(5)四年前…
結城より緒方より……隊員の中で、南が一番の眞理子の信奉者である。
彼には不遇の時をたった二人で乗り越えてきた、という、特別な想いがあった。
今からちょうど四年前、南は同じ静岡県警の南アルプス山岳警備隊から配置転換してきた。三ヵ月後の十月には、なんと副隊長に就任。理由は……富士全域の救助活動を消防に移行するとの計画が出て、人員を大幅に削減されたからである。
南は大学時代、ロッククライマーとして各種大会に出場し、輝かしい成績を残してきた。彼は地元採用の公務員を志していたが、大学の先輩から山岳警察の存在を聞き警察官となる。
だが母子家庭ということもあり、いざレスキューを志願する時には随分悩んだものだ。結局、母親を説得して山岳警察に入ったものの……南は最初の出動で取り返しのつかない失態を犯してしまったのだった。
無論、全てが南のせいではない。当然、責任問題にもなってはいなかった。
だが、彼の生真面目過ぎる性格が災いし、レスキュー隊員一歩目で躓き、一気に自信を喪失してしまったのである。そうなれば、悪い面ばかり出てきてしまう。考え過ぎて、瞬時に決断が下せなくなり……。前評判が高く期待されていた分だけ、レスキュー隊に南の居場所は無くなっていくのだった。
そして、レスキューを辞めようと思っていた矢先、富士に転属の辞令が下りたのである。
女性の隊長……しかも年下。
南が着任した時、眞理子は二十五歳、隊長に就任して三ヵ月目であった。
表面上は穏やかに過ぎて行く。
南は黙々と任務をこなし、眞理子に目立った反抗はしなかった。
そんなある日、南アルプスの隊長が富士の五合本部を訪れたのである。彼は南のことを「技術が高いだけでレスキューとしては使えない」とわざわざ眞理子に言いに来たのだ。どうやら形だけとはいえ、副隊長就任が面白くなかったらしい。
結果的に、南に責任はないにせよ、遭難者の救助が遅れたのは事実だ、と言われ……南は元の上司の言葉を苦渋の思いで受け止めた。しかし、そこに眞理子が口を挟んだのである。
「終わったことです。今更言っても仕方がないでしょう?」
その瞬間、南は切れた。
上は人員を削ろうとしている。加えて、女の隊長に不満を持ち配置換えを希望する隊員を、眞理子は慰留しようともしない。南が副隊長になったのも、他には誰もいないせいであった。
南の中に渦巻いた複雑な思いが容量を超え――。
「人ひとりの命を、仕方ない、で済ませる人間にレスキューは務まらない! だから、皆に見捨てられるんです。あなたはレスキュー失格だ!」
それは、南が眞理子に対して、初めて見せた反抗だった。
だが、そんなことがあっても淡々と仕事をこなす辺りは、南の長所であろう。一方、眞理子も逆の意味で『多少のことには動じない』という長所を発揮していた。
そして、季節は過酷な冬に入り――二人の関係は転機を迎える。
当時、山岳警備隊と言えども名ばかりと成り果てていた。実際は消防の下働き状態である。
そんな時、眞理子は消防の応援要請を断わり、出動を拒否したのだ。理由は“連続出動時間超過”山岳警察の規定から外れるというものだった。休憩と仮眠を取らなければ充分な活動は出来ない、と。
そんな眞理子の言動に、南は不信を抱く。五合本部から程近い距離、消防が到着するまで先行して欲しいという要請は妥当なものに思えたからだ。
今この瞬間、雪の中で凍えながら救助を待つ人がいる。それを無視して、温かいベッドで眠ることなど出来るはずがない。
だが、眞理子は違う。
それまでも、時間が過ぎると捜索中でも眞理子は引き上げる。消防からは「こっちも女の隊長が欲しいよ」と揶揄され、南は屈辱に耐えてきたのだ。女の身には仕方ないのかもしれない、だが、自分まで同じに扱われるのは我慢ならなかった。
その結果――南は隊長命令に逆らい、単独で出動してしまう。
しかし、レスキューとして冬の富士は初めての彼にとって、吹雪の中の単独行動など自殺行為に過ぎなかった。加えて、眞理子に対して虚勢を張って見せたものの、南の体力も限界が近かったのだ。ハードな山開きの時期からずっと、秋以降は非番も返上で働いている。
だが、例えそうであっても、自分を必要とする人間がいるなら……。
自分に助けられる命があるのなら……。
南はビーコンを頼りに雪の中を懸命に捜索した。
そして見つけ出した遭難者は、既に息を引き取っていたのだった。
その後、待てども消防から応援は来ず、逆に遺体の回収を指示される。
南は板で簡易的な担架を作り、橇のように雪の上を引いて戻ろうとした。遺体は可能な限り発見された状態で連れて帰る、それがレスキューの基本である。南もその教えに従い、懸命に努力した。
だが、近いはずの目的地までどうにも辿り着けない。二次遭難の文字が頭に浮かび、南の心に迷いが生じる。立ち止まれば、雪は急速に体の熱を奪う。次第に、寒さと疲労で一歩も動けなくなり……。
――人間は割と簡単に死ぬもんだな。
南がそんなことを考えた時、不意に名前を呼ばれた気がした。
薄れゆく意識の中で、温かい手が頬に触れ……「南、もう大丈夫だ」と繰り返し聞こえた気がしたのだった。
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南が目覚めた場所は、富士宮市内の警察病院だった。
「もう少しで、耳と鼻が捥げるとこだったんだぞ。死体担いで死に掛ける奴があるか」
医者にそう言われ、鏡を覗き込むと……軽度の凍傷で患部は真っ赤に腫れあがっていた。「いい男が台無しだ」と医者は笑うが、南は到底そんな気分ではない。
「もう少し早く発見出来ていたら……」
後悔と反省の言葉が口をつく。そんな南に、医者――外科の佐野先生は言ったのだった。
「沖から話は聞いたよ。だがな、お前らはレスキューロボットじゃないだろう? いや、機械だってメンテが要るんだ。人間なら尚のこと……そんなことじゃ気付いてないな。沖が定期的に休息を入れるのは、お前さんの為だって」
その時、ようやく気づいたのだ。自分を助けに来てくれたのが、眞理子であることを……。