(9)二人の距離
昔のことを思い出していた眞理子の耳に、甲高い鳥の鳴き声が聞こえた。それは、山小屋から程近い笹薮を棲み処にしている鶯だ。
「で、何があった?」
軽く斧で薪を叩くと、後は数回、下の台に叩きつけ二つに割る。
「何かないと、来てはいけないんですか?」
眞理子は藤堂の問いに髪をかき上げ、言葉を濁した。だが、適当に誤魔化すには相手が悪い。
案の定――。
「この間ここに来たのは、遭難者を締め上げて意識を落としてから救助したのが表沙汰になった時だったな。あの時は、減俸と謹慎処分を喰らったんじゃなかったか?」
「あれは……危険を回避するために仕方なく。まあ、何とかって大臣の息子だったから大目玉になりましたけど」
眞理子のやることは半端ではない。
水原と島崎を救助に向かった時、「殴り倒してでも担いで行く」と言ったのは、強ち嘘ではなかった。
「今度は何をやったんだ?」
「参ったな……私じゃありません。部下が、消防と揉めまして……六人ほど病院送りに」
「おいおい。怪我は酷いのか?」
「いえ。治療を受けてすぐ戻ったそうです。それはいいんですが」
「どうした?」
「私が隊長なのがそもそもの原因なんです。部下に嫌な思いをさせている……」
眞理子の言葉は、弱音とも愚痴とも取れる内容だ。
だが、決して隊長の責務を放り出したいという訳ではない。強くありたいと願う心と、強くあらねばならない、という義務感。眞理子とて、ただの人間で、独りの女だ。懸命なだけでは心が折れそうになる時もある。
特に、宇佐美のような敵意の塊に出会うと……。
わざと女を意識したファッションでやり込めて見せても、自分が正しいと言い切る自信が持てない。それは、部下の前では決して見せるわけにはいかない“迷い”であった。
この時期、山岳警察が管理する山小屋を利用する団体も多い。
昨夜も、大学の山岳部が利用したという。初日は一合目から、二日目は夜間登山で、五合目から登り、一合目まで歩いて下山する。二日連続で頂上を目指すそうだ。女性の部員もいるようでかなりきついだろう。
この山小屋の利用者は自炊が基本である。管理者としては、場所を提供するだけ、というのが基本スタイルだ。ガスもない訳ではなかったが、藤堂は風呂用の薪を用意してやってるらしい。
大学生らは眞理子の姿を見るなり、山とのギャップに唖然としている。男子学生の頬が緩むのはご愛嬌だ。だが、この女性が山岳警備隊の隊長だと知れば、死んでも遭難出来ないと思うだろう。
「沖、手伝え」
「はい?」
ちょっと顔を見に寄ったはずが……気がつくとジャージに着替えさせられていた。
そして眞理子に渡されたのは、金槌と釘である。屋根に向かって梯子が立て掛けられ、「頼んだぞ」の一言を残し藤堂は行ってしまう。
何でも独りで出来てしまう藤堂だが、おそらく、バランスの取り辛い屋根での作業は困難なのだ。フリークライミングのような計算の利く場所ではない。
(でも、フツー女には任せないよね)
心の中でブツブツ言いながら、藤堂から借りた黒のジャージを着て、眞理子は屋根の上に立った。
顔を上げると富士の頂上が見える。見慣れた恋人の姿を後ろから見ている気分で、それなりに楽しい。逆に視線を下に向けると……。
「四十越えたおっさんに群がるか? しっかりしろよ、男子ども」
藤堂の近くには、さっき眞理子を睨んでいた女子大生が集まっている。
礼儀正しく、当たりがソフトな為、藤堂は昔から女性にモテた。水原や緒方のような、ガサツで無神経な山男、という印象は藤堂にはない。スーツを着れば、ごく普通のビジネスマンに見えるだろう。だが中身は……かなりの朴念仁である。
(昔は脱いだら凄かったけど……今はどうなんだろ?)
ボンヤリと藤堂を見つめていると、妙な気分に囚われそうになる。
「……何を考えてるんだ、私は。――さっさと終わらせよう」
眞理子は大きく頭を振ると、自らを叱咤し、屋根の修理に取り掛かったのだった。
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結局、掃除や水汲みまで手伝い……すでに十五時近くだった。
眞理子は化粧を落とす為、頭から水を被る。そして、元のミニスカートに穿き替えた。
「隊長。いい加減、一緒に手伝ってくれる奥さんを見つけたらどうですか?」
「誰がこんなロッジに嫁に来るんだ?」
「風見……本部長が言ってました。私が引退後に来る気じゃないかって」
言葉にし難い空気が二人の間を流れた。
やがて、それを打ち破るように藤堂が口を開く。
「沖、俺はもう隊長じゃない。ただの、ロッジの管理人だ」
「私にとって隊長は、八十を過ぎてヨボヨボになっても、藤堂隊長ただ一人です」
冗談めかして答える眞理子に、藤堂が苦笑しつつ言ったことは……。
「お前の部下にとってもそうだ。隊長のために、消防をぶん殴るんだ。……良い部下を持ったな」
「――はい」
昔のように、頭を撫でられて髪をクシャっとされる。それは気恥ずかしくもあり、泣きたいほど嬉しかった。
自尊心を掲げ、人命救助に誇りを持って任務に当たっているとはいえ、やはり認めて欲しいのは事実だ。部下達には「よくやった」と言えるが、眞理子にそれを言ってくれる人間はいない。
藤堂は眞理子の欲しい言葉をくれる。
それが聞きたくなった時、眞理子はここを訪れるのだった。
ホッとした、その時――眞理子の携帯が喧しく鳴った。五合本部からである。
『はい、沖だ。どうした?』
『南です。お疲れ様です。緊急の第一報がこちらに入りました。場所は……北壁、それもK点です』
南らしくテキパキと答える。
だが北壁、そして、K点の言葉に眞理子は一瞬で浮ついた気分が吹き飛んだ。
K点とは山岳警備隊内でつけた通称であった。スキーのジャンプ競技における建築基準点の一つ『極限点』からきている。これ以上飛ぶと危険、と言われるポイントだ。
ロッククライマーにとってチャレンジはしたいが、そこは、これ以上は危険と言われる前傾壁であった。高さ二十~三十メートルクラスの壁が四段になっており、そのK点は最上部に位置している。
『エリアは消防だな。遭難状況は』
『二名が墜落、一名は約十メートル落下、一名は最下部まで。状態は不明です。場所が場所だけに緊急をかけました。すぐに戻っていただけますか?』
『了解。戻るまで、三……いや二時間だ。ヘリを出して状況確認。消防と連携を取って、向こうの指示に従え。但し、喧嘩は売るなよ』
『……了解しました』
眞理子は携帯を切り藤堂に向き直る。
「……K点で墜落事故です」
それだけで藤堂には緊急度が伝わったようだ。
「充分に気をつけろ」
「はい。行ってきます!」
サッと敬礼をすると、眞理子は藤堂に背を向け走り出した。
――五年前、眞理子にとって藤堂はレスキューより大事な人間であった。
だが今は……眞理子はパジェロに飛び乗ると、赤いパトライトを点灯する。そして、彼女を必要とする仲間の許に、急いだのであった。