(18)生還
何度も墜落の経験はあった。
それは……アッと思った瞬間には体を支えるものがなくなり、直後、地球に引力があることを思い知らされる。これまでと違うのは、次はない、という点だろう。そこまで考え、水原はギュッと目を瞑る。
島崎だけは助けられると思っていた。こんなことなら最初から奴をハーケンに繋ぎ、自分はさっさと落ちていれば良かったのだ。それが……ロープを切る、なんて偉そうに言って、本当は何も出来なかった。無様だ……情けない……思い上がりも甚だしい。
自戒の念が脳裏を巡る。だが――。
「水原、目を開けろ」
眞理子の声が聞こえた気がした。
予想していた頬を刃物で切られるような落下感もなく……。水原は恐る恐る目を開けた。
(俺は……まだ、生きている?)
「死にたくなれけば、落ちる時に目を閉じるな」
再び眞理子の声が聞こえる。しかも、無線ではない――頭上から、だ。
咄嗟に上を向いた水原が見たものは……左手に持ったピッケル一本でぶら下がり、右手には水原のロープを掴む、眞理子の姿だった。
「なっ、なんでここが?」
「落ち着け。少しの間、ピッケルで体を支えられるか?」
水原は掴んだままになっているピッケルを岩場に叩き込んだ。脚を開き、しっかりと足の裏で壁を捉える。
「よし。しばらくそのままだ」
眞理子は短く言うと、ロープの先に付いたカラビナを彼女のハーネスに繋いだ。ハーネスは墜落時に衝撃を柔らげる安全ベルトである。
これで水原が力尽きても、最悪墜落は防げるだろう。だが、今度は眞理子を巻き込むことになる。
水原が異論を唱える前に、眞理子はカムを取り出して見る間に支点を確保して行く。それは岩の裂け目に押し込み、片手でセット出来る便利な道具だ。水原自身は使用に慣れていないせいもあり、装備していなかった。
支点を三箇所確保した、と眞理子の声が聞こえ、水原は全身から力が抜けた。その水原の横まで、眞理子はスルスル下りてくる。
「体は動くか?」
「……はい」
眞理子は自分のハンマーを外し、水原のハーネスにセットする。同時に命綱で繋いだ。
「ハーケンは打てるな? 独自に支点を確保してくれ」
慌ててハーケンを手繰り寄せ、岩に打ち込むが……手が震えて、時間ばかりが掛かってしまう。
「慌てるな。大丈夫だ。ゆっくり落ち着いて正確に打ち込め……南、聞こえるか?』
眞理子は無線に繋いだインカムに向かって話しかけた。
『はい! こちら南です』
『二人を見つけた。水原は無事だ。これから島崎の状態を確認する。以上』
眞理子は水原に「島崎を見てくる」そう言って更に下りて行く。それからの数分間、水原は心臓が抉られるほどの緊迫感を味わった。もし、『心拍・呼吸共になし』と無線から聞こえたら……。
『沖だ。島崎の無事も確認。外傷はないが意識が戻らない。軽度の低体温症の可能性がある。担架と救急車を頼む』
『南、了解』
水原は無線でのやり取りを耳にして、これ以上ないほど安堵のため息を吐いた。
直後、この数時間掛かっていた腰への負担がグッと軽くなる。なんと、眞理子は島崎を自分の背中に固定して、壁を登ってきたのだ。
「島崎は大丈夫だ。だが、病院への搬送が必要だろう。この崖を登り切れば、後は登攀不要の緩やかな傾斜だ。水原……登れるか?」
島崎の無事を目にしたことで、逆に水原の気力が萎えそうだ。
墜落死を身近に感じた精神的ショックに、膝が小刻みに笑っていた。彼にとって初めての経験である。だが、山が怖い、などと眞理子には死んでも言えない。
「あ、ああ……だい、じょうぶだ」
水原は男のプライドを総動員して、どうにか声を出した。
『こちら沖だ。本部どうぞ』
『はい。本部』
麻生の声である。
『結城から連絡は?』
『休憩所にて所轄の応援を待ってるとこだ。女性はだいぶ落ち着いてきたらしい。犯人は……思い切りやったんだってな』
『正当防衛だ――他に出動案件は出てないか?』
眞理子はサラッと答えて話を逸らせる。
『現在のところ、異常なし!』
『了解。登攀開始する。以上だ』
さあ行くぞ、と言われ、登るように促されるが……。
いざとなると、男のプライドが音を立てて崩れていった。膝に力が入らない。逆に、指は滑稽なくらい岩を握り締めて離そうとしないのだ。
「先に……行ってくれ。島崎を、先に」
「なんだ、動けないのか?」
眞理子の一言に、水原の頭は屈辱で真っ白になった。
言い返したくても、それさえ出来ない。
「もう……もう、置いて行ってくれよ」
「どうしても動けないなら、私が引き上げてやる。逆らうなら、殴り倒してでも担いで行く」
「馬鹿言うな……島崎だって、相当重いだろ? それを」
「私は部下を置いては行かない。必ず、連れて帰るぞ」
眞理子の言葉に、水原は顔を上げた。闇の中、真っ直ぐに彼を見つめる瞳がそこにある。双眸は自信に満ち、初めて逢った時と同様に強い意思を漲らせていた。
「水原、怖いだろう? 怖さを知らない勇気は、一つでもしくじるとすぐに萎える。今のお前のように」
眞理子は水原の腕をガシッと掴んだ。
「この腕でもう一度ロープを掴み、踏ん張って一歩踏み出すんだ。今、動かなきゃ、二度とレスキューは出来ないぞ」
「む、むりだっ」
水原の中で恐怖が先に立った。思わず、力任せに眞理子の手を振り払う。
その時だ。彼女の手から黒い液体が滴り落ち、水原のシャツを黒く染めた。鉄の匂いが辺りに広がり、水原の鼻を衝く。
「痛、つぅ」
「な……なんだ? 手……これって血か?」
「ああ、大したことない。ロープを掴んだ時に、ハーケンが手に食い込んだだけだ。心配するな、二人くらい楽勝だ」
この状況で軽口を叩き、笑う眞理子の神経が水原には理解出来ない。
「なんでだよ。なんで……痛いだろ? 俺のせいだって言えよ……言ってくれ」
大丈夫だと言われたら言われるほど、水原の胸は痛んだ。不覚にも涙が込み上げてくる。
「痛いよ……でも、生きていればこその痛みだ。大丈夫、私たちはまだ、生きている」
富士山は女の神様だ――そんな話を思い出していた。
だから女が登ると嫉妬して山が荒れる。気に入った男が登ると穏やかに受け入れてくれるんだ。富士の女神に惚れられたいもんだな……他愛のない話で親友と笑いあった。
土砂降りの雨も、漆黒の闇も、物ともしない隊長がここにいる。
傷口をハンカチで縛りながら、泥に塗れた笑顔は燦然と輝いていた。
「帰ろう、水原。大丈夫だ、私がいる。島崎を背負って四時間耐えたお前に、勇気がないわけがない」
「……隊長……」
絶対に大丈夫だと、眞理子の言葉は信じれば必ず無事に戻れると、そう思えたのだ。
この時、生きて還るための覚悟を、水原は手に入れたのであった。