(17)リミット
よりによってこの悪天候である。
だが、こういった天気を選んで、女性ハイカーやクライマーを連れ去る暴行犯もいるという。犯罪者にとっては、雨は犯行を隠すカーテンになるのだろう。
男はわざとらしくナイフをチラチラさせながら、得意げに笑って答えた。
「ああ、崖から突き落としてやったぜ。疾うの昔にお陀仏だろうな」
「場所は?」
「知るかっ! でも、あの男が言ってたぜ。俺らが滑り落ちたもっと下は絶壁だってよ。そこに落ちたからなぁ」
ひゃひゃひゃ――男は奇妙な笑い声を上げ、その直後だ。無線から南の声が聞こえた。
『隊長! 水原から無線が入りました!』
眞理子が腰に吊った無線機に男は視線を落とした。
一瞬のチャンスを逃す眞理子ではない。左手でナイフを持つ手首を掴み、同時に右肘が男の鼻骨を砕いた。眞理子が体の向きを入れ替えた瞬間、男の右手は逆に反り返る。その口からは、女のような悲鳴が上った。ナイフが手から離れた直後、男の体は軽く左右に振り回され、一転してコンクリートの床に叩きつけられる。男の肩が異様に曲がり、骨の軋む不快な音を出した。静かになった口から白い泡がこぼれ落ち……。
時間がない。それに、男の確保に手は取れない。そう判断した眞理子の行動は、躊躇も容赦もなしである。
『隊長! 隊長!』
無線からは南の声が繰り返し聞こえる。
結城に、男に手錠を掛けるよう指示し、眞理子は急ぎ無線を取った。
『私だ。水原に直接繋げるか? どうぞ』
『はい、ちょっと待ってください。――繋がりました。どうぞ』
数秒の空白の後、眞理子は口を開いた。
『沖だ。水原、島崎は無事か?』
まず、水原は無線を持ち出してはいない、という点。それに男が口にした“あの連中”から考えて、二人は一緒に違いない、と眞理子は考えた。
だが質問された水原はそんな疑問を浮かべる余裕もないらしい。
『判らない……返事がないんだ。無線だけどうにか引き上げた』
『位置は判るか?』
『新六合手前の登山道で……最後の林道辺り。女の悲鳴が聞こえて、道からちょっと中に入ったんだ。そしたら、あの野郎に突き落とされて……。二十代前半、黒のヤッケに迷彩ズボンの男だ! 女子大生をナイフで脅して連れ去ったんだ! 検問を頼む、あの女性が』
途端に声が大きくなり、女性の安否を気にし始める。
『男は確保した。女性も無事だ。森にはどれくらい入った?』
『真っ直ぐ……百メートルも入らなかったと思う……判んねぇよそんなもん』
『今の状況は? どれくらいその体勢を維持出来そうだ?』
『判らないって言ってるだろ!』
予想外の事態に、さらには島崎の様子に、水原は軽くパニックを起こしていた。
『落ち着け、水原』
『もう……長くはもたない。ハーケンの効きが甘くて、場所が悪い。でも、移動も出来ない。これ以上、二人分を支えられない……もう』
『落ち着いて、支点を複数確保しろ。なるべくしっかりした岩を見つけるんだ。大丈夫、すぐに行く。――南、聞こえたか?』
突然の呼びかけに南は返事は二秒ほど遅れた。
『はい。聞こえました』
『須走の五合に詰めてる警官に、七合目の休憩所まで来るように指示。現行犯逮捕した男がいる。そっちからは、動ける人間を集めて新六合手前の登山道に急行してくれ。以上だ』
無線を手にしたまま、眞理子は結城を振り返った。
「結城、ここは任せる」
ザックを担ぐと、眞理子は外に飛び出し、登山道を駆け下りた。
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眞理子に言われたからではない。
だが、水原は必死にハーケンを打ち込んでいた。場所を選ぶ余裕などない。手の届く範囲で、どうにか打ち込めそうな岩の裂け目を見つけて、ハンマーで叩き込む。
しっかりと打ち込めた時は『ハーケンが歌う』と言う。どちらかと言えば高音域の音が岩肌にこだまし、心が充足感に沸き立つのだ。その感覚が水原は好きだった。
この状態で三時間が過ぎている。
さすがの水原にも疲労という敵がじわじわと押し寄せていた。
通常、ハンマーは落とさないようにロープで括ってある。だがそのロープが縺れ、一旦切断して括り直そうとした時、小さなアクシデントが起こった。
雨に濡れた手からハンマーが滑り落ちたのだ。ハッとした時には、足下の岩に弾かれていた。幸い、島崎には当たらず……。ホッとした反面、これ以上ハーケンが打ち込めなくなったことに気づき、水原は愕然とした。
最悪の場合、島崎と繋いだカラビナを外し、島崎だけハーケンに固定する。二人分の体重は支えられなくても、一人分なら……。救助が来るまで持つ可能性が高くなる。
オープンにしたままの無線から、ひっきりなしに誰かの声が聞こえる。
――頑張れ、気をしっかり持て、すぐに助けてやるから。
散々悪態を吐いてきた仲間たちの、水原を励ます声だ。
彼は人と上手くやるのが苦手だった。小学校でも中学校でも、集団行動では必ずはみ出すタイプだ。高校でようやく親友と呼べる男に出会い、登山を始めた。ロッククライミングに進んだのも、その親友の影響である。優しく、穏やかで忍耐強い――水原は親友以外とは登ることが出来なかった。
その親友を山で失い、一度は山から離れ、そして戻って……。
水原がハッとした時、鈍い音と共に、岩が崩れるようにハーケンが一本抜け落ちた。
残り二箇所にグッと負荷が掛かる。
(島崎だけは、死なせない……)
島崎のロープに繋がったカラビナを、ハーケンに直接掛ける必要がある。水原の意識と力が残っているうちに……。
彼が重い腕を持ち上げようとしたその時、無線から眞理子の声が聞こえた。
『沖だ。水原、返事をしろ』
『……なんだよ』
『落ちた場所に目印はないか? 荷物はどうした? ロープは繋いだか?』
『ロープは切られたよっ! 忙しいんだ、邪魔すんな!』
水原が力を込めた瞬間、一本のハーケンが岩の裂け目をすり抜けるように落ちた。
残りはあと一つ。
『転げ落ちた斜面の大よその距離は? 崖からどれくらい落ちた?』
『崖はそんなに……だめだ。もう間に合わねぇ……』
『諦めるな、水原。すぐに行く。なるべく動かずに』
『ハンマーを落とした。確保してあるのは残り一本、コイツが抜けたら終わりだ』
『ピッケルで体を支えるんだ。最後まで諦めるな、水原。お前が死んだら島崎も死ぬんだ。同じ命を懸けるなら、死ぬ気で踏ん張れ!』
『……何とか、島崎だけでも助けたかった。奴は連絡すると言ったんだ。俺のせいだ……全部俺の』
眞理子の返事はなかった。
土砂降りの雨、しかも夜である。おそらく、滑り落ちた場所を特定するのも時間が掛かるだろう。すぐに救助が来ることなど……可能性はゼロに等しい。
水原自身は自業自得である。だが、島崎を巻き込んだことが一生の不覚だ。
『迷惑を掛けて……すみませんでした。島崎のご両親に、申し訳ありません、とそれだけ……』
無線から聞こえる中に眞理子の声はなかった。
ピッケルに手をやるが、死を覚悟した心では中々力が入らない。だが、島崎だけは、その思いに水原は最後の力を振り絞る。グッとピッケルを掴んだ瞬間、嫌な音が耳に届き――最後のハーケンが岩肌を弾いた!