(11)敗者
事務室と無線室を区切るパーテーションは、二人がもつれるようにぶつかり、歪んでいた。ホワイトボードは机に向かって倒れ、床には落ちた物が散乱している。加えて、部下たちが覗き込む廊下側の扉は、蝶番が弾け飛び見事に外れていた。
通常では考えられない惨状であろう。挙げ句、眞理子の上に水原が馬乗りになり、右腕を捻り上げているのだ。
「水原……貴様!」
南は一気に間合いを詰め、その勢いのまま拳を繰り出した。右ストレートが水原の左頬に入り、外れた扉近くまで吹っ飛んだ。それだけでは収まらず、南はさらに水原に殴り掛かる。
珍しく血相を変えた南に、全員止めるのも忘れていた。
「止せっ――南!」
眞理子の一喝に南の動きはピタッと止まった。
彼女はズボンの埃を払い、スッと立ち上がる。その瞬間、僅かに口元を歪め左手で右肩を押さえた。
「ただの喧嘩だ。水原……私の負けだ、済まなかったな。ドアの修理は私がする。だが、処分は撤回しない。不満があるなら……続きは明日だ」
眞理子は彼女の隣でオロオロする島崎を見つめ、苦笑いを浮かべる。
「大丈夫だよ、島崎。背中は痛むか?」
「い、いえ……もう湿布だけで……」
「そうか、良かった。怪我が大したことないなら、しばらくここを頼む。お前たちも呑気に見てるんじゃない、食いっぱぐれるぞ。――南、報告を聞こう。来てくれ」
眞理子は島崎に無線の番を任せ、南を伴い二階の仮眠室に上がったのだった。
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水原は言葉もない。
腕っ節には自信があった。実際の所、ここまで手こずらされたのは初めてだ。それも相手は女である。立ち上がろうとした瞬間、膝がぐらつき……水原は慌てて壁にもたれ掛かった。
少し脅かしてやろう、本当にその程度の気持ちだったのだ。それが、一体どれほどの力を入れて眞理子を押さえていたのだろう。彼は自分のしでかしたことに恥ずかしさを感じていた。
そんな水原を他の隊員は白眼視している。そして、弱冠二十歳の島崎が水原に詰め寄った。
「水原さん、こんなのは喧嘩じゃない。いじめだ。やることが汚いよ」
「はあぁ? ちょっと待て。アイツだってメチャクチャだろ? 見ろよ、頭突きに裏拳、肘打ちまで使うんだぞ。相当喧嘩なれしてるよ」
ここで素直に謝罪や責任が口に出来る男ではない。水原は本心とは裏腹に、眞理子の立ち去った方向を見て悪態を吐いた。
「違う。そうじゃないんだ!」
そして、島崎が口にした言葉は……。
島崎が制動操作を誤った一瞬、眞理子はロープを右腕一本で支えた。その時に右肩を痛めたのである。
一緒に病院に行ったほうが、と勧める島崎に「この程度なら大したことはない。警察病院には煩いのがいるから、私はパス」
眞理子は当然のように断わると五合本部に戻り、自分で手当てをして次の現場に出動したのである。
殴り合いの最中に負った怪我ではなく、最初から眞理子にはハンデがあった。その事実に、水原は驚きを隠せない。
「だ、だったら何で言わないんだ? 知ってたら……」
「嘘つけ! 右肩にダメージがあるのに気づいて攻めたよな? だろ?」
緒方の言葉は強引な決めつけだ。だが、事実である。
「ホワイトボードにぶつかった時にやったと思ったんだ! 最初から判ってたら、そんな」
何を言っても言い訳に聞こえる。それが判るだけに、水原も言葉が続かない。
「ま、敵の弱みを攻めるってのは、喧嘩に勝つための常套手段だけどな。っつうことは、弱みを見せた隊長の負けってことか。良かったな、勝って嬉しいだろ。祝杯でも挙げたらどうだ?」
突き放すような緒方の嫌味を、黙って聞くことしか出来ない水原だった。
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仮眠室には二段ベッドが二台設置してあった。奥側にはソファセットと畳が二枚置かれた休憩室もある。広さはどちらも六畳程度だ。仮眠室と休憩室の間に扉はなかった。
眞理子はベッドにもなるソファに腰掛け、大きく息を吐く。
「全く……馬鹿をやるにも程があります。何処の隊に部下と殴り合いの喧嘩をする隊長がいますか!?」
「此処にいたりして……すみません」
冗談で切り返すと南に睨み返され、眞理子は素直に謝った。
休憩室の右奥に洗面台があり、その横にロッカーが並んでいる。南はその上から救急箱を下ろした。そして、畳の上にある小型の冷凍庫から冷却剤を取り出し眞理子の許にやって来る。
眞理子は制服を脱ぎ、インナーのランニング一枚になった。むき出しの肩を見るなり、南は舌打ちする。右肩は、腕を上げるのも辛いほど、パンパンに腫れ上がっていた。
眞理子は腕や背中に湿布を貼り、患部にガーゼで巻いた冷却剤を当てて冷やした。
「水原と殴り合って勝てると思ったんですか?」
「やってみなきゃ判らないでしょう?」
「やらなきゃ判らないことならやるな、と誰かが仰ってましたね」
南の口調から察するに、嫌味ではなく本気で怒っているらしい。
眞理子は、そんな南を宥めるように言葉を選んだ。
「一度はやらなきゃ収まらないかな、と思ってね。でも、今日はちょっと分が悪かったかな」
「次こそは……なんて考えてませんよね?」
当たらずといえども遠からずであろう。
眞理子はわざとらしく声を立てて笑い、返事を濁した。元々かなりの負けず嫌いだ。立場が逆なら決着がつくまで殴りかかっていただろう。
眞理子は神奈川県警で採用された地方公務員だった。
そんな彼女は警察学校時代、柔剣道や逮捕術担当の教官を投げ飛ばし、道場の壁に穴を開けるという逸話まで作る。そのパワーは卒配後も遺憾無く発揮され……。眞理子の力を持て余した県警は、試験制度採用前であった山岳警察に、いきなり配置転換したのである。
眞理子は山の“いろは”も知らず、ある日突然、富士の五合目で十数人の男と一緒に寝起きする羽目になったのだ。だがそれは、結果的に彼女にとって幸運だった。
当時の隊長指導の下、卒配から半年でリストラ対象になりかけた桁外れのパワーに活路が拓かれる。眞理子はこの山で、自らの存在価値を見出したのだった。
「夜勤は私が代わりましょう。食事を取って休んでください」
「いや……大丈夫だ。反省してるよ、負ける喧嘩は二度と買わない。それでいい?」
南はため息を吐きながら軽く頭を振る。いい加減呆れたのか、口元は綻びかけていた。「喧嘩そのものを止めて頂きたいんですが……」南の呟きに、聞こえないフリをする眞理子だった。