(10)説得
北壁は北富士側、消防の管轄になる。
そこは四段目のオーバー・ハングが邪魔をして、ヘリでの救助が不可能な場所であった。
かつて、藤堂が隊長を務めていた頃は、山岳警備隊の担当区域になっていた。消防より個人の登攀技術が高いから、という理由である。
トータルで直線距離にして百メートルを超えるコースだ。登攀にはかなりの時間を要する。
四段目に到達する頃には、ほとんどのクライマーが握力も体力も半減している。冷静に判断して三段目で諦めるクライマーが多い中、強行する人間もいたのだった。
だが、ここ数年、高所での事故は発生していない。そのため、消防の担当になってから犠牲者は出ていなかった。
――この日までは。
どんなに急いでも、三時間近くは掛かるであろう距離を二時間弱に縮め、眞理子は十七時前には五合本部に戻った。通常、車では通らない連絡道を突っ切ったおかげだろう。
大急ぎで着替え、眞理子は本部に駆け込む。そして、信じられない報告を聞いたのだった。
「もう一度頼む」
「場所は、四段目K点の真下です。消防は……上から救出に向かうそうです。ヘリで出動した、と連絡がありました」
五合本部の事務室はしんとなる。
無線機から、忙しなく流れる緊迫した声だけが室内に広がった。
確かに、北壁を登りきった場所にはヘリの離着陸可能なスペースがある。そこから昇降機を使って、ということだろう。
だが、基本的にビルなど垂直な壁で使用されるように設計されたものだと聞く。データ上、傾斜のきつい壁では使えないはずだ。
しかも、熟練のクライマーですら、ここを降りようなどという人間はいない。ましてや、レスキューなら尚更だろう。要救助者を背負ってK点越えなど、正気の沙汰ではないからだ。
「北壁の救助活動は下からが鉄則だ。それは伝えたのか?」
「それは警察のルールで消防とは関係ない、と」
「こっちからの応援は?」
「ヘリで麻生・内海組が出ています、が、応援は不要と連絡がありました。消防の出動は第一分隊だそうです」
眞理子は感情を殺したまま、深呼吸して息を止める。
無線機の前に座る森田千賀子の肩に手を掛け、一言指示を出した。
「消防と繋いでくれ」
~*~*~*~*~
眞理子は消防無線に割り込み、現場の責任者を呼び出す。
第一分隊の隊長といえば宇佐美だが、現場の指揮官として岡村班長がいた。レスキューの経験は長く、富士には四月に着任したばかりだという。
上からの救助は事実上不可能であること。レスキュー隊員の安全を確保するためには、時間を掛けても下から事故現場まで向かう以外に方法はない、そういったことを眞理子は伝えた。
しかし……。
『本部命令で出動待機中です。我々が警察の命令に従う義務はありません。任務に支障をきたしますので、これ以上の通信は無用に願います。以上』
眞理子は岡村班長との面識はなかったが、およそ三十代であろう。上司の教育が行き届いているのか、けんもほろろの対応だ。
即座に無線を遮断しそうになるのを、眞理子は引き止める。
『待って下さい! ならば経験者の意見を聞かせて貰えませんか? 北壁のオーバー・ハングを上から越えた隊員を出して下さい。訓練でも構いません』
『……』
『岡村班長。あなたは訓練も無しに、自分にも経験のないことを隊員に命じるのですか?』
『……上からの命令です』
『出来ないことを出来ると言うのは勇気じゃありません。やってみてダメだった、では遅いんです。あなたにも判るはずだ。勇気を出して下さい』
『しかし……』
岡村の声は無線越しにも判るほど、明らかな迷いが生じていた。眞理子の言葉に思い当たる節があるのだろう。躊躇する岡村が決断する直前、無線機から、ピーピーガーガー、耳障りな音が聞こえ始める。
そして流れ始めた声は……更に不快感を覚えるようなものであった。
『こちら、富士吉田消防本部の三沢だ。山岳警察の沖警部……君のやってることは越権行為だぞ! 二度と、消防の邪魔はしない、と誓ったんではなかったか? 今日言ったことも忘れたと言うのかね? これ以上、消防の技術を甘く見るようなら、こちらにも考えがあるぞ』
それは今日の午前中、消防本部で顔を合わせたばかりの三沢大隊長だった。彼がレスキュー隊の総指揮を取っている。消防のキャリアで、現場経験はゼロの人物だ。火の中に飛び込んだら、程よく丸焼けになりそうな脂肪の塊を着ていた。眞理子の謝罪の言葉より、ヒップラインばかり気にしていたような男である。
『沖です。技術云々の問題ではありません。北壁の中でも、腕自慢のロッククライマーは四段目のK点越えを目指します。今回の要救助者もその一人でしょう。しかし、どんな命知らずも上からK点を越えようなんてしませんし、人ひとり背負ってK点越えなど無茶です。……私自身、北壁でパートナーを失っています。お願いします。救助は下から向かって下さい』
表面上はいつもと変わりない沈着な眞理子の声だ。
しかし、その胸の内は、祈りにも似た懇願があった。
――人生にこれ以上辛いことはない。失うものなど何もない。
そんな思いに囚われた眞理子に、まだまだ失いたくないものがある、と教えてくれた人がいた。左手に残った傷跡を見るたびに思い出す。
その思いを、可能ならば生きて後進に伝えたい。
眞理子はギュッと左手を握り締めた。
だが無線から流れた言葉は、
『パートナーを失ったのは、君たちの腕のせいだろう? 消防を一緒にせんでくれ。君の意見は聞いていない。一切、口を出すな! 以上だ』
三沢はそう言い捨てると無情にも無線を切った。
繋がらない無線を前に、「了解」とは言えず……口を引き結ぶ眞理子だった。