(11)出動
四年前の二月、眞理子は慢心から大事な相棒を失った。それは藤堂の事故から僅か半年後のことであった。
秋月航、享年三十八歳。藤堂とは山岳警察の同期で、学生時代からの親友でもある。眞理子と藤堂の関係もすぐに察知し、良き理解者として相談相手にもなってくれた。あの事故の直前、二人が結婚を決めた時は、我が事のように喜んでくれたのだった。
事故……それは、レスキュー活動中にヘリが墜落したのである。
ヘリの操縦士は即死、レスキュー隊員二名が重傷、救助途中の遭難者は病院搬送後に死亡、というものであった。この事故で藤堂は右足を失い、眞理子に別れを告げる。眞理子は事実上、尊敬する隊長と最愛の男性を同時に失った。その結果、彼女はのめり込むように、レスキューに没頭して行く。
立て続けに難しい救助活動を成功に導き、クライマーたちの間では「富士は北より南で落ちろ」などと言われたほどだ。だがそれは、誰の目にも危険なレスキューであった。
そしてとうとう、眞理子は北壁で同じ事をしてしまう。
当時、秋月は隊長代行であった。諸事情から彼の階級が巡査であったため、代行以上にはなれなかったのだ。眞理子と秋月は丸三年パーティを組んでいた。初めは秋月がリーダーで、途中で眞理子が交代する。
ちょうど今回と同じケースで、要救助者が待つポイントはもう少し前傾壁に近い高さであった。二人は定石通り下から救助に向かう。そして、要救助者を保護した時には日も暮れて、天候は悪化の一途を辿っていた。要救助者の体力はかなり落ちており、吹雪いて動けなくなった場合、持たないと思われたのだ。そのため、眞理子はK点越えを決断した。そして秋月が反対したにも関わらず、登攀リーダーとして強行したのである。
水原ではないが、あの時の眞理子は「死ぬ時は自分が死ねばいい」本気でそう考えていた。
だが……眞理子に突きつけられた現実は、恐ろしいほど厳しかった。眞理子と要救助者を助ける為に、秋月がロープを切ったのだ。彼を死なせる訳にはいかない。秋月には最愛の妻がいて三人の子供もいた。最悪、死ぬ時は一緒だ、と心を決める眞理子に秋月は言った。
――必ず生きて帰れ。絶対に諦めるなよ。俺の死を無駄にするな!
左手の傷は、秋月のピッケルによって付けられたものだ。彼が切断したロープを眞理子は掴んでいた。その手を離させる為に、秋月はピッケルで眞理子の手の甲を掠めたのだ。それほど深い傷ではない。だが、四年半過ぎても未だにクッキリと残っている。
藤堂は眞理子にとって師であった。だが、最後の最後で、眞理子を一人前にしてくれたのは秋月だ。彼の次男も今年五歳になった。だが……少年は父親の顔を覚えてはいない。
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眞理子は山岳警察のヘリを引き上げさせた。
当然だが、消防からは何の連絡もない。眞理子らには何一つ手が出せず、徒らに時間ばかり過ぎて行く。
「なあ隊長、本当に構わないのか? このまま放っておいて」
事務室の椅子に腰掛け、黙り込んだままの眞理子に水原は問い掛けた。だが、手の打ち様がないのは明らかである。
組織の中で動いている以上、消防を押し退けで出張る訳にはいかない。情けない話だが、待つ身には祈ることしか出来ないのだ。
「仕方ない。消防無線は警察を締め出したんだ。こちらからは連絡も取れない。願わくば、K点を越える前に引き上げてくれたら、最悪の結果は免れる」
念のため、北壁の下に南をリーダーに七原・佐々木・結城の四名を向かわせた。応援という形だが、消防に拒否されたらすぐに引き上げるよう伝えてある。
その時、無線担当の森田千賀子が声を上げた。
「隊長――消防無線が復活しました! 岡村班長と繋がっています」
蹴るように椅子から立ち上がり、眞理子は無線に飛びついた。
『沖だ、どうした?』
『突然すまん。第一陣が降下不可能だと判断して途中で引き上げてきたんだが……』
――出来ないことを出来ると言うのは勇気じゃありません。
岡村は眞理子の言葉が耳から離れなかった。彼自身、それがどれほど無謀なことか、判断しかねていたからだ。本部の命令で彼は第二陣を出動させた。四名中二名がK点を越え、成功したかに思われた。だが、下からではK点を越えるとほぼゴールだが、上からだと、越えてからが正念場となる。彼らはそれを知らなかった。
K点を越え、傾斜の途中で二名の隊員から「もう進めません」と連絡が入る。すぐに引き上げを指示したが……。その時には彼らは戻ることも出来なくなっていた。
そして本部の出した命令は「第三陣を投入せよ」
『まだ、上から行けと言うんだ。だが……無理だ。もう無理なんだ。頼む、助けてくれ! 部下を死なせたくない』
本部命令に逆らうことが何を意味するか、岡村には苦渋の決断であろう。
『判りました。すぐに出動します。無線は』
このまま開けておいて欲しい――そう言おうとした眞理子の声を打ち消すように、割り込みが入った。
『何をやってるんだ、馬鹿者が! あんな女に頭を下げる奴があるか! 岡村、貴様はクビだっ!』
眞理子は無線のマイクを手で押さえ、聞こえぬように軽く舌打ちした。宇佐美である。
『宇佐美分隊長殿、先ほどは申し訳ありませんでした。足りなければ、後でいくらでもお詫び致します。ですから、どうか我々に協力させて下さい』
殊勝に下手に出る眞理子を見て、横から水原が口を挟む。
「隊長! 頭を下げてるのはあっちの班長だろう!? なんで隊長が謝ってまで」
グフッ……。いきなり眞理子の肘が水原の鳩尾に入った。当然、彼は一瞬で黙り込む。
『沖、余計なことをしてみろ、今度こそ査問委員会にかけてやるぞ!』
宇佐美はそう言うと再び無線をシャットアウトしたのだった。
眞理子は、しばし無言で正面を見据える。決断までは五秒を要した。
「立花、美樹原に連絡。もう一度ヘリを出すように言ってくれ。水原、装備を整えて私について来い。麻生、残りを率いて南の応援に回ってくれ」
眞理子は一拍置いて毅然と言い切る――「出動だ」
「はい!」隊員たちは一斉に、敬礼で答えるのだった。