(1)噂の愛人
――九六……九七……九八……九九……百!
「はい。腕立て終了です。次は腹筋、百回」
富士宮登山口近くにある富士山岳警備隊本部。
晴天の八月とはいえ標高二四〇〇メートルでは、汗が滴るような暑さはない。だが彼らは汗を掻きながら、南副隊長の号令の下、隊員十名が基礎訓練の真っ最中であった。
腹筋の指示に隊員の中から不満の声が重なる。
「えぇー」「まだあるのかよぉ」
「足りないようですね。では、全員プラス百回」
全員口を固く閉じ、腹筋の姿勢に入ったのは言うまでもなかった。
富士山岳警備隊……静岡県警山岳警察本部に所属する出動部隊の一つである。
新五合目に位置するため通称・五合本部と呼ばれ、隊長以下十一名の隊員が配置されていた。主に南富士・静岡県側がレスキューの活動範囲だ。
山岳警察は、警察庁の付属機関の一つである。一般の警察官から卒配後に、本人の希望により山岳警察の採用試験を受けることが出来るものだ。
そして、山岳警察にも地方機関として管区山岳警察局があった。
だが、一般の警察における管轄とは違い、基本的に彼らの管轄は“山”なのだ。そのため、日本中のどんな山でも救助活動においては指揮権を発動することが可能である。ただ、山岳警備隊ごとに縄張り意識があるため、実際には難しい問題であった。
『山岳事故において指令系統を一本化する』
『山岳レスキューを一手に担う』
以上の名目で創設された山岳警察ではあるが、全てがすぐに移行出来るはずもない。特にこの富士では、予算と人材の面において、北富士のレスキュー活動は、富士吉田市にある消防レスキュー隊に依存していた。
五合本部が出来る以前、富士のレスキューの中心は消防であった。彼らの手に余る分は、麓にある各所轄の警察官有志が出動したり、民間の山岳組織によるレスキューチームで賄っていた。だが、無線一つ取っても組織ごとに使用するものが違ったり、中々情報のやり取りがスムーズにいかない。それは救助活動そのものを遅らせ、延いては救助者の人命にも関わりかねない問題であった。
そこに、我々が中心となるから指示に従え、と乗り込んだのが山岳警察だ。
だが、思うように組織の拡大は進まず……。やがて、消防の中から「出来もしないくせに警察は指揮権だけ欲しがる」といった声が聞こえ始める。
結果、双方の垣根は山の如くどんどん高くなり、この富士において両者は“犬猿の仲”となってしまった。
ちなみに、消防のレスキュー装備や機器は最新のものが用意されており、人員も三分隊総勢三十名強の大所帯だ。
ただ、麓から通いのため出動には多少の時間が掛かること。そして専任ではないため、本当の山の怖さを知らない。というのが山岳警備隊の言い分であった。
もっとも向こうは、人力でのレスキューを中心にしている山岳警備隊のことを、「時代遅れでアナログな山男」と嗤っているのでお互い様であろう。
三階建ての五合本部の真裏に、富士山岳警備隊宿舎がある。
隊員は基本的に全員ここで寝起きし、夜間の緊急呼び出しにも備えている。
七月の山開きから八月末頃の山じまい、天候しだいでは九月半ば過ぎまで忙しい日が続く。特に八月はじめの週末、天気が良ければ芋を洗うような混み具合だ。
そして、山の天気は変わり易く……天候が悪化した途端、レスキュー隊に出動要請が集中する。
実際にこの期間、非番と言えども彼らが丸一日休めることはないのであった。
そんな彼らから絶大な支持を受け、抜群のリーダーシップを発揮しているのが富士山岳警備隊隊長、沖眞理子警部である。
弱冠二十九歳、しかも女性でありながら所轄の課長クラスの役職に就き、高卒のノンキャリアであるにも関わらず階級は『警部』だ。
それにはもちろん理由があった。
巷で流れている有名な噂は……前任の隊長に色仕掛けで取り入ったというもの。
山岳警備隊は特殊な組織なので、隊の人事は隊長の許可なしでは行えないようになっている。そうでなければ、命令違反での除隊処分など隊長判断で行えるはずがない。そのシステムを利用して、ちゃっかり後任の隊長に推薦してもらったという噂であった。
他には、富士宮署内に設置してある、静岡県警山岳警察本部・本部長、風見尚也警視正の愛人だから、というものもある。
眞理子の男性関係はともかく……。
隊長就任に関しては、他に適任者がいないというのが大きな理由だ。これまでの実績からも、彼女が最適だと上層部が判断したからである。
何か問題が起こった時、現場レベルで眞理子が判断し、最小限の犠牲で解決に導くことが多々あった。上層部が責任を取らず、問題をうやむやにするためには、レスキューを“失敗”ではなく“成功”にする必要が出てくる。戦争で国民の目を勝敗に向けさせないため、英雄を作り上げるのと同じ理屈だ。上層部は眞理子を持ち上げ、その都度、階級と権限が与えられ、責任も増大した。それに伴う給料の増加は微々たるものである。
巨大な富士の安全を彼女一人に押し付け、麓から高みの見物を決め込んでいるのが山岳警察の上層部だ。
事実、眞理子の私生活は無いに等しい、滅私奉公である。出動が重なれば、部下を優先に休憩と仮眠を取らせ、自身は二十四時間連続勤務も珍しくない。それでいて、眞理子の顔を見ると嫌味を言い、悪い噂を助長させるのだから始末に負えない。
眞理子が辞めないのは金や名誉ではなく、人命救助の重責を担うことへの誇りであった。
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歳は食ってるが新人、水原健巡査部長が着任して一ヶ月余りが過ぎていた。
「実際のトコ、どうな訳?」
「何が……どう?」
水原の質問に質問で答えたのが、着任当日に殴りあった結城真人巡査だ。水原は馬鹿にしていた隊長に助けられ、すっかり牙を抜かれて鎖に繋がれた感がある。
「いや、だから、愛人がどうとかって話」
「まだそんなこと言ってるわけ?」
「だって気になるだろ? 今だって……本部長に会いに行ってるわけだし」
「仕事だって。報告書を提出に行ってるだけだよ」
「でも……なんだかんだと、しょっちゅう呼びつけてないか?」
「それは」
「俺……聞いちゃったんすよね」
二人の会話に隊で一番のイケメンを自称している、内海敦也巡査も加わった。
ちなみにこの三人、基礎訓練中に不満の声を上げた張本人たちである。罰として、他の隊員から登攀装備の点検作業を命じられたのだ。
昼食をさっさと済ませ、三人で全員の装備をロープの一本から丁寧にチェックしている最中だった。
「俺、先週、隊長と一緒に本部に行ったでしょ。そん時、本部長が俺に気づかずに隊長のことを『マリコ』って。隊長もヤベエって顔して……何気にショックっす」
元気なく項垂れる内海を見て、他の二人も言葉を失うのだった。