(7)技あり?
富士吉田市の消防本部・来客専用駐車場に、富士山ナンバーのジープが颯爽と乗りつけた。
時刻は朝の九時少し前。車はパジェロのショートボディ――消防車に負けないくらいのレッド・メタリックだ。運転席側のドアが開き、スラリと伸びた生足が地面との間に見えた。朝の光に小麦色の肌と真っ白のミュールが照らし出されている。
独りの女性が車から降り、荷物を取り出そうと上半身だけ車内に突っ込んだ。
ブラックデニムのミニスカートはタイトなラインだが裾が少し開き気味になっている。そこから見える太腿に、夜勤明けの消防士の目は釘付けだ。
やがて、デイパックを抱えてその女性は車の脇に立った。――富士山岳警備隊、隊長・沖眞理子である。彼女は軽く胸を張ると、バンッと車のドアを閉めたのだった。
「隊長……それは、本気ですか?」
宿舎を出るとき、副長の南が唖然としていた。
「今日は一応非番だし……呼び出しは口頭で書面では来てないしね。制服で、って指定はなかったはずだから」
「いや、それにしても……」
白の半袖シャツは第三ボタンまで開襟で、インナーは真っ赤なショート丈のキャミソール。谷間のみならず、おへそまで見え隠れしている。
いつもは一纏めにしてる髪を下ろし、それだけでも随分印象が違うだろう。
加えて、普段は日焼け止め程度の化粧も、今日は口紅のみならずグロスまでつけ、アイラインを引きマスカラまで入っている。
「はよーございま……す」
食堂に下りて来た水原も、一気に目が覚めたらしい。“女”の眞理子を見て、しばらく固まったままであった。
消防本部内に足を踏み入れた瞬間、眞理子は一斉に注目を浴びる。
手近な女性職員に声を掛け、本部長室まで案内されるが……その間、男性職員の血圧を上げまくっていたのだった。
「き、き、きみは……それはどういう……格好だ」
喘ぐように声を上げたのは、昨日、五合本部に怒鳴り込んできた宇佐美分隊長である。
室内には宇佐美だけでなく、既に全員が揃っていた。消防の香田本部長をはじめ、富士レスキュー隊の三沢大隊長、警察からは山梨県山岳警察本部の麻生本部長、管区山岳警察局の岸岡局長、そして、風見本部長である。
「遅くなりました。本日は非番のため私服で失礼致します」
眞理子はデイパックを足下に置き、そのままゆっくりと姿勢を崩さず礼をした。全員が彼女のわずかに持ち上がったスカートの裾と、見えそうで見えない胸元から目が離せない。
岸岡局長は眞理子を見るなり噴き出したお茶をハンカチで拭いつつ、それでも頬が緩んでいる。
「ま、まあ、夜勤明けじゃないのかね? 遠くまで疲れただろう。座りなさい」
下心丸出しで自分の隣を進めようとするが……。
「こ、こういう奴なんだ! こいつは消防を馬鹿にしている! これでお判りになったでしょう!?」
宇佐美分隊長は立ち上がり、眞理子を指差して喚き始めた。
しかし、眞理子はそんな宇佐美を無視し、蠱惑的な眼差しと微笑を他の男性陣に向ける。
「とんでもない、宇佐美分隊長。これでも失礼のないように、メイクもしてきたんですよ」
酸欠の金魚みたいに、口をパクパクしている宇佐美はさておき……。
麻生本部長は咳払いをしつつ、表情を引き締めた。
「沖くん。君は何のためにここに呼ばれたのか、判っているのかね?」
目一杯深刻そうに、麻生は叱責めいた言葉を口にしてみせる。
「もちろん了解しております。昨日は、部下が大変失礼致しました。ここに謹んでお詫び申し上げます」
昨日とは打って変わって、至極真面目な顔になり……眞理子は消防に謝罪したのだった。
消防のお偉いさん方にとって、眞理子は“山岳警察のレースクイーン”程度の認識しかない。いざという時には頼れると聞いてはいても、目の当たりにした訳ではないからだ。逆に、目の前でちらつく生足のほうが強烈だろう。覿面、彼らの当たりはソフトになった。
――まあまあ、大した怪我じゃなかったんだし。怪我人は六人でも、消防はその場に十数人いたというじゃないか。喧嘩は両成敗が基本だよ。
といった声に宇佐美以外の全員が頷き、山岳警備隊の三人は口頭での厳重注意と始末書の提出、眞理子は注意処分で済まされたのだった。
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「相変わらずだな……ったく、その胸は凶器だよ」
午前中いっぱいは拘束されるだろう、と予想していたのが、十時半には解放された。そそくさと引き上げようとする眞理子を、駐車場で呼び止める声が……風見である。
「どういう意味ですか? これ以上消防と揉めるな、円満に解決してくれ、というお言葉に従い、努力したつもりですが」
今日の顔ぶれの中で、年齢からいっても立場的に風見が一番下だ。穏便に、と思う気持ちは眞理子にも判らないではない。
「まあ、確かに円満解決ではあるがな。しかし、そんなに部下が大事か? 俺には判らん感覚だな」
風見はキャリアであったため、レスキュー経験もなく登攀技術も乏しいのにいきなり副隊長に据えられたのだ。そのため、眞理子とは別の意味で仲間外れの扱いだった。
「彼らは私を信じて命を預けてくれるんです。期待と信頼には応える義務がある。私自身、隊長にそうして頂きましたから」
車のロックを開け、デイパックを放り込みつつ、眞理子は答えた。
そんな彼女の様子に、風見はとんでもないことを言い始める。
「この間、藤堂隊長に会ってきたよ。相変わらず、独りなんだな。山を下りたらさ……やっぱ隊長と一緒になるのか?」
「な……なんでそうなるんですかっ?」
唐突に掘り返された昔話に、眞理子の声は上ずった。
すると、それに合わせたように風見の口調もグッと砕けたものになる。
「ひっでーよな。俺と付き合ってもいいって言っといて、ちゃっかり隊長と二股掛けてんだから」
「副長! あ……いえ、本部長。その件はあの時に散々謝ったはずです。若気の至りです。いい加減に忘れて下さい」
「久しぶりに聞いたな“副長”って……なあ、今日休みなんだろ。昼飯でも付き合わないか?」
(男って奴は……)
眞理子が少しでも気を許すと、風見は遠慮なしに踏み込んで来る。ずうずうしく肩に置こうとした手を、眞理子は思い切り撥ね除けた。
――その時だ。
「ほおぉ……随分と仲のよろしいことで」
振り返らずとも声の主に見当はついた。耳にするだけで不愉快な気分だ。眞理子は小さなため息と共に、落ちてきた前髪をかき上げる。
そんな彼女に代わって、言い返したのは風見だった。
「宇佐美分隊長、彼女とは旧知の仲だ。同じレスキュー隊にいたのでね」
「ええ、ええ。色々お聞きしてますよ。しかし、女性は得ですな。ましてや、彼女ほどの美人となれば……出世の手段はいくらでもある。今日もそうだ。男を骨抜きにする腕はさすがだな」
――この程度のことも、現場で解決出来ないのかね?
眞理子が穏便に済まされた分、本部長連中の不満はこの宇佐美に向かった。それが我慢ならないようだ。
「おいっ! 口の利き方に……」
「お褒めに預かり光栄です。でも、分隊長殿を骨抜きに出来なかったのは残念ですね」
風見の言葉を遮り、眞理子は一歩前に出る。内容はともかく、彼女の目は笑ってはいなかった。
「貴様ぁ……覚えていろ!」
結局、眞理子に口では敵わないと思ったのだろう。定番の捨て台詞を残し、宇佐美はすごすごと引き下がったのだった。
「おいおい、いいのか?」
あくまで喧嘩腰の眞理子に、風見のほうが心配そうだ。
そんな風見を振り返ると、眞理子はパッと表情を変えた。
「では本部長殿、デートの約束がありますので、失礼致します」
「え? デートって」
絶句する風見を残し、眞理子はさっさと車に乗り込んだ。そして、あっという間に駐車場から走り去ったのだった。