空虚と覚悟
ここは、梶山会・縦浜南記念病院の医局。
スクラブに白衣、ステートを首にかけた女性が、一礼する。
まどか「今まで本当にありがとうございました。先輩方のおかげで、無事に研修を終えることができました」
彼女は、まもなく精神科の専門医として独り立ちしようとしていた。
如月雄二「君は元々優秀だった。あの小児の腸重積、見抜いたのは君の助言だ。助かったよ」
エスプレッソマシンの前で如月がコーヒーを注ぎ、ひと息つく。
如月「次は穴沢会・中澤山病院の精神科に行くんだって?」
まどか「はい。人と向き合うには、一番いい場所だと思って……」
彼女の胸には、金髪のある男の言葉が残っていた。
『人と向き合え――』
まどか「ここも、あと1ヶ月なんです。荷造りが大変で……」
如月「よかったら手伝おうか。……その代わり、飯でも行こうよ。2人きりで――フフフ」
その目線を、横から思い切り叩く女がいた。
丸山直美「調子に乗んな、バカ。姫川さんにも田山さんにも同じこと言ってたって聞いたよ。それに、あんたの机の上の“アレ”、どうにかしなさい!」
如月「いだっ!? わかったってば!」
まどかは笑いながら言った。
まどか「……やっぱり、自分でがんばります」
このやり取りにも、もう慣れっこだ。
夜勤明けの朝。
まどか「恭二さん……人と向き合うのって、難しいね……」
無意識に漏れた言葉に、如月が反応する。
如月「ん? 恭二? 誰だそれ」
まどか「あっ、親戚です。ちょっとした……」
まどかは、ふっと窓際に立つ。
まどか「――私に、人の心の温かさを教えてくれた人」
その背中に、丸山がにやりと笑いながら声をかける。
丸山「……まどかの“好きな人”ってわけね?」
まどか「ちがっ……そんな、わけないじゃないですか!!」
仮眠室のソファでまどかは少しだけ横になる。
――気がつくと、夢の中で叫んでいた。
まどか「恭二‼️……恭二‼️」
誰かが倒れている。人だかりの中で――
「大丈夫ですか!?」
……ハッと目が覚める。ピンクのスクラブの看護師がのぞきこんでいた。
姫川「白石先生、大丈夫ですか?」
まどか「……もう回診の時間ですね。203号室の大川さんは……」
香川政典、25歳、2児の父。失職と家族へのプレッシャーに耐えきれず、トラックに飛び込み搬送された。
まどか(体は問題なさそう……でも……)
その目が気になった。ビー玉のように、空っぽで、感情が抜け落ちていた。
数日後、退院が決まる。
如月「裂傷も安定してるし、退院でいいってカンファで決まったよ」
まどかはうなずくが、何かが胸に引っかかっていた。
退院当日――
典子「さ、帰るよ。政典」
香川政典「……ホントウニアリガトウゴザイマシタ」
満面の笑顔。けれど――
まどか(……なに、この違和感)
ぎこちない抑揚。まるでセリフのような言葉。
行こうとする香川の背を追おうとするが――
木原「先生、203の田川さんのレボフロキサシン、もうやめても大丈夫そうですね?」
まどか「……ええ、やめましょう。食欲も戻ってきてるから」
振り返ったときには、もう香川の姿はなかった。
夕方のニュース。
アナウンサー「25歳の男性が交差点でトラックにはねられ――」
画面に映る名前。
『香川政典』
まどか「……やっぱり……」
無意識に、机にあった鳩サブレーの箱を掴み、ビリビリに破いた。
丸山「……どうしたの? 大丈夫?」
まどかは立ち尽くしたまま、小さくつぶやく。
まどか「……大丈夫」
でも――涙が止まらなかった。
まどか「……んなの、わかってる……でも……助けたかったのに……!」
丸山は黙って、まどかを抱きしめた。
彼女はその胸の中で、声を上げて泣いた。
まどか「……スッキリした」
丸山「やっぱ、まどかには精神科が似合うよ」
そんな冗談に苦笑しながら――
医師として、人と向き合う覚悟を決めた。
午後の仕事が始まる。
Nsステーションに向かう白衣の背中は、どこか誇らしげだった。
この第2章で、まどかは「精神科医」として本当のスタートラインに立ったのです。




