(2)困った連中
富士宮警察署の真横に、静岡県警山岳警察本部の庁舎があった。三階建ての立派な建物だ。
自動ドアの玄関を入ってすぐに受付があり、職員のほとんどが一階フロアで勤務している。彼らは山岳警察職員――警察官ではなかった。登山計画書の受理や、山の安全についての出張講習会なども行っている。
二階には、遭難事故発生時の捜索本部以外に使い道のない大会議室があり、本部長室は三階だ。
金色のプレートが付けられた観音開きの扉を開けると、まず、事務官やら補佐官の勤務する部屋があった。その奥が本部長室である。
朱色の絨毯や濃い色調の壁紙、窓際には重厚なデスクが置かれ、豪華な革張りの椅子は肘掛付きだ。ソファも当然革張りで、テーブルは大理石に違いない。
この部屋に入るたび眞理子は思う。無駄なところにばかり予算を使っている、と。
「九月の定例会議なんだが、私は本庁に行く用があってね。済まないが、代わりに出てくれないか?」
「本部長の代わり……ですか? いや、しかし、それは」
風見本部長の要請に眞理子は戸惑いを隠せない。なぜなら、定例会議はほぼキャリア組の会議だからだ。総本部長を筆頭に管区局長や本部長クラスの集まりである。眞理子のような現場の指揮官が出るような席ではない。
警備隊の隊長は、隊長会議と呼ばれるものに出席する。しかし眞理子は、それにもほとんど出たことがなかった。そういった集まりに出席する役目は副隊長の南に一任している。
だが、今回はそういう訳にはいかないようだ。
「那智総本部長のご指名だ。君に久しぶりに会いたいってさ」
「指名……ですか?」
キャバクラと間違えてるんじゃないだろうな……と思ったが口にはしなかった。
それに那智総本部長の名前を出されては断われない。那智は、眞理子の富士着任時の本部長……今の風見の役職にあった。随分世話になった手前、指名とあれば断わるわけにはいかない。
「判りました。総本部長には逆らえません、悲しき宮仕えですから。で、場所は?」
「……鹿児島の屋久島だ。ちなみに副本部長の長岡さんにも同行してもらう。今更嫌とは言わないよな?」
「後だしの条件が悪すぎませんか?」
ムッとした表情で睨む眞理子に、風見は両手を合わせて頭を下げた。
おそらく、このかなり砕けたムードを目にした連中は、眞理子を風見の愛人だと短絡するのであろう。
静岡県警山岳警察本部長、風見尚也警視正。
彼は眞理子より六歳年上の三十五歳だ。なんと七年前まで、富士山岳警備隊の副隊長をしていた。
キャリアである彼は眞理子と同時期に着任、三年弱勤めて山を下りた。そして、山を下りる直前の数ヶ月と、眞理子が隊長に就任した後一年くらい、極めて個人的な交際があった。
山岳警察に配属されたキャリアの中には、現場のレスキュー隊員を希望する者もいる。
この風見も見た目はクールだが、中々正義感や使命感に燃えており、雪山に詳しかったこともあって現場での勤務を希望した。肩書きだけは副隊長として着任し、直後、彼に下された命令は……眞理子を追い出すこと。
どの課でもお荷物と判断された眞理子に、懲戒理由となるような失態をさせるよう命じられたのだ。そのため、当初は子供染みた嫌がらせを山のようにして、天敵のような間柄だった。それがある時、二人で出動した際に、眞理子を困らせようと企んだことから危うく二次遭難という憂き目に。それを眞理子の機転により救われ、風見は態度を改めたのだった。
その後、当時二十一歳で恋愛に疎い眞理子を、風見が強引に押し切る形で交際を始める。が……様々な理由から上手くは行かず、起死回生のプロポーズすら断わられ、風見は独り山を下りた。
その五年後、フリーになった眞理子に風見が再チャレンジした。当時、福岡勤務だった彼は、デートの為に毎月富士まで通い続ける。そして、眞理子の二十七歳の誕生日に満を持して二度目のプロポーズをしたが――玉砕。
二人は恋人関係に終止符を打ち、数ヵ月後、風見は見合いで結婚を決めたのだった。
そして、この春である。風見は警視に昇進し、本部長として富士に戻ってきた。
彼にすれば、強引に断ち切った恋心なのだ。相変わらずの女神の勇姿に、未練が目覚めぬはずがない。そんな風見の態度は人の噂となり、愛人説の切っ掛けとなったのだった。
「屋久島かぁ。出来れば、俺が一緒に行きたい所だよ」
「本部長……私は誰の代わりに行くんでしたっけ?」
「え? えーっと」
風身は言ってることの矛盾に気付いたのか、二・三度咳払いをして誤魔化した。
(……困った男だ)
眞理子は溜息を吐くしかなかった。
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未練がましい男を振り切り、山に戻った眞理子を待ち受けていたのは、
「申し訳ありません。私が付いていながら……」と頭を下げ謝罪する南であった。
その後ろに立つのは、水原・緒方・結城の短気トリオである。
出動着は泥土に汚れ、ファスナーが壊れ、ボタンも弾け飛んでいた。顔は三人とも擦過傷が見られる。そして、一様に後悔の表情で俯いたままであった。
「全く! 困ったもんだな。うちは応援を頼んだだけで、喧嘩を売りに来いといった覚えはないぞ」
五合本部の三階、会議室の隅に置かれたソファにふんぞり返り、苦虫を噛み潰したような顔で眞理子を見るのは、消防レスキュー隊富士本部第一分隊長の宇佐美であった。
宇佐美は四十代半ばで本来レスキューのエキスパートだ。だが、山岳レスキューと兼任になる富士に配属されたのを不満に思ってる人間だった。
エリート扱いのレスキュー隊にあって、山岳レスキューが主体となる富士への配属は、出世コースではないらしい。『山送り』と揶揄されることもあるらしく、彼らはその不満を警察に向けるきらいがあった。
「ホントに困ったもんですね。ま、喧嘩なら両成敗ってことで」
苦笑しつつ軽く答える眞理子に、宇佐美分隊長は立ち上がり怒鳴りつけた。
「冗談じゃない! うちは六人が病院送りだ。これは暴力事件だぞ。警官がこんな真似をして、ただで済むと思ってるのか!?」
「へぇー。六人相手でかすり傷なら大したもんだ」
眞理子は感心したように三人に目を向ける。
照れ笑いを浮かべそうになる水原らを、咳払いして南が睨みつけた。
「沖! 貴様……消防を馬鹿にするのか!? お前がここを潰しかけた時、助けてやったのは誰だと思ってる」
「誰でしたっけ?」
すました顔で答える眞理子に宇佐美の怒りは限界を超えたようだ。
「よぉく判った。一言の謝罪もないと言うわけだな。現場レベルで穏便に済まそうと思ったが、そっちがその気なら、山岳警察本部に報告させて貰おう。どんな処分が下っても知らんぞ。おいっ、貴様らは二度と北側に来るな! 今度やったら山梨県警に逮捕して貰うからな!」
宇佐美の性格から穏便に済ます気など欠片もなく、頭を下げる眞理子を見たくてやって来ただけのような気もする。
加えて、六対三では一方的に水原らを責める訳にもいかないはずだ。
「宇佐美分隊長殿、子供の喧嘩に親が出て、気に食わなかったら教育委員会ですか? 親馬鹿も程々にしないと、子供はもっと馬鹿になりますよ」
「そっちの馬鹿どもと一緒にするな!」
頭から湯気が出るほど怒りつつ宇佐美は五合本部を後にした。
途端に顔を引き締め、眞理子は三人を振り返り……。