(8)初恋
デートの一言で風見を追い払い、眞理子は車を走らせた。
(デート……か、半年くらいしてないな。それ以上は……何年だろ?)
相手にはこと欠かない眞理子だ。
彼女のルックス頼みで、婦警の合コンにはよく引っ張り出される。山で知り合った男性から熱心に誘われることもあり、どちらにしても、二・三回デートに付き合ってはフェードアウトがいつものことだ。
それもそのはず……デート中に緊急で呼び出されることも度々で、ドタキャンは日常茶飯事である。おまけに、眞理子からは連絡を取らないため、男が離れるのも仕方なし、といったところか。
まさに、来る者は拒まず去る者は追わず、だ。
眞理子にとって初恋の男性は、着任当時の隊長・藤堂潤一郎であった。
十三歳も年上で、結婚歴のある大人の男性だ。山岳警察創立当初からのメンバーで、レスキュー・登攀技術とも、山岳警察一と言われていた人物である。
ハイキング程度で登山経験もなかった眞理子に、一から十まで教えてくれた。レスキュー隊員としても隊長としても、彼から学んだことが眞理子にとって全てである。
その藤堂と、隊長と部下の関係が崩れたのは、眞理子が着任三年目の冬、二十一歳の時だった。当時の副隊長・風見から告白され、眞理子が押し切られるように付き合い始めた直後のことである。
藤堂隊長と共に激流に落ち、二人は流された。冬山で一晩過ごすことになり……裸で寄り添ううちに、男女の一線を越えてしまう。
もともとが、『藤堂隊長命』の眞理子である。最初は年齢差や立場と、男の責任の間で板挟みになる藤堂だったが……。惹かれ合う気持ちは抑えられず、二人は周囲に内緒のまま、逢瀬を繰り返していた。
問題は風見である。眞理子から交際を断わっても……藤堂との関係を知らない風見は受け入れようとしない。今の眞理子ならともかく、当時の彼女には男を上手くあしらう術など持ち合わせておらず。結果、風見の言ったように“二股”になってしまったのだった。
最終的にバレたのは、半休の眞理子が夜勤明けの藤堂の部屋を訪ねて……色々しているところを風見に見られるという最悪のパターンだった。当然、副隊長は怒って隊長を殴り、宿舎内は大騒ぎになる。他の風見以外の隊員たちは眞理子と藤堂の関係に気づいており、見て見ぬ振りをしていてくれたのだが……。
(部下たちに知られたら……洒落になんないよなぁ)
眞理子は“若気の至り”を思い出し苦笑する。
藤堂との関係は約三年続いた。
そして五年前、レスキュー中のへリの事故で藤堂は怪我を負い辞職。今は北富士の新五合目で警備を兼ねた山小屋の管理人をしている。一応、山岳警察の嘱託職員だ。
事故直後、眞理子は藤堂と共に山を下りようと考えていた。だが、逆に別れを告げられ、後任の隊長に指名されてしまう。一時は断ったものの、翌春、眞理子は隊長の任を引き受けたのだった。
風見は、眞理子がただ一度、山を下りる決意をしたのが藤堂のためだと知っている。
しかも藤堂は四十を過ぎた今でも独身だ。それは眞理子が最後まで任務を全うし、その後、自分の許に戻って来るのを待っている。――風見はそう思っているらしい。
確かに、眞理子が自分から望んで愛した男は藤堂ただ一人だ。彼の前には誰もおらず……その後は、誰と付き合っても、どこかで藤堂と比べてしまう。
彼以上のレスキュー隊員も男性もいない、眞理子は心の奥にその想いを消せずにいた。
予定よりまだ早い。
見上げた看板に「富士スバルライン」の文字があり……眞理子はハンドルを切り、吉田口に近い新五合目に車を向かわせたのだった。
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消防本部のある富士吉田市内は三十度を超える暑さだ。それが「富士スバルライン」の料金所を過ぎて上に向かうと、肌で気圧と気温の変化を感じられるようになる。
吉田口は富士登山で一番ポピュラーな登り口だ。全体の約半数が吉田口から登るという。警戒には所轄の警察官が当たっているが、車上荒らしなどの犯罪も少なくない。マイカー規制時はともかく、それ以外は駐車場の巡回に手を取られるという。
富士宮口と同じく、新五合目にある所轄の交番に挨拶をして、そんな話を聞きつつ……。眞理子は少し下に位置する山小屋に向かった。
そこは通常の山小屋と違って、一般客はほとんど利用しない。夜間も常駐していることで、緊急時の避難所的な使われ方をしている。後は全国の山岳チームが訓練や捜索協力の際、足場に使うくらいだ。
この辺りはまだ背の高い木々が生い茂っている。眞理子はミュールをスニーカーに履き替えており、早足で緑のトンネルをくぐり抜けた。
さほど大きくない山小屋が見える。その近くで斧を手に一人の男性が背中を向けて立っていた。
「藤堂隊長!」
薪を割っている最中らしい。
少しぎこちなく振り向いた藤堂の右足は――義足であった。
「……沖、か? お前……とうとうクビになったのか?」
「え? あ、いえ……これにはちょっと、理由がありまして」
確かに山岳警備隊の隊長のファッションではない。藤堂は目を丸くするが、口元は笑っている。どうやら、言い淀む眞理子をからかう感じであった。
「十年前は、制服以外のスカートを穿いたことがないとか拗ねていたが……とても同じ奴とは思えんな」
「よく言いますよ……」
(隊長が女にしたくせに)
眞理子は微妙に赤くなり、そんな言葉を飲み込んだ。
藤堂の前に立つと、時計は一瞬で巻き戻る。今の眞理子は隊長の顔ではなかった。
藤堂潤一郎――山岳警察の富士山岳警備隊に十五年勤め、内七年間は隊長の任に就いていた。辞職時の階級は警部。ちょうど五年前の夏、二階級特進をギリギリで回避し、代わりに右足を失う。
彼は大学卒業直前に結婚した妻がいた。しかし結婚から半年後、妊娠七ヵ月の早産で母子共に亡くなったのだ。藤堂は十年以上、ほとんど山を下りることなく、出家僧の如く籠り続けた。
そんな彼の人生に、飛び込んできたのが眞理子だった。
怪我から半年の入院、更に半年のリハビリを経て、藤堂はそれでも山に関わることを選んだ。ロッジの管理人として山に戻り、現在では簡単なフリークライミングも可能で、山頂までの往復は軽くこなせるという。
藤堂の復帰以降、年に数回眞理子はここを訪れている。だが、様々な問題があり、二人が縒りを戻すようなことはなかった。
それでも、眞理子にとって藤堂は、何があっても最大級の信頼と尊敬を捧げる『隊長』なのだった。