(14)悲鳴
「誰か、山で水原を見た者は?」
眞理子の言葉に声を上げたのは立花であった。
「自分たちが――登頂禁止が出た十四時過ぎに、頂上で顔を合わせたんだが」
立花の相棒・緒方が、「あんた、今はただの登山客だろ? とっとと下りろ」水原にそんな嫌味を言ったらしい。
だが立花は眞理子の言葉を信じて、協力するつもりなら装備を整えて来い、と伝えた。
水原はどう思ったのか、「あーうぜぇ。吉田口にでも下りるか」そんなことを口にしながら、北に向かい……。
「とっくに戻ってると思ってたのに……。どうせ今頃、富士吉田の市内で飲んでやがるんだ。ほっときゃいいですよ、あんな野郎!」
緒方は吐き捨てるように答える。
登頂禁止からすでに五時間が経過。
頂上から吉田口下山ルートを使った場合、五合目まで約三時間。だがそれは一般人の場合である。水原ならおそらくその半分。佐々木の言う通り、麓の居酒屋で一杯やっていてもおかしくない計算だ。
「結城! 水原の携帯に連絡してくれ。駄目なら全てのロッジに連絡を取って、水原の所在確認だ」
結城は青褪めた表情で立ち尽くしていたが、眞理子の指示に背筋をピンと伸ばす。敬礼しながら、「はい!」と返事をして事務室から飛び出した。
「島崎だけでなく、水原もなんて……」
呟いたまま言葉を失う南にも、眞理子は命令した。
「南は消防に連絡。北側でクライマーに事故がなかったか確認して貰ってくれ。立花、緒方の両名は宿舎に戻って食事と休憩だ」
休憩の言葉に――「自分はまだ動けます!」緒方は表情を変えて叫んだ。
しかし、眞理子の返事は……。
「一時間ちょっとで四人が帰投する。彼らと交代で勤務に戻ってくれ。以上だ」
「――はい」
すごすごと引き下がるしかない緒方であった。
数分後、眞理子に代わって無線を使っていた南が報告する。
「消防と連絡が取れました。救助が必要なクライマーはいないとのこと。しかし、もう一度確認してもらえるそうです」
「判った」
眞理子は短く答え、腕を組んだまま動かない。
口を開いたのは南のほうであった。
「隊長……島崎と水原は一緒でしょうか?」
「可能性の一つだ。吉田口は八合目で須走に分かれる。水原が本気で北側に下りるとは思えない。そのまま下山ルートを使えば、嫌でも島崎のいた六合目付近で合流する。問題は島崎が連絡を入れない理由だ。単純ミスの後にアクシデントに遭遇したのかも知れない」
「本部報告はどうしましょう?」
「規定通りだ。最終確認から六時間後の二十二時を目処に本部に報告。四時頃には所轄と消防に応援を頼む」
「水原のほうは?」
勤務中であった島崎の所在が確認出来ないのは明らかに異常事態である。
だが、水原は違う。事故や事件の一報があったわけではない。緒方の言うように、すでに下山して何処かで一杯やっているだけかも知れないのだ。
ただ、この状況下で緊急出動に備えることをせず、自身の休日を優先するということは……。公務員として明確な服務規程違反ではないが、水原がレスキュー隊員としての資質を問われることは確かだ。
眞理子は小さく息を吐いた。
「水原に連絡義務はない。が、結城の確認待ちだな。山小屋に退避していてくれればいいが……そうでない場合、遭難者認定をして、島崎同様に捜索に入ろう」
「了解しました。しかし、こんなケースは初めてですね……」
南の声と被るように、廊下を走る音が聞こえた。
「隊長! 駄目です……水原さんの携帯は出ません。それから、五合目以外の吉田と須走のロッジに連絡しました。居たら連絡が来ると思います。五合目は巡回中の警官に頼みました!」
事務室と呼ばれるこの場所は、当初、無線室と出動前の待機室であった。狭いのはそのせいである。
本来の事務室は、三階の訓練室と呼ばれる部屋の一角。そして隣の会議室がブリーフィングルームになっていた。ただ、忙しい時に三階まで上がる余裕はなく、暇な時は事務室に留まる理由もない。
大規模な遭難事故が発生した場合、この五合本部に捜索本部が設置される。山岳警察本部の幹部が司令室にするため、立派な会議室が作られたのだという。
だが、実際は……標高二千メートルを超える五合目まで上がりたがる幹部はおらず。毎回、形ばかりの司令部が麓に設営されるのだった。
結城は素早く連絡するために、三階のFAXを使ったらしい。
「ああ、ご苦労さん。結城、お前は動けるな。装備を整えて五分後に玄関集合」
「りょ……了解しました!」
眞理子自身再び出動着に着替えるため、部屋を出ようとする。
「結城と出動する。南、後を頼む」
「はい。ですが、迷える子羊が二匹……神様も迷うでしょうね」
「心配は要らない。何匹迷っても必ず捜し出す!」
眞理子の力強い言葉に敬礼で応える南であった。
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その、迷える二匹の子羊は眞理子の予想通り一緒にいた。
しかも土砂降りの雨の中、岩肌にぶら下がる形で……水原の腰にはピンと張られたロープが下がり、その先には意識のない島崎が吊られていたのである。
十六時頃に眞理子と分かれ、一人で六合辺りの巡回を続けて二時間弱――。
一人の下山者もおらず、いよいよ五合本部に連絡を入れ、自身も引き上げようと考えた時だった。なんと、下山道に人影が……休日を理由に単独登山中の水原だった。
「よぉ。最悪の天気だな。あの女に、置いてきぼり食らったのか?」
ここ最近、島崎は登攀訓練において調子を落としている。その原因がこの男だ。先輩風を吹かせ、上から目線の水原とは口を聞くのも煩わしい。
「下山勧告が出てます。早く下りてください」
「判ってるよ。山小屋からあぶれた登山客がいないか、確認しながら下りてきたんだ」
「え?」
そのことは島崎も耳にしたことがある。悪天候の中や、高山病で体調不良の客がいても、平気で追い出す山小屋も少なくないという。理由は、定員オーバーで手が回らないとのこと。安全確保のため、善意の保護をお願いしているが……。
「なんだ。そんなことも知らねえのか?」
「知ってますよ! いい加減、そんな言い方は止めてください。この、山岳警察では同期なんですから!」
「そういう台詞は、せめてハーケンくらい真っ直ぐ打てるようになってから言え」
島崎は唇を噛み締めた。
高校・大学と山岳部でクライミング歴十年以上という水原だ。山岳警察への転属を願い出て、レスキューの採用試験に受かってから始めた島崎とでは、基本技術の差が歴然としている。
実際、水原はすでに出動を経験しており、眞理子や南の扱いも一人前に思えた。
それに比べて島崎は、未だ十メートル前後の高さで訓練が中心の毎日だ。
もちろん、眞理子らが島崎に何を言うでもない。だが、それも彼にはプレッシャーになっていた。
「僕のことは放って置いて下さい。さっさと……」
島崎が水滴を振り払うように、水原に下山を促そうとした瞬間である。雨に煙る山道に、絹を裂くような女性の悲鳴がこだました!