第三話 女教師の心の氷を解かせ
バーバド大学 冷たい透明な硝子の廊下を、アルベルトはゆっくりと歩いていた。
氷の廊下と呼ばれている。
マリ・キュウリ。
ノーベル化学賞二度受賞。化粧っ気もなく、ストレートの黒髪に細緑の眼鏡。
教壇では鉄より冷たい声で、学生すら睨みつけて黙らせる女。
彼女の男性恐怖には過去のトラウマがあった。
―彼女の記憶の中―
学生時代。学会で成果を発表した直後、ある教授が「お祝い」と称して彼女の体を無理やり抱こうとした。
その瞬間から、マリは男性に対して「見えない壁」を作るようになった。
「賢い女性は、身体なんかで愛されるべきじゃない」
「愛されると、壊される」
鏡に映る彼女の心は、孤独と恐怖でいっぱいだった。
だが、彼女の研究論文には、どれも“人間の内面”に関する熱い問いが隠されていた。
「この人は心は冷たくない。ただ……表面だけ凍ってるだけだ」
そう思った瞬間、勇者アルベルトは動き出していた。
その1【戦わずして距離を縮める】
講義終了後の研究室前。
「あなた……また来たの。退学処分になりたいのかしら」
「突然だがあんたの弟子にしてくれ」
「は?」
勇者アルベルトは頭を下げる。
「俺は、あんたの豊富な知識に魅せられただけだ。戦うより、生きることの答えが、あんたの研究にある気がしてる」
マリは一瞬目を細めたが、冷たく返す。
「……勇者という立場を、売りにしてるわけ?」
「いや。俺の魔法は物理で説明できない。誰にも証明されなかった。でも、あんたなら、解けるかもしれない。だから学びたい」
その言葉に、マリの眼鏡越しの目が一瞬揺れた。
その2【観察対象にさせる】
大学の研究室の一角。マリは腕を組んでアルベルトを見る。
「あなたの“キズキ”という魔法……人の感情を察知する?」
「ああ。正確には“空気の変化”とか“目の動き”とかの無意識を拾うんだろうけど。原理はわからない」
「……脳のシナプス共振の応答か。魔法脳理学では未証明ね」
「俺は証明できない。でも、マリ先生、あんたならできる。なにしろノーベル賞を二回も獲った女だ」
「……まさか、自分を“研究対象”にしてと言ってる?」
アルベルトは頷いた。
「俺はデータでもいい。好かれたいとかじゃない。“現象”として扱ってくれ。魔法の謎を解く助けになれたら本望だ」
マリは無言で、少しだけ頬に触れる髪をかき上げた。冷たいはずのその指が、なぜか少しだけ震えていた。
その3 【男ではなく“現象”として扱わせる】
何度かの実験を経て、マリは気づいていた。
このアルベルトという男を“観察”しているうちに、なぜか心の奥がざわめく。
彼の表情や息づかいが、まるで自分の心とリンクしているような錯覚。
それはまるで、感情のミラー現象の心理学でいう“ミラーシンドローム”だった。
(……まただ。この感覚。過去のあの恐怖と似てる……でも、どこか違う)
その4 【ヒントだけ残して引く】
夕方、実験後の研究室。
アルベルトはデータ表を置くと、そっと立ち上がる。
「今日はこれくらいにしよう。……あんたの目、疲れてきたから」
「別に、あなたの気遣いなんて求めていないけど」
「でも、マリ先生が疲れてることには変わりない。また来週、時間が合えば“観察”してくれ」
そう言って、彼は何も求めずに出ていった。
その5 【余韻を残し気にさせる】
マリは机に残されたデータをぼんやりと見つめる。
そして、ふと口にしてしまう。
「……勇者って、もっと強引なイメージだった。
でも……あの人は、妙に静かで、でも……うるさくて……
――あれ? 私、何を考えてる?」
胸の奥に、氷の表面にできた小さな心の温かさ、ほんの小さな“心の氷のひび”を感じながら。