(4)副隊長
「三人を残した私のミスです。予測可能なことでした。本当に、申し訳ありませんでした」
南は両手を大腿の横に付け、直立不動の姿勢を取った。そのまま、九〇度頭を下げる。
「違います! 南副長のせいじゃありません!」
結城がそう叫ぶと、水原や緒方も口々に「自分たちのせいです」「すみませんっ」と思い切り頭を下げた。
眞理子は窓枠に腰掛け、腕を組んだまま三人を睨んでいる。
「で? 六人病院送りだって? 喧嘩は勝たなきゃ意味ないけどさ。それにしてもやり過ぎだろ? 水原」
名指しされ、水原は恐縮しつつ「す、すみません」と小声で謝った。
眞理子の予想通り、六人中三人を独りでぶちのめした犯人はこの男である。眞理子は南に六人の容態を聞き、全員軽傷で任務に支障なし、という報告に胸の内で安堵した。
大した怪我がなくて良かった。で済ませたい所だが、そうもいかないだろう。眞理子は表情を緩めぬまま、口を開く。
「消防の応援に出る時は、何を言われても無視するように。どんな挑発にも応じるな。そう言ってたはずだよ。常に冷静に……それも訓練だ、と」
「いや……でも」
隊長を笑い者にされることだけは我慢ならない。三人は一様に、そんな眼差しで見つめる。
眞理子は降参するように両手を挙げ、
「あのね……消防の上層部は私が動けることを知ってる。でも、手を出してくれるな、と言われてるんだ」
現場で最前線に立って指揮を取る――そんな指揮官は、彼らにとっては目障りなのだ。
過去の様々な失敗から、山岳警察では現場での判断は隊長に一任されている。
命令系統を正確に辿れば、まず、隊長は現場の状況を麓の本部に逐一報告しなければならない。それを受け、本部長をはじめ上層部が会議で決定し、その都度、隊長に命令する……というものだ。
だがこれを繰り返すと、鉄砲水が押し寄せ濁流が渦巻く渓谷を、五分で横切れと言い出す連中が必ず出てくる。僅かな距離を進む為に、恐ろしく迂回しなければならないのが山なのだ。もちろん、ヘリでひとっ飛びのケースもあるだろう。しかし、いつでも何処でもヘリが使えるとは限らないのだ。
だが消防の場合、現場の責任者である分隊長は決定的な判断は本部に指示を仰ぐと言う。最新の映像機器などを利用している消防ならではかも知れない。どちらが良いにせよ、現場での行動が山岳警察とは明らかに違うものであった。
「隊員たちの混乱を招く……それが理由だ。彼らには彼らのやり方がある。求められたら動くが、自分の評判を気にして消防の面子を潰すつもりはない。それが判ったら二度とやるな」
「……」
今度は沈黙だ。あそこまで言われて黙っていては男が廃る、とでも言いたげである。
「引っ込んじゃいられない、か……いいだろう。次はクビを覚悟してやれ。但し、その時は私のクビも飛ぶってことを忘れるな」
「あの……今回はどうなりますか? 俺らって傷害罪で捕まったりします?」
緒方は上目遣いでおずおずと質問する。
頭を抱える眞理子の横で、
「緒方、君は警察官だろう。刑法二〇四条を思い出すといい。忘れたのなら、二階の留置場で勉強しなおせ。遠慮はいらない、三人分の食事は運んでやろう」
副長らしからぬ辛辣な口調に、黙り込む三人であった。
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深夜二時――南は宿舎を出て、五合本部の裏口へと向かう。
灯りと呼べるものは、宿舎玄関の常夜灯と彼が手にした懐中電灯のみ。周囲は深遠の闇に包まれ、足下の穴さえ気づくことは出来ないだろう。空気はしんとしてかなり冷たい。夏の夜でもここはジャンパーが手放せない環境だった。
裏口を入ると、事務室のドアからアンバランスに漏れた灯りが見える。眞理子と水原の修理したドアが、少し傾いているせいだ。苦笑しつつ、南はドアをノックした。
「南です。隊長、よろしいですか?」
「南? どうした?」
昼間と変わりない眞理子の声が聞こえる。
ドアは苦しげに軋みながら開き、南は軽く会釈して中に入った。
「今日のことで……県警から連絡があったと聞きました」
「ああ……明朝九時に富士吉田市の消防本部に行けってさ。自分ちに引き摺り込んで、いびり倒そうって腹らしい」
眞理子は勤務中なので制服姿のままである。コーヒー片手に、報告書に目を通していたようだ。そして、重々しい本部命令とは裏腹に、口調は軽く、気にしている様子もない
だが、南は申し訳なさで一杯だった。
眞理子は部外者の前で部下を叱責したりはしない。どんな理由があるにせよ、まずは全面的に庇ってくれる。今日のことが良い例だ。
普通の上司なら――三人の非を認め、宇佐美に謝罪させたであろう。中には、パフォーマンスのように部下を怒鳴りつける隊長がいることも、南は知っている。
眞理子は、矜持のために殴り合う、男の意地を知っている人間だ。
そして彼女自身も揺るぎない矜持を持っている。部下を守るためなら、彼らの見えぬ場所で頭を下げ、必要とあれば自らのクビも懸ける。
「今回は私の責任です。私が出頭します。謝罪や引責が必要なら私が……」
「まあまあ、落ち着きなよ。殊勝な顔して説教を聞いて、詫びを入れたら済むことじゃない。いつものことだよ、どうしたの南?」
南の思い詰めた表情に眞理子のほうが驚いたようだ。確かにこれまでにもなかったケースではない。だが……。
「風見本部長にそういった弱みを見せるのは、嫌ではないかと思いまして。余計なお世話かも知れませんが、隊長はまだ……」
南は眞理子と風見の関係を知っている、数少ない人間の一人だった。
隊長となって二年目、眞理子は風見との結婚より、富士を選んだ。だが、それは決して風見に対する特別な想いがなかった訳ではないだろう。その証拠に、風見がわざわざ結婚を決めたと山まで報告に来た翌日、南は初めて凡ミスで墜落する眞理子を見た。
そしてこの春、二人は再会したのだ。風見の目は間違いなく眞理子を追っている。そして眞理子は――。
「それって……私に不倫しろってこと?」
「いえ、そうではありません。本部長と真剣に話し合われて、可能なら離婚してやり直されたほうが」
そんな南の言葉を遮るように、笑いながら眞理子は言った。
「妻とは別れる、今度こそ山を下りて結婚してくれ。って言われたけどね」
「ええっ? そ、それで……」
南は自分で提案したものの、実際に聞くと慌てふためいてしまう。
「返事はノー。当然でしょう? そういう台詞は別れてから言えって」
バシッと手の平に拳を叩き込みつつ、即答する眞理子に正直ホッとする。
そんな南の様子をどう思ったのか、眞理子は独り言のように呟き始めた。
「もし、ね――山を下りなくてもいい、って言ってくれたら、結婚してたと思う。でも、どっちかを選べって言われたら……。後悔はしてないよ。ただ、結婚するって聞いたら、動揺くらいはするさ。私も本気だったからね。
ま、どっちにしても過去の話だ。私だって恋愛はしたいし、幸せにもなりたい。こんな仕事しながらじゃ中々だけどね。それでも、人の亭主寝取るほど不自由はしてないよ。これは答えになってない?」
椅子に逆向きで座り、背もたれに肘をついて南を見ている。その柔らかい笑顔は、富士の山頂から見るご来光のように光り輝いていた。
「いえ……失礼しました。その……隊長を失うことになるんじゃないかと思って。余計なことでした……すみません」
呆けるように眺めていた自分が恥ずかしく、南は赤面しつつ答える。
「いつかはいなくなる。女だから男より力が落ちるのは早いと思う。あと二・三年、持って五年くらい。いつか山を下りる日が来ることは覚悟してる」
「まだ、早いと思います。この富士には隊長が……」
「そんなことないって、南なら今すぐだって充分に」
「止めてください!」
冗談口調の眞理子に対し、南は真剣そのものだった。
「判った……ごめん」
「いえ、すみません。それではお先に失礼します」
「ああ、おやすみ」
眞理子の顔を見ることが出来ず、南は逃げるように退出した。
いっそ出動でもあれば気が紛れるものを……南はそんな不謹慎な思いに囚われる。だが彼の思惑に反して、山の夜は静かに過ぎて行くのだった。