表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ライジング!  作者: 御堂志生
第一章 山を守る女神
17/80

(17)リミット

 よりによってこの悪天候である。

 だが、こういった天気を選んで、女性ハイカーやクライマーを連れ去る暴行犯もいるという。犯罪者にとっては、雨は犯行を隠すカーテンになるのだろう。

 男はわざとらしくナイフをチラチラさせながら、得意げに笑って答えた。


「ああ、崖から突き落としてやったぜ。うの昔にお陀仏だろうな」

「場所は?」

「知るかっ! でも、あの男が言ってたぜ。俺らが滑り落ちたもっと下は絶壁だってよ。そこに落ちたからなぁ」


 ひゃひゃひゃ――男は奇妙な笑い声を上げ、その直後だ。無線から南の声が聞こえた。


『隊長! 水原から無線が入りました!』


 眞理子が腰に吊った無線機に男は視線を落とした。

 一瞬のチャンスを逃す眞理子ではない。左手でナイフを持つ手首を掴み、同時に右肘が男の鼻骨を砕いた。眞理子が体の向きを入れ替えた瞬間、男の右手は逆に反り返る。その口からは、女のような悲鳴が上った。ナイフが手から離れた直後、男の体は軽く左右に振り回され、一転してコンクリートの床に叩きつけられる。男の肩が異様に曲がり、骨の軋む不快な音を出した。静かになった口から白い泡がこぼれ落ち……。

 

 時間がない。それに、男の確保に手は取れない。そう判断した眞理子の行動は、躊躇も容赦もなしである。



『隊長! 隊長!』

 無線からは南の声が繰り返し聞こえる。

 結城に、男に手錠を掛けるよう指示し、眞理子は急ぎ無線を取った。

『私だ。水原に直接繋げるか? どうぞ』

『はい、ちょっと待ってください。――繋がりました。どうぞ』

 数秒の空白の後、眞理子は口を開いた。 

『沖だ。水原、島崎は無事か?』

 

 まず、水原は無線を持ち出してはいない、という点。それに男が口にした“あの連中”から考えて、二人は一緒に違いない、と眞理子は考えた。

 だが質問された水原はそんな疑問を浮かべる余裕もないらしい。


『判らない……返事がないんだ。無線だけどうにか引き上げた』

『位置は判るか?』

『新六合手前の登山道で……最後の林道辺り。女の悲鳴が聞こえて、道からちょっと中に入ったんだ。そしたら、あの野郎に突き落とされて……。二十代前半、黒のヤッケに迷彩ズボンの男だ! 女子大生をナイフで脅して連れ去ったんだ! 検問を頼む、あの女性が』

 途端に声が大きくなり、女性の安否を気にし始める。

『男は確保した。女性も無事だ。森にはどれくらい入った?』

『真っ直ぐ……百メートルも入らなかったと思う……判んねぇよそんなもん』

『今の状況は? どれくらいその体勢を維持出来そうだ?』

『判らないって言ってるだろ!』

 

 予想外の事態に、さらには島崎の様子に、水原は軽くパニックを起こしていた。

  

『落ち着け、水原』

『もう……長くはもたない。ハーケンの効きが甘くて、場所が悪い。でも、移動も出来ない。これ以上、二人分を支えられない……もう』

『落ち着いて、支点を複数確保しろ。なるべくしっかりした岩を見つけるんだ。大丈夫、すぐに行く。――南、聞こえたか?』


 突然の呼びかけに南は返事は二秒ほど遅れた。

『はい。聞こえました』

『須走の五合に詰めてる警官に、七合目の休憩所まで来るように指示。現行犯逮捕した男がいる。そっちからは、動ける人間を集めて新六合手前の登山道に急行してくれ。以上だ』


 無線を手にしたまま、眞理子は結城を振り返った。

「結城、ここは任せる」

 ザックを担ぐと、眞理子は外に飛び出し、登山道を駆け下りた。



~*~*~*~*~



 眞理子に言われたからではない。

 だが、水原は必死にハーケンを打ち込んでいた。場所を選ぶ余裕などない。手の届く範囲で、どうにか打ち込めそうな岩の裂け目を見つけて、ハンマーで叩き込む。

 しっかりと打ち込めた時は『ハーケンが歌う』と言う。どちらかと言えば高音域の音が岩肌にこだまし、心が充足感に沸き立つのだ。その感覚が水原は好きだった。

 


 この状態で三時間が過ぎている。

 さすがの水原にも疲労という敵がじわじわと押し寄せていた。


 通常、ハンマーは落とさないようにロープで括ってある。だがそのロープが縺れ、一旦切断して括り直そうとした時、小さなアクシデントが起こった。

 雨に濡れた手からハンマーが滑り落ちたのだ。ハッとした時には、足下の岩に弾かれていた。幸い、島崎には当たらず……。ホッとした反面、これ以上ハーケンが打ち込めなくなったことに気づき、水原は愕然とした。

 

 最悪の場合、島崎と繋いだカラビナを外し、島崎だけハーケンに固定する。二人分の体重は支えられなくても、一人分なら……。救助が来るまで持つ可能性が高くなる。 


 オープンにしたままの無線から、ひっきりなしに誰かの声が聞こえる。


 ――頑張れ、気をしっかり持て、すぐに助けてやるから。


 散々悪態を吐いてきた仲間たちの、水原を励ます声だ。


 彼は人と上手くやるのが苦手だった。小学校でも中学校でも、集団行動では必ずはみ出すタイプだ。高校でようやく親友と呼べる男に出会い、登山を始めた。ロッククライミングに進んだのも、その親友の影響である。優しく、穏やかで忍耐強い――水原は親友以外とは登ることが出来なかった。

 その親友を山で失い、一度は山から離れ、そして戻って……。


 水原がハッとした時、鈍い音と共に、岩が崩れるようにハーケンが一本抜け落ちた。

 残り二箇所にグッと負荷が掛かる。 


(島崎だけは、死なせない……)


 島崎のロープに繋がったカラビナを、ハーケンに直接掛ける必要がある。水原の意識と力が残っているうちに……。

 彼が重い腕を持ち上げようとしたその時、無線から眞理子の声が聞こえた。


 

『沖だ。水原、返事をしろ』

『……なんだよ』

『落ちた場所に目印はないか? 荷物はどうした? ロープは繋いだか?』

『ロープは切られたよっ! 忙しいんだ、邪魔すんな!』


 水原が力を込めた瞬間、一本のハーケンが岩の裂け目をすり抜けるように落ちた。

 残りはあと一つ。


『転げ落ちた斜面の大よその距離は? 崖からどれくらい落ちた?』

『崖はそんなに……だめだ。もう間に合わねぇ……』

『諦めるな、水原。すぐに行く。なるべく動かずに』

『ハンマーを落とした。確保してあるのは残り一本、コイツが抜けたら終わりだ』

『ピッケルで体を支えるんだ。最後まで諦めるな、水原。お前が死んだら島崎も死ぬんだ。同じ命を懸けるなら、死ぬ気で踏ん張れ!』

『……何とか、島崎だけでも助けたかった。奴は連絡すると言ったんだ。俺のせいだ……全部俺の』


 眞理子の返事はなかった。

 土砂降りの雨、しかも夜である。おそらく、滑り落ちた場所を特定するのも時間が掛かるだろう。すぐに救助が来ることなど……可能性はゼロに等しい。

 水原自身は自業自得である。だが、島崎を巻き込んだことが一生の不覚だ。


『迷惑を掛けて……すみませんでした。島崎のご両親に、申し訳ありません、とそれだけ……』

 

 無線から聞こえる中に眞理子の声はなかった。

 ピッケルに手をやるが、死を覚悟した心では中々力が入らない。だが、島崎だけは、その思いに水原は最後の力を振り絞る。グッとピッケルを掴んだ瞬間、嫌な音が耳に届き――最後のハーケンが岩肌を弾いた!




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ