(12)たった一つ
眞理子は手当てを済ませると、すぐに仮眠室から出た。
工具箱は倉庫にある。それを取りに行ってから、無線室にいるはずの島崎と交代しよう……そんなことを考えながら階段を下りる。
ドアは蝶番を付け直せば使えるだろう。ホワイトボードは脚の部分が曲がっていたが、ボード部分が無事なら構わない。他に何を壊しただろう? 眞理子が思案した時、人の声が聞こえた。
「くっそーなんだよ、これ。全然使えねえ」
廊下の真ん中、壊れたドアの前に座り込む男がいた。水原である。
「水原? 島崎と代わったのか?」
「アイツ……飯がまだだって言うからさ」
水原は眞理子から微妙に視線を逸らせつつ答えた。
「そうか、ありがとう。もういいよ。お前もまだだろう? 早く食って来ないと、緊急呼び出しが掛かったらアウトだぞ」
眞理子は何もなかったかのように微笑み、「お疲れさん」と声を掛けた。
事務室の床に落ちていた書類は、全て机の上に戻っている。ホワイトボードは僅かに傾いたまま、壁際に置かれていた。パーテーションのへこみも遠目には目立たない。この短時間に水原ひとりで片付けられるものではないだろう。眞理子は部下たちに感謝しつつ、微苦笑を浮かべる。
「なんで言わなかったんだ……肩を痛めてたって」
水原は憮然とした表情で、チラリと眞理子を見ながら尋ねた。
ドアには剥がれたような穴が開いている。彼はその穴を板切れで塞ぐつもりらしい。
「大したことはない。ひょっとしてドアを直してるのか?」
「喧嘩は基本的に両成敗だろ」
「ふーん」
眞理子はそれ以上は何も言わず……水原の傍らにある工具箱からドライバーを取り出していた。そして、桟に残ったままの蝶番の残骸を取り外し始める。
「べ、べつに……お前の心配してるわけじゃ」
水原の声はどんどん小さくなる。
小声でぶつぶつと――女を武器にする奴は信用出来ない。何で恥ずかしげもなく隊長なんかやってるんだ。そんなことを口にしている。
「南さんに色々教わって判った。やっぱり、隊長に相応しいのはあの人だ」
少しボリュームを上げ、水原はキッパリと言い切った。
「確かに、南は素晴らしいレスキュー隊員だよ。いい男だしね」
「顔は関係ないだろうが!」
「年上のくせに喧嘩っ早い馬鹿男とは雲泥の差だ」
「それは俺のことか?」
眞理子が口を閉じると、水原も黙り込む。
二人はしばし、無言で作業を続けたのだった。
~*~*~*~*~
「なあ、水原……」
口火を切ったのは眞理子のほうであった。
水原は何も答えず、手にした金槌で短い釘を打ち込む。
「みんな命懸けだよ。生きて戻る覚悟が、死ぬ覚悟に劣るとは思えない」
眞理子の声は静謐に包まれていた。思わず納得してしまいそうなほど、穏やかで心地良い。その凛とした声は、廊下から玄関ホールの闇を漂い、本部玄関に点る赤色灯に吸い込まれて行くような錯覚すら感じ……。
水原は慌てて頭を振り、まったりと流れる時間を斬り捨てた。
「びびってて仕事になるかよっ! そんなんで、いざって時に人のために死ねるのか?」
「私は怖いよ……死にたくない」
ガンッ!
水原は釘を思い切り打ち付けると頭を上げた。
「だったらさっさとレスキューを辞めろ!」
「怖いけど……助けたいと思う。私が落ちたら、ロープで繋がってる相棒も落ちる。背負った遭難者も一緒に……。誰も死なせない為には、生きて戻らなければならないんだ」
ガンッガンッ――。
水原の金槌の音が大きくなる。
「俺だったら独りで死ぬよ。……ロープを切る」
「後は任せた、か。結局、人には生きて帰れって言うんだな」
眞理子の口元には悲しげな顰笑が浮かんでいる。水原には彼女の言葉の意味が判りそうで判らない。
――ガンガンガンッバゴッ!
思い切り釘を叩いたつもりが……穴の上を叩き、金槌は板にのめり込む。
ドアの向こうでは壁に顔を伏せるように眞理子が笑っている。
「なあ……なんで、今日のがそんなに不味いんだよ。俺が気に入らないだけだろ? 結城は関係ないよ」
――自分に靡かない男を見せしめに処分した。
水原の目に眞理子の行動は、女性独特のヒステリーとしか映っていなかった。
「たったこれだけ、大したことない……それを慢心と言うんだ。素人でも出来るなら素人に戻ればいい。決められたルールには意味がある。守らなければ、重大な過失を招く可能性があるんだ」
「馬鹿馬鹿しい! 大袈裟なんだよ。そんな」
取り合おうとしない水原に眞理子が口にした内容は、密かに彼の心に衝撃を与える。
今回、眞理子が神経質になった理由。それは、要救助者が子供だったからだ。
その場合、親をはじめ同行者は冷静さを欠き、自ら無茶をしようとする。結果、最も二次災害を招きやすいケースであった。
加えて、レスキューに入っても必ず口を出してくる。
――それで助けられるのか? もっと早くしろ! 子供に何かあったらお前たちのせいだ!
そんな横槍を無視し、同行者の安全を確保しつつ、適確に救助する。
問題はそれだけではない。
子供の場合、怪我の状態を正確に知ることが難しいのだ。それは伝える力が拙いというだけではなかった。悪ふざけが事故に繋がった場合、子供は叱られること恐れて口を閉じる。様々な不都合を言わない時も、大仰に言う時もある。それが取り返しのつかないことにならないよう、細心の注意を払いつつ、レスキュー隊員は任務を遂行する必要があった。
「万に一つの可能性を考えて動く。――命は一つだ。無駄に懸けるものじゃない」
それは、金槌で殴られたような衝撃だった。
さすがの水原にも、思い当たる節がいくつもある。彼自身、遭難者の祖父母に急かされて救助に向かったのだ。幸い、病院の検査でも異常なしだったと言う。だが、もし頭でも打っていたら……。ろくな確認もせず、痛い所はないという子供の言葉を鵜呑みにしていた。
考えたくはない。認めたくもなかった。だが、眞理子の言うことは……正しいのかも知れない。
水原の動きが止まったのを見て、眞理子がボソッと呟いた。
「なあ、水原。気付いたんだが……お前これ、上下逆じゃないか?」
「もっと、早く言え!」