(3)クレーム
富士山岳警備隊本部。通称、五合本部は三階建てである。正面入り口には、別名・桜の代紋と言われる旭日章がついていた。
それは、『東天に昇る、かげりのない、朝日の清らかな光』を表すという。
一般の警察官とは違っても、その日章に恥じぬ心構えで任務にあたりたい、山岳警察官も思いは同じであった。
玄関ホールと左手にある待合室は二階まで吹き抜けだ。
背もたれのないベンチタイプの長椅子が数個並び、東側の壁には古い大型のテレビが一台置かれていた。
待合室はガラス窓の多い採光重視のデザインらしい。分厚いガラスに屈折率を変えられた光は、柔らかい陽射しとなり、長椅子の上にふんだんに降り注いでいる。
「待合室が一杯になる時は……我々にとって最悪の状況ですね」
そのほとんどが、遭難事故等で家族や関係者が待機する場所に使われるという。
受付カウンターもあるが、通常は無人だ。来客はベルを鳴らすように注意書きがあり、カウンターの上に真鍮製のプッシュベルが置かれていた。
カウンターから奥に進むと、そこは無線室だった。無線機器の前には独りの婦人警官が座っている。
無線要員はレスキュー隊員ではない。麓の富士宮署内に設置された静岡県警山岳警察本部所属の婦人警官が配置されていた。彼女らは通いで、今日の担当は森田千賀子巡査だと紹介される。
定期連絡の業務中で話は出来なかったが、ショートヘアで小柄な女性だ。二十代半ばといった辺りか。人懐こい笑顔で水原を見て会釈をした。
窓際の無線室とパーテーションで仕切られた場所に事務室があった。お世辞にも綺麗だとは言い難い。移動式のホワイトボードのせいで、水原や南のような大男ではすれ違うことも苦しそうだ。
水原が事務室の狭さに驚くと、
「デスクワークはほとんどありませんからね。報告書と始末書を書くくらいです」
笑いながら南は言う。だが、浅間山で毎日のように始末書を書いていた水原には、とても笑えない。
事務室から廊下に出ると右手にオープン階段があり、階段越しに正面玄関が見えた。左手は薄暗く、突き当たりにドアが一つある。さっき南が出て来た、裏の宿舎前に出るドアだという。
二階に向かうオープン階段は直線ではなく、踊り場で向きを変えるタイプのものだ。上がりきった場所に鉄製のフェンスがあり、バルコニーのようになっていた。そしてドアを開けて二階に入る。
「二階には仮眠室と留置場があります。三階への階段は仮眠室の奥で……。この複雑な構造は、留置した被疑者を容易に逃がさないため、だそうです」
留置場が使われるのは年に数回なんですが……南は苦笑しつつ付け足した。
三階は会議室と訓練室と呼ばれる広いフロアがあった。水原は何気なく、東側の窓から顔を出し、その環境に驚いた。
建物東側の壁は、フリークライミング訓練用の人工壁になっていたのだ。
「レスキュー隊に入ったものの、登攀経験の少ない隊員もいますからね。訓練に制限はありませんが、隊長の許可が要ります。絶対に無断では使わないで下さい」
南はそんな風に念押ししながら屋上まで上がった。
「あの……他の隊員の方は?」
「山開きに備えて全員訓練を強化してるんです。もうそろそろ戻って来るでしょう。私の相棒は本部内に居るはずですが……」
戻り次第、順次隊員に紹介しよう。そう言いながら南が先に階段を下りて行く。
「他所に比べると富士の五合本部は広いと思います。隊員の数は多くありませんが、全員山岳警察でトップクラスのクライマーです。水原くんは非常に高い登攀技術を持っていると聞いてます。レスキューの技術もそれに追いつくように……ですが、くれぐれも無茶はしないで下さい」
水原は黙って頷きながら南の話を聞いていた。
だが、やはり気になるのはさっきの女性だ。沖眞理子と名乗った女の正体を聞こうと、思い切って口を開こうとした、その時……。
「さっさと責任者を呼べ!」
本部内に中年男性の怒声が響き渡った。
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玄関ホールでは二十代半ばの隊員が登山客らしい男性と押し問答をしていた。
「山に登るな、なんて命令される覚えはない! 我々は勝手に登らせて貰うぞ!」
「ですから、以前はともかく、現在の富士ではそれが規則なんです。基本的に、五合目から先は天候に応じて責任者が判断をしてまして」
「だから、その責任者を出せと言っとるんだ!」
こういったルールは山ごとに違う。規模や危険性がまるで違うので、マニュアルだけでは対応し切れないからだ。
この富士の場合、気象庁との連携で年間を通じて五合本部の責任者が判断することになっていた。責任者……富士山岳警備隊の隊長のことである。
「とにかく、本日は一般の登山客は登頂禁止となっておりまして」
「こんなにいい天気で何が禁止だ!」
「しかし、気象庁が……」
「あんな予報を外してばかりの気象庁があてになるか!」
南と一緒に水原も二階のバルコニーから玄関ホールを見下ろした。
どうやら、天候悪化の予報が出た為、登頂が禁止された模様だ。この中年男性はそれに不満があるらしい。男はいかにも初心者です、と言わんばかりの真新しい登山服を着ていた。
「仕方ないな。――水原くん、すみませんが他の隊員との顔合わせは、午後で構いませんか?」
「はい。自分はどちらでも」
男に噛みつかれている若い隊員が、南の相棒らしい。
水原は南の後をついて階段を下り、裏の出口に向かおうとした。
「恐れ入りますが、富士では気象庁の発表に基づいて、隊長が判断を下すことになっています。皆さんの安全のためです。何卒、ご理解下さい」
南は変わらず穏やかな口調で、若い隊員と男の間に割って入る。
「貴様が責任者か! 冗談じゃないぞ、こんな所で引き返せるか!」
「申し遅れました。私は副隊長の南です」
「誰が副隊長を呼べと言った! 責任者だ。隊長を呼べと言ったんだ! さっさと連れて来い。私はT県K市の市議会議員、大貫先生の秘書だ。先生の富士山登頂を撮る為に、地元のTV局まで来てるんだぞ! 今更中止に出来るか!」
なにも、山開きを明日に控えたこの時期を選ばなくても……。水原はそう思った。この分なら、登山計画書を出しているかどうかも怪しい。
「隊長は本日の勤務は午後からとなっています。それまでは私が責任者代行です。申し訳ありませんが……」
「だったらこっちも勝手にやらせて貰うぞ。いいか、静岡県警の本部長に話を通すことも出来るんだ」
俗物の典型であろう。
極力下手に、穏やかに話をする南に対して無礼極まりない。権力を笠に着た横暴ぶりに、若い隊員は見る間に気色ばむ。だが、南は視線で相棒の暴走を制した。