(13)責任の所在
刑事時代から通じて、ここまで緊迫した場面に遭遇したのは初めてである。
つい先日、水原自身が遭遇したアクシデントはさておき、二年前の親友の事故を思い出すような……いや、それ以上の衝撃を味わっていた。
その場にいた誰もが呼吸すら忘れている。予想される悲劇に耳を疑い、言葉を失う。
それは――今、この瞬間、同じレスキュー隊員の命が失われた現実であった。
そんな中、やはり最初に動いたのは眞理子だ。彼女は登山靴でガラス片を踏み締め、頬の血を拭いながら無線機に近づいた。
『安西隊員聞こえるか? 私は富士山岳警備隊、隊長の沖だ。現状を報告せよ。どうぞ』
眞理子の声は、まるで何事もなかったかのように落ち着き払っていた。一瞬で水原も我に返り……慌てて深呼吸をする。
そして無線機から聞こえた声に、再び息が詰まった。
『佐藤さん、が……落ちました……ロープが外れて……届かなくて、自分は、自分は』
『了解した』
興奮してパニックを起こしそうになる寸前、眞理子の短くはっきりとした返事が、安西のレスキュー隊員としての意識を引き戻す。
眞理子は続けて指示を出した。
『安西、今の君にやるべきことは一つだ。可能な限りの支点を確保し、落ちないようにしっかりとロープでくくり付けろ。後はなるべく動かずにその場で待機。必ず助けに行く。無線はオープンのままだ、いいな。……岡村班長、聞こえるか。どうぞ』
突然の名指しに、消えそうな返事が無線から流れた。
『……はい……』
『すぐに行く。私が着くまで出動はするな。下方に廻った隊員に状況を報告させろ。二次被害がないかも確認を取れ。以上だ』
眞理子は岡村の返事を聞かぬまま、通信司令室に立ち尽くす面々を冷ややかな視線で一瞥した。
「香田本部長、命令を」
「……判った。君に任せよう」
香田の声は、喉の奥から絞り出すような掠れたものだ。水原の胸に、どうしてその決断が三十分早く出来ないんだ、と浮かび……ついつい口から出そうになる。
そこに、おそらくは眞理子にプレッシャーを掛けるつもりなのだろう。三沢大隊長が余計な言葉を加えた。
「もし、これ以上犠牲者を出したら……全部、貴様の責任だからな、覚えておけ!」
それはあまりに勝手な言い草であろう。水原の我慢も限界であった。
「てめえら、さっきからよくもそれだけ勝手なことが言えるなっ! 人が落ちたんだぞ!? 百メートルの高さから……貴様が殺し」
「行くぞ、水原!」
眞理子に遮られ、ドアに向かって強引に引き摺られる。諦めて水原が外に出ようとしたとき、眞理子は室内を振り返り、口を開いた。
「これより先は全て私の責任です。ただ、ここまでの責任は何方がお取りになるんですか? ――失礼します」
眞理子の一言は、彼らの首に一瞬で刃物を突きつけたも同然であった。
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二人は山岳警察のヘリに飛び乗る。
眞理子が指示したのは、「美樹原、北壁上部だ、急げ!」
「了解!」
その数分後、周波数を消防レスキューに合わせた無線機から流れてきたのは、『佐藤隊員の死亡を確認』と言った内容だった。
水原は椅子に座ったまま、両手で膝を握り締める。カタカタと小刻みに震えるのが止まらない。
「怖いか?」
眞理子は水原の正面に座り、真っ直ぐ見ていた。
「武者震いだよ……」
それ以外に言い訳など思いつかなかった。眞理子は体を伸ばし、そんな水原の手をスッと掴む。その手は思いがけず冷たく、そして震えていた。
「死を前にして平気でいられるのは、既に心か体が死んでいる人間だけだ」
その声は、悲しみや悔しさを強引に押し殺したような響きがあった。
「隊長……背中は平気なのか? ガラスがぶち当たって粉々に砕けたのに」
「砕けたのはガラスで私じゃないよ。ガラスに負けるほど、柔な骨でもない」
確かに、ヘルメットのおかげで頭部にも怪我はないようだ。咄嗟に襟首を掴んだのだろう、出動着の中にガラス片が入り込んだ様子もなかった。
「沖、後一分で到着だ。消防ヘリがいるから着陸は出来んぞ」
それは操縦士・美樹原の声であった。
「判った。ロープで降下する」
二人のやり取りを聞きながら、ようやく落ち着いた頭に、水原は一つの疑問が浮かんだ。
「あの、さ……隊長。上に降りるつもりなのか?」
「そうだ。機械の操作を頼む。水原は北壁の下にもヘリの離着陸ポイントがあるから、そこで降ろして貰え。ちょうど南らと合流できるはずだ」
「いや、だから。上に降りて隊長はどうする……え? まさか」
――どんな命知らずも上からK点を越えようなんてしない。
そう言ったのは眞理子である。
「上から行く。下に廻る時間はない」
「いや、でも、“不可能”だって……そう言ってたんじゃ」
「私に“不可能”だとは言ってないよ」
(嘘だろ?)
水原は思わず叫びそうになった。
たった今、落下の声を聞き、更に『死亡確認』の一報を受けたばかりである。そんな精神状態で、今すぐに登攀救助に向かえと言われたら……水原は、正直言って腰が引けていた。もっとはっきり言えば、登る自信がない。
眞理子の精神力に眩暈を覚える水原だった。
一方、眞理子らが立ち去った消防本部の通信司令室でも、皆が正気に戻りつつあった。
その中で気を吐く人物がひとり、三沢大隊長である。
「あんな女に指揮権を委ねるとは……本部長のなさることとは思えませんな。一体、何が出来ると言うんだ!」
三沢は悪態を吐き続ける。だが、それに追従する者は最早誰もいなかった。
「大隊長……君は知らんだろうが、沖隊長以外にこの事案を収められる人間はおらんよ。消防士が一人死んだんだ。この責任は重大だよ。早いうちに彼女に任せておけば良かったものを。――これは、君や宇佐美分隊長の責任だ」
香田本部長は今更のように責任転嫁を始める。
「ま、待ってください。そんな」
三沢は慌てて言い訳をしようとするが、全員が一斉に白眼視を彼に向けた。その瞬間、眞理子の口にした『責任を取る人間』が決まったのである。