(19)還る場所
富士宮市内の警察病院に沖・水原・島崎の三人は収容された。
島崎は落下のショックで意識を失い、そのせいで軽度の低体温症に陥ったようだ。病院に担ぎ込まれた時は、直腸温が三十四度まで下がっていた。だが命には別状なく、体温が戻ると同時に意識も戻り、一同ホッと息を吐いたのだった。
水原は左膝を強打していたが骨折はしておらず、他は擦過傷程度。
この二人は検査が済み次第、明日にも退院と言われたのだった。
問題は眞理子である。
右手首の傷は、なんと十二針も縫う大怪我だった。出血も酷く、病院に着いた時には眞理子の顔から血の気が失せていた。しかも右肩は亜脱臼。以前脱臼したこともあり入院治療が必要だと言われる。つまり、一番の重傷であった。
傷の縫合に局所麻酔をかけられた時には、さすがの眞理子も疲労困憊でそのまま眠りについてしまう。
眞理子は仕事柄、警察病院の常連だ。その度にドクターストップを無視し、病院を脱走する常習犯でもある。担当医は、今度逃げたら二度と治療しない、と御冠であった。
水原は夜明けと共に目を覚ました。
昨日のことがまるで夢のようだ。だが、ともすれば今日が自分や島崎の命日になっていたのかも知れない。それを思うと身震いを覚える。水原が病室内を見回すと、左隣のベッドには島崎が眠り、右隣は眞理子であった。六人用の大部屋で向かい側の三台は空きベッドのようだ。
横を向いた水原の目に映ったのは、副隊長の南である。眞理子の枕元、窓際のパイプ椅子に俯き加減で座っていた。爽涼な朝の空気に相応しく、澄んだせせらぎのような眼差しで眞理子を見つめている。
水原の視線に気づいたのだろう。南はフッと顔を上げた。
「気分はどうです? 大変でしたね」
「いや……俺は自業自得ですから。俺のせいで、島崎を死なせる所でした。隊長にも怪我をさせちまって」
――だからあれほど言ったのに。
水原は、南から叱られるものだとばかり思っていた。それが……。
「何時間もたった独りで耐えるのはキツかったでしょう。今日はゆっくり休んで下さい」
「なんで、俺を責めないんですか? どうして……」
「隊長があなたを責めましたか? 怒鳴りつけて、あなたのせいだと罵りましたか? 隊長が叱るのは、自分のミスを認めず、反省のない時だけです」
南の言葉に、水原は昨夜のことを思い出していた。
一度も怒鳴らなかった。何度も大丈夫だ、と。私がいる、必ず連れて帰る――そう言い続けた。
水原はこの時初めて知ったのだ。
眞理子に関する噂のほとんどが、単なるやっかみだということに。女の隊長に不満を持ち、山から下りた連中は、彼女を「あんな女」と呼び続ける。役職も階級も裏がある、と思うほうが楽なのだろう。
水原がそう言うと、南も頷いた。
「犠牲を出した時は、ことさら業績を称えるそうです。その都度階級が上ったと仰ってました。私たちは皆、反発して助けられ……隊長は彼女だと、思い知った。上も判っているんです。マスコミ的に利用しないのがいい証拠ですね」
確かに、女性の隊長だと言えば変な話“売り”にはなる。だがそれは、何かの切っ掛けで、女性の隊長起用に『待った』が掛かるかも知れない。上層部は名を取るより実を取ったというべきだろう。
「でも……だったら、なんであんな中傷に黙ってるんだ?」
妙な所で正義感のある水原だ。噂が不当であるなら、おとなしく引っ込んでなどいられない。
「どんなに言葉を尽くしても、認めようとしない人間は何処にでもいます。それに、隊長自身が言い返さないのに、私たちが口を挟むことではないでしょう。まあ、隊長は上層部にもあの態度ですからね」
南は苦笑しつつ、富士の隊長に纏わる様々な噂は、眞理子をクビには出来ないお偉いさんの小さな嫌がらせに過ぎない。そんな風に話したのだった。
ゆっくり休めと言われた水原だが……『この次やったら、強制的に山を下りて貰う』そんな眞理子の言葉を思い出していた。
(ゆっくりするのは、今日だけじゃ済まねぇよな)
山を下りることを考えながら、いつしか浅い眠りに引き込まれて行くのだった。
~*~*~*~*~
病院全体が目覚める寸前――ロビーの自販機が思いのほか大きな音を立てた。
意味はないのだが、眞理子は急いで取り出し口から冷たい缶コーヒーを引っ張り出す。悪いコトをしている様子で、キョロキョロと周囲を見回した。
南と水原の話声に、眞理子も目を覚ましたのだ。
だが、あの話の内容ではどうにも目が開け辛い。そのまま寝たふりを続け、やがて南は病室から出て行った。間もなく、隣のベッドから寝息が聞こえ……。眞理子は痛みを堪えて素早く着替えると、コッソリ病室を出て来たのである。
右腕は三角巾で吊ったままだ。足元は少しふらついたが、増血剤の効果か倒れるほどではなかった。
(さて、どうやって山に戻ろう……)
無人のロビーでベンチに腰掛け、ペットボトルに口を付けながら考え込んでいた。
「隊長……いい加減にしないと、ドクターが本気で怒りますよ」
南は制服姿のまま仁王立ちになり、怒った顔で首を左右に振っている。
「やっぱり、バレてた?」
「ええ、狸寝入りにも気付いていました」
悪戯が見つかった子供のように、眞理子は動く左肩を竦めて見せる。そのまま左手で、南に向かって缶コーヒーを放り投げた。
南はコーヒーを受け取ると、プルトップを開けながら、眞理子の横に座った。
無言で液体を喉の奥に流し込む。少しずつ、正面玄関に射し込む光が強くなる。それを、二人は黙って見つめていた。
「厄介な奴で、どうなることかと思いましたが……良い部下が一人増えましたね」
いつもの穏やかな南の声だ。
「うん、厄介な奴ほど良いレスキュー隊員になるんだ。なんたって、一番手強かったのは……あんただからね」
眞理子の笑顔に、白旗を揚げる南であった。
~*~*~*~*~
「どうしたの?」
宿舎に全員が揃った夜、珍しく談話室で寛ぐ眞理子の前に、荷物を抱えた水原が立った。
「命令違反をやったのは俺です。責任を取って山岳警察を辞めます。短い間ですが、お世話になりました」
そう言うと、水原は深々と頭を下げた。
すると、今度は島崎が談話室に飛び込んで来て叫ぶ。
「待って下さい、隊長! 連絡を怠ったのは僕の責任です。水原さんのおかげで、僕は助かったんです!」
「俺じゃない! 助けてくれたのは隊長だ。それに、俺がお前を唆したんだ」
「でも、行くと決めたのは自分自身です」
「お前は若いんだ。まだまだこれからだろう?」
「じゃ、水原さんはどうするんですか? もう三十でしょう……刑事に戻れるんですか?」
「う、うるせぇ! 大きなお世話だ」
その時、眞理子が手にした雑誌でテーブルを叩いた。
「判った判った。じゃ、二人には仲良く風呂掃除でもしてもらおうか? 一週間よろしくね」
「ちょ、ちょっと待て……風呂って」
こんな場所まで清掃業者は来たがらないし予算もない。かと言って、管理人の愛子ひとりに任せる訳にもいかない。そのため、清掃は順番だった。中でも、疲れた時に風呂担当だと最悪である。
「島崎は勤務中に事件に遭遇しただけだよ。ま、現場には非番の隊員もいたようだけど。協力し合って無事解決した、と。ただでさえ右手が利かないんだ。これ以上、面倒な報告書や始末書を切らせないでよ」
「え? 僕らはこのまま山に残っていいんですか?」眞理子の言葉に島崎の目が輝く。
だが、水原にすればそう素直にはなれない。
「隊長命令に従わない、俺みたいな部下は目障りだろ」
すると眞理子は思わせぶりに頬杖を突き……。
「そうでもないよ。私の言うことを良く聞いて、いい子だったわ。ね、ダーリン!」
眞理子にからかわれ、水原は必死になって反撃しようとする。
「だっ、誰が! お前みたいな女に誰がっ」
懸命に言葉を探すが、中々思い浮かばない。すると、突然肩をポンポン叩かれた。振り向くと、立花がニヤニヤ笑っている。
「諦めろって。あの時の無線はフルオープンだったんだぞ。泣きそうな声で、隊長隊長と連呼してたのを、全員が聞いてるんだ」
「!」
絶句する水原の顔を、全員が爆笑を堪えて眺めている。意識のなかった島崎だけ、キョトンとした顔だ。
「判ったよ! すりゃいいんだろ! してやるよ風呂掃除くらい。行くぞっ、島崎!」
水原は荷物を放り出し、談話室を飛び出した。後方から一斉に大爆笑が聞こえる。
(ま、いいか……)
こういうのも悪くない、と思う水原だった。
(第一章 完)
御堂です。ご覧いただきありがとうございました。
第一章が完結です。
第二章は来週から始めたいと思います。
良かったら、またお越し下さいませ。
どうもありがとうございました(平伏)