の女神に逆らうな」と。その言葉が持つ真の意味を、何人の先輩たちが知っていて口にしたのだろうか? 隊員たちの胸にそんな思いが浮かび上がる。
眞理子は岡村から無線を取り上げ、
『富士山岳警備隊、隊長の沖だ。全員に告ぐ――佐藤隊員は残念だった。だが、これ以上の犠牲を出さないことを一番に考えてくれ。警察も消防もない、協力し合って困難に立ち向かおう。大丈夫だ、必ず上手く行く。全員、私の指示に従い、落ち着いて冷静に行動してくれ。――以上だ』
眞理子は装備のうち半分を下ろして軽量化する。靴も登山用から足にフィットしたクライミング用に履き替えた。前傾壁の上部には、機械を使って設置されたボルトがあった。眞理子はそのボルトにロープを掛ける。それが命綱だ。
下りる直前、眞理子の補助をした消防隊員が心配そうに言っていた。
「そんな……ハーケンもロープも減らしたら、いざという時に困りませんか?」
若い隊員の心配も最もだ。しかし、このK点越えで“いざ”という事態に陥った時、既に装備でどうにか出来るレベルではない。K点を越えるためには技術も当然必要だが、欠かせないのは体力と気力。眞理子の利点は男性より体重が軽い為のスピードだ。その場合、体力とパワーが落ちるはずだが、彼女に限ってその心配は皆無であった。気力は、言わずもがな、である。
眞理子は若い隊員に「生きて帰るためだよ、心配するな」と笑顔で伝える。
そして、相棒を失ったその場所へ、再び、身を投じたのだった。
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一方、水原も北壁の下部でヘリから降ろされ、南たちと合流していた。
そして、そこで見たものは……消防レスキュー隊員らの憔悴しきった表情と、かつて命の宿っていた器。人が百メートルの高さまで崖を登るには数時間を要するが、落ちる時は約三秒だ。そして、途中にある岩などにぶつかった場合、人の形を維持するのも困難となる。遺体は一人がクライマーで、もう一人は佐藤隊員であった。
彼らは人命救助を職業としている。だが、一旦事故発生となると……実際のところは遺体の回収作業が主な仕事であった。消防隊員も遺体は見慣れているはずだ。しかし、仲間の無残な姿にショックを隠し切れない。
南は剥きだしの遺体に専用のシートを掛けるが、佐藤隊員の上で手を止める。
「すみません。ジャケットを一枚いただけますか? 彼には朱色のそれが相応しいと思いまして」
南は消防レスキューのジャケットを受け取ると遺体の傍に歩み寄った。その首は不自然な方向に曲がり、目は見開いたままである。
――彼は最期に何を見たのだろう。
南は去来する思いをぐっと飲み込み、手を差し伸べて、彼を闇へと誘った。そして、遠巻きに立ち尽くす水原らを遺体の傍に呼ぶ。それは、眞理子の命令であった。
「彼の姿は明日の自分自身かも知れません。しっかりと、目に焼き付けておいて下さい」
結城は真っ先に岩陰に走った。若い佐々木も、一般の制服警官より慣れているはずの水原でさえ、堪え切れなかったほどだ。眞理子と同じ歳の七原は、登攀リーダーとしての意地で耐えている。
目を背けて済まされる問題ではない。知っていなければならない……。そう言って、眞理子は遭難者の遺体を回収する時も、その場にいる部下全員に確認させる。それは、ほとんどの連中が口にする「死ぬ覚悟」を現実に認識させるためだ。遺体を前にして、こうなりたい、と望む者はいない。
人を助けるために命を懸けるレスキュー隊員にとって、
――死にたくない
その思いは、生きるか死ぬかの瀬戸際で、命を繋ぐ鎖となるのであった。