(2)謎の女
「きゃあ! 火、火、マリちゃん! 火が出てる!」
厨房から聞こえたのは女性の悲鳴だ。ショートパンツの女性はその声に一瞬で身を翻した。水原も手荷物を床に放り出し、ダッシュで駆け込む。
厨房は意外と広く、十畳は超えるスペースがあった。中央にステンレスの調理台。左奥に勝手口がある。右手奥にフード付きのガスレンジがあり、どうやら二人は調理台かガスレンジの辺りに居たようだ。手前に居れば、厨房の左端にあるカウンターから二人の姿が水原に見えたであろう。
ガスレンジの一番奥に中華鍋が掛けられ、炎はそこから上がっていた。火の勢いから、どうやら多めに油を入れ、揚げ物をしていたようだ。
マリちゃんと呼ばれた女性は、特に動揺した様子も見せずスッと小型の消火器を手に取る。だが水原はそんな彼女を制した。そして、調理台に掛かっていた大きめのタオルを見つけると、それを濡らし、手前からゆっくりと中華鍋に被せる。酸素を遮断した後、カチッとガスレンジの火を切った。
一連の水原の動作を見つめる若い女性の瞳に、感心の色が浮かぶ。
「ああぁぁぁ~良かったぁぁぁ~。ちょっと目を離した隙に、ボッとなってるじゃない。もうびっくりしたのなんのって」
大袈裟なジェスチャーで話すのは、還暦は超えていそうな年配の女性だ。
だが茶髪でショートボブのヘアスタイル。『CATH KIDSTON』と書かれた派手な花柄のエプロンなど。隣に立つ若い女性よりおしゃれかも知れない。
「愛子さん、消防の世話になるのだけは勘弁してよ」
「いやぁ良かった良かった! ところでお宅――誰?」
炎のショックから立ち直り、ようやく見掛けない顔に気づいたようだ。水原に代わり、若い女性が彼を紹介した。
「ほら、明日から配属される新人さんだって。水原巡査部長、だったよね?」
水原は濡れた手を渡された新しいタオルで拭きながら頷く。
「あらまあ、随分とうが立った新人さんねぇ。まあまあ、おかげで助かったわ。ありがとね」
褒められているのか貶されているのか、微妙な台詞だ。
しかし、若い女性のほうは真剣に水原に感謝を伝える。
「どうもありがとう。でも、火を見ても動じないのはさすがだね。期待していいのかな」
「期待っても……」
もちろん、山火事にも借り出されることはあるだろう。だが、初期消火の手際を褒められても、警察官の水原としては複雑な心境だ。
「ああ、そうだ。こちらは深沢愛子さん。この宿舎の管理をして下さってます。料理は全部愛子さんの手作りよ。お袋の味ってヤツかな。ちょっとそそっかしいのが玉に瑕だけど」
「ちょっとマリちゃん! じゃあ、あんたが作る?」
「毎晩カレーでクレームが出ないならね」女性二人は軽く声を立てて笑った。
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水原はそのまま『マリちゃん』に宿舎内を案内して貰う。
「そこのドアが談話室。テレビと応接セットが置いてある。来客の時はそこで話してね。部屋に女を連れ込むのはNG!」
厨房から出て食堂の左手に談話室がある。右手に廊下があり、手前にお手洗い、奥に大浴場があった。個室にもシャワーのみ設置してあるという。
大浴場の前にあるのが東階段だ。水原の部屋は三階で、東階段に一番近い部屋であった。
宿舎内の案内が済み、水原はそのまま本部にも顔を出したいと伝える。彼女は軽く了承し、二人は連れ立って宿舎正面玄関から外に出た。
「で、俺もマリちゃんって呼べばいい訳?」
「え? ああ、ごめんなさい。私は沖よ。沖眞理子。よろしく」
そう言って、健康的な日に焼けた顔でニッコリ笑うと右手を差し出した。
水原の目に刑事特有の探るような光が過る。彼は眞理子の手を握り返すなり、質問を投げ掛けた。
「ふーん。じゃ、君はここの隊長の娘か? 妹か? どっちにしても婦警だろう」
「どうしてそう思う訳?」
「沖は隊長と同じ名字だ」
それを聞いた瞬間、あははは……と眞理子は弾かれたように笑い出す。
水原はその唐突な爆笑に面食らって言葉もない。
「あ、悪い悪い。でも……違う可能性は考えないの?」
「妻ってケースか? だが、君の指に結婚指輪がない。指輪の痕もないしな。それに、さっき俺に火を見て動じないのはさすがだ、と言ったけれど……君も全く動じなかった。アクシデントに慣れてる証拠だ。で、ここに居るなら婦警以外にありえない」
眞理子は口角を僅かに上げ、微笑を浮かべたままだ。
「へぇ、さすが元刑事さん。中々の洞察力だよね。惜しむらくは、捨て切れない先入観かな?」
眞理子の身長は一七〇あるかないかだ。なのに、時折彼女の存在を大きく感じることがある。存外に見せる無遠慮な態度が原因かも知れない。そのため、水原が沖の名を聞いて、隊長が家族を甘やかしているのだ、と考えたのだ。それほど、富士の隊長は評判の良くない人物であった。
水原は眞理子の言葉から、その真意を探ろうとするが……。
彼が真面目に考えようとすればするほど、どうにも視線のやり場に困る。
「なあ、そのカッコは確信犯だろ?」
ふいに空気が揺らいだ。
「何? 罪を犯しそう? 困った元刑事さんね」
眞理子は涼やかな風のように笑い、水原の質問を軽く往なす。
「君はいったい……」
「ああ、南副長! ちょっと」
その時、本部の裏口から出てきた男に眞理子は声を掛けた。
「明日からの新人さん。私、そろそろ着替えてくるから……後、頼めるかな?」
「判りました。――はじめまして、副隊長の南一之です。富士へようこそ」
水原は副隊長から差し出された手を握り挨拶の言葉を口にする。同時に、眞理子は「じゃ」と軽く手を上げ、宿舎に戻ってしまう。後ろ髪を引かれる感覚に水原は戸惑っていた。だが、初日から女の尻を追い回していたのでは仕事にならない。
「気になりますか?」
「え? あ、いえ……」
南は相好を崩し、眼鏡の奥に見える穏やかな瞳を更に和らげた。
山岳警察のカーキ色の制服を着用し、胸の階級章は『警部補』を示している。実質、富士のレスキューを担っていると言われるのがこの男、南一之警部補であった。
彼は水原より二歳年長だ。大学時代クライマーとして様々な大会に出場し優秀な成績を残している。ジャパンツアーの優勝経験者でもあった。
水原自身も高校時代から山岳部に所属しており、フリークライミングを得意としていた。だが好不調の波が大きく、一旦狂うと立て直せないまま無理をして落下するタイプだ。
そんな水原にとって、安定したクライマーの南は目標であり憧れの存在でもあった。
「失礼致しました。南副隊長のお名前は聞いております。この富士に欠かせない存在である、と。あなたの下につけて光栄です」
敬礼する水原に、南は苦笑しつつ、諭すように言った。
「恐れ入ります。でも、あなたの上司は私ではなく沖隊長です。それを忘れないで下さい」
「はあ。まあ、もちろん、そう思ってはいますが……」
南の視線はほんの僅か宿舎に向かう。
その先に眞理子がいることを直感し、怪訝に思う水原であった。