Ⅳ.王国〈クインダム〉2
“ヒューイ”ヘリコプターが巡航高度に達すると、アリーはほっと一息ついた。姫から示された場所へ向かってまっすぐに飛ぶ。幸い、燃料は十分にあった。
アリーは後部座席のクラーラ姫に機内通話装置を通じてその旨を報告した。
「姫さま、聞えますか」
「よく聞えるわ、アリー」
「本当にこれでよろしいのですか」
「ええ」
「でも、ご指示の場所は海の真ん中です」
一瞬の沈黙の後、クラーラ姫はこう答えた。
「そうです。他国への亡命を考えているのです」
「亡命・・・国を捨てるのですね」
「いいえ」
「? ですが、」
いぶかしむアリーに、クラーラ姫はこう言った。
「わたくしが国を捨てるのではないのです。国が、国民がわたくしを捨ててくれたのです」
「捨てて、くれた?」
「ええ。これは歴史の必然なのです。王制とは国民によって支えられるべきもの。国民がそれを望まなくなった時、その国の王制は存在できなくなる。言い換えるなら、ローゼンバッハ王家はローゼンラント王国において、その歴史的役割を終えたのです」
「姫さま・・・」
「父と母を失ったことは悲しいことです。けれど、わたくしは復讐の権利は放棄します。もしわたくしが王制の復活と、両親の復讐のために兵を挙げたら、それは内戦を意味します。国民をいたずらに苦しめることになってしまう。亡くなられた父王陛下がそれを望むとは思えません」
やがてヘリコプターは海岸に出た。そこからは陸地を離れて地中海へと進む。アリーはクラーラ姫のつぶやきを聞いた。
「さようなら、我が祖国よ」
その時だった。ヘリの無線機に連絡が入った。
「飛行中の《ホルニッセ》に告ぐ。応答せよ」
野太い男性の声だった。
「こちらはローゼンラント共和国空軍、第一飛行小隊の《ドラッヘ1》である。《ホルニッセ》応答せよ」
むろんアリーは無視するつもりだった。だが、
「《ドラッヘ1》より《ホルニッセ》に告ぐ。当方は《ホルニッセ》を火器管制レーダーで捉えている。直ちに応答せよ」
逡巡した後、アリーは無線回線を開いた。時間を稼ぐのだ。もう45口径は役に立たない。言葉を武器にしてなんとか逃げ切るしかないのだ。
「こちらは《ホルニッセ》改め《ローゼン1》。要件を述べよ」
「こちら《ドラッヘ1》、コールサイン変更の理由を要求する」
「当機は《ホルニッセ》より薔薇の御盾団が接収した。現在の操縦者はクロイツァー上級中隊指揮官である」
短い沈黙の後で《ドラッヘ1》はこう言った。
「《ホルニッセ》はクロイツァー少尉に強奪されたとの連絡があった。相違ないか」
「クロイツァー元少尉だ。当方は軍籍を離脱している。こちらはローゼンラント王国、薔薇の御盾団の《ローゼン1》だ」
やや長い沈黙。アリーはノイズしか聞こえない無線を前にじっと待った。
「《ドラッヘ1》より、《ローゼン1》へ。クラーラ姫は搭乗しているのか」
「こちら《ローゼン1》、回答は拒否する」
その時、後席のエリカの叫び声が聞こえた。
「右上空に何かいます!」
進行方向の右側に注意を向ける。夕焼けの空に何かかがキラリと光った。方位を確認すると、後席のエリカに伝えた。
「今の輝きを見ましたね。あの方位は二時の方角です。アナログ時計の文字盤をイメージしなさい。進行方向が十二時になります。空域見張りを頼めますか」
「ヤボール、クロックポジションですね。分かります」
小気味よい返答にアリーは思わず微笑んだ。本当にエリカは役に立つ。立派な薔薇の御盾 だわ。と。
「四時の上空!」
エリカの鋭い声。そして続けて、
「十一時上空にも!」
「見えています。追っ手は二機のようですね」
再び無線が入る。
「こちら《ドラッヘ1》、そちらを視認した」
その言葉と同時にヘリの前を轟音と共にジェット戦闘機が横切った。
細長い胴体に水平尾翼付きの三角翼を持つ機体。ミグ21だった。十一時の方角にいた機が急降下してきたのだ。無塗装の銀色の機体が夕陽を反射して妖しく輝いていた。
「止さないか《ドラッヘ2》」
《ドラッヘ1》の冷静な声が無線から聞こえる。
「こちら《ドラッヘ2》。なぜ撃墜しないんです。こんなヘリ、ミサイルを使うまでもない。機銃掃射の良い的じゃないですか」
生意気そうな若い男の声だった。その嗜虐的な物言いにアリーのこめかみはピクリと痙攣した。
「《ドラッヘ1》から《ローゼン1》へ。部下が失礼した」
あくまでも冷静に話しかけて来る。そして、
「あらためて《ローゼン1》に命じる。直ちに進路を0-2-0に変更せよ。祖国に帰還するのだ」
「こちら《ローゼン1》。拒否する。ローゼンラント共和国はもはや祖国ではない」
「《ドラッヘ2》から《ドラッヘ1》へ意見具申。直ちに撃墜しましょう」
「だめだ《ドラッヘ2》。クラーラ姫を確認してからだ」
そして、
「《ドラッヘ2》、機内を確認せよ。フルフラップ、ギアダウンだ」
「ヤボール」
その言葉と同時に再びミグ21が接近してくる。
大きく旋回して“ヒューイ”の後ろにつくと、フラップを降ろし、着陸脚まで降ろした。そして機首上げの姿勢を取って、無理やりに速度を下げて接近してくる。
とはいえヘリとジェット戦闘機とでは速度が違う。その状態でもなお速度差は時速40㎞はあった。
アリーは一瞬、アクロバティックな動きで振り切るか、急減速してやり過ごそうかと思ったが、すぐにその考えを捨てた。下手に動いて空中衝突などしたら目も当てられない。それに後部座席の二人は何の訓練も受けていない。無茶な飛行で危険な目に合わせる訳には行かなかった。
だからアリーは操縦桿をしっかりと握って進路と速度を維持した。
銀色の機体がヘリのすぐ横を追い越してゆく。アリーはこちらを見ているミグのパイロットと目が合ったと思った。実際にはヴァイザー付きのヘルメットを被っているのでしかとは見えなかったのだが。
だがはっきりと見えたものもあった。機体にはローゼンラントの国籍標識である王冠を頂いた薔薇の意匠が描かれているはずだった。だが垂直尾翼に描かれたそれは王冠部分が銀色の塗料で雑に塗り潰されていた。
ミグ21は“ヒューイ”を追い抜くと着陸脚を収納して速度を上げ、大きく旋回した。
「《ドラッヘ2》から《ドラッヘ1》へ。確認しました。後部座席に金髪と黒髪の娘っ子です。金髪は間違いなくクラーラ姫でした。へへへ、二人抱き合っていましたぜ」
どこかふざけた口調だったが、クラーラとエリカを見分けたことは確からしい。戦闘機パイロットは目が良いということはアリーも知っていた。
「《ローゼン1》、聞こえるか」
《ドラッヘ1》が落ち着いた声音で告げる。
「当方の指示に従い進路を変更せよ。従わない場合は撃墜する」
「拒否する」
「冷静に判断するのだ《ローゼン1》」
どこか諭すような口調で続ける。
「このままでは君の大事な姫君が死んでしまうぞ。投降すれば少なくとも命は助かる。姫を救えるのは君だけなのだぞ」
その言葉に悪意は感じられなかった。そう思ったアリーは努めて冷静に応えた。
「《ドラッヘ1》、助言に感謝する。なれど、我が忠義はそれを良しとしない」
「なら撃墜しましょう、《ドラッヘ1》」
せっかちな若い声が聞こえた。
「口実は作りました。無線交信記録もバッチリです。ローゼンバッハ家はこれで根絶やしです。共和国ばんざい!」
先ほどのミグ21《ドラッヘ2》がヘリの周囲を旋回をしている。高空でキラキラと見える機体の反射光は《ドラッヘ1》だろう。
その間にもヘリは海上を進んでいた。コンパスは約束の場所を目指していた。ややして、
「《ドラッヘ1》はこれより《ローゼン1》を攻撃する。《ドラッヘ2》は我を援護せよ」
「ヤボール。そう来なくちゃ」
あくまで軽薄な《ドラッヘ2》の言葉にアリーは唇を噛んだ。
「姫さま、少し振り回します。シートベルトを付けてしっかり掴まっていて下さい。それから舌を噛まない様にお気をつけを。エリカ、あなたもです。姫様をお守りして」
機内通話装置を通じて後部座席にそう伝える。
「ヤー」
「ヤボール」
ふたりの短い答え。アリーは覚悟を決めて操縦桿を握る手に力を込めた。
だがその時。
きれいな発音のクィーンズ・イングリッシュが無線から聞こえた。
「こちらは英国海軍、HMSクィーン・エリザベス所属の《ナイト1》。当該空域は我が軍の管制下にある。戦闘行為は認めない。ミグ戦闘機は直ちに退去せよ」
アリーはヘリのキャノピー越しに周囲の空域を見た。だが、ミグ21以外の機影はどこにも見あたらなかった。
無線からは《ドラッヘ1》の返答が聞こえた。
「こちらはローゼンラント共和国空軍《ドラッヘ1》、当該空域は我が国の領空内である。不法侵入の《ナイト1》は直ちに退去せよ」
「こちら《ナイト1》。当該空域は現在のところ我が軍が実効支配しているが、本来はローゼンラント王国の領空である。ローゼンラント共和国など存在しない。したがって貴君の命令は無効である」
丁寧な言葉できっぱり拒絶する。英国紳士らしい嫌味な対応だとアリーは思った。
「ローゼンラントは王制から共和制に移行した。従って領土領空はそのまま引き継いでいる」
律儀に応じる《ドラッヘ1》。軍人らしい明瞭な言葉だった。
だが、《ナイト1》はその言葉を一蹴した。
「今現在、いかなる国もローゼンラント共和国なるものを承認していない。また、現在ローゼンラント王国が統治能力を喪失していることは確認済だ」
《ナイト1》も冷静に反論していた。それはミサイルも銃も使わない言葉による静かな空中戦だった。
「《ドラッヘ2》より意見具申。《ナイト1》の実力での排除を提案します」
またしてもしゃしゃり出てくる《ドラッヘ2》。血気盛んとはこのことだな、とアリーは苦々しく思った。
「こちら《ナイト1》それは不可能だ、と警告しておく」
淡々とした口調で、
「こちらはF-35Bだ。最新のステルス機だぞ。そもそも君たちの機上レーダーには映っていないだろう。それに君たちが地上レーダー基地の支援を受けていないことも承知している。レーダー基地を押さえるのに失敗したな」
そして笑いを含んだ声でこう続けた。
「どこにいるのか分からない相手をどうやって撃墜するのかね」
この言葉を聞いた《ドラッヘ2》は馬鹿にされたと思ったらしい。激高した声が無線から聞こえた。
「ただ一機で何が出来る。ステルスがなんだ! 有視界戦闘なら互角だ」
「そういうセリフはせめてミグ29かF-16に乗ってからにしてほしいな。君の機体はミグ21だろう。どこのスクラップ置き場から拾ってきたのか知らないが、そんなポンコツではただの的だ」
意地の悪いことをさらりという。そしてとどめを刺すかのように付け加えた。
「それに当方が一機だけだとどうして思った」
「こちらは《ナイト2》、上空にて戦闘待機中」
別の声が割って入った。
「二機のミグ21にロックオン中。いつでも撃墜可能です」
沈黙する《ドラッヘ2》。そこに追い打ちを掛けるように、
「こちらは《ナイト1》。物わかりの悪い《ドラゴン2》に告げる」
わざとコールサインを間違えたな、とアリーは思った。これもまた英国流の高度な嫌がらせだな、と。
「姫君を守るためドラゴンを退治するのは騎士の務めだ。お伽話を読んだことくらいあるだろう? 21世紀のドラゴン退治物語の悪役になりたいのかね?」
しばしの沈黙の後、
「《ドラッヘ1》より《ドラッヘ2》へ。帰投する」
遠方で銀色の機体が旋回しキラリと夕映えを反射したのが見えた。続いて先ほどからヘリの周囲をまとわりつくように旋回していたもう一機もそれに続く。
無線から「くそったれ!」という捨てぜりふが聞こえた。
二機のミグ21が去ったのち、どこからともなく一機のF-35Bが現れると、すうっと“ヒューイ”に並んだ。
機首に描かれた円形標識が英国軍機であることを証明している。機体後部のエンジンノズルが下向きになった垂直/短距離離着陸(STOVL)モードで、ヘリコプターと同じ速度で並走飛行していた。
コクピットのキャノピー越しにパイロットがこちらを見ている。アリーは無線回線を開いた。
「《ナイト1》、こちらは《ローゼン1》。救援に感謝する」
「《ローゼン1》、間に合ってよかった」
アリーは口調を改めて、
「当方はローゼンラント王国、クラーラ姫の乗機である。貴国に政治亡命を希望する。お取り計らいを願いたい」
「《ローゼン1》、了解した。報告は受けている。空母クィーン・エリザベスまで護衛する」
「了解」
F-35Bのエンジンノズルが水平になり、機体は速度を増してヘリに先行して行く。もう一機のF-35Bは見えなかったが、上空で警戒にあたっているのだろう。
(空母クィーン・エリザベスのお迎えとはね)
アリーは心の中でそうつぶやいた。そしてクラーラ姫が助けを求めた「外国の遠縁の外祖母にあたる方」が誰なのかようやく理解したのだった。
当面の危機を乗り越えてほっとしたのか、クラーラ姫はエリカに話しかけた。
「エリカ」
「はい、姫さま」
「英国に亡命を求めたけれど、わたくし、日本にも行ってみたいの」
「日本ですか」
「ええそう。落ち着いたらだけど。エリカと学校に通ってみたいわ」
「いいですわね。それじゃあ私、お弁当をつくりますね」
「ほんと? 素敵だわ」
何を話しているのだろう、とアリーはいぶかしんだ。日本に行くのはともかくとして、お弁当? とはなんのことだろうか。
「そうだ、アリーも一緒に学校に通いましょうよ」
クラーラの発言に、アリーは驚いて、
「姫さま、一体なにをおっしゃっているのですか」
「わたくしはもう姫ではないわ、アリー。ただの普通の女の子。あなただって17歳の女の子でしょう」
「姫さま?」
「もう姫じゃないったら。ここには三人の女の子がいるだけよ。そうでしょう?」
クラーラは明るくこう言った。
「お姫様と二人の少女騎士のお伽噺は終わったのよ」
けれどアリーはため息をついてこう答えた。
「いいえ、あなたは私にとって未来永劫お姫さまです。そして私も姫さまの御盾であることに変わりがありません。姫さまあるかぎりローゼンラント王国もまた滅亡などしていないのです」
「たった三人の王国ということ?」
つぶやくようなクラーラの問にエリカが答えた。
「それもよろしいかも知れません。女の子だけの王国ですね。素敵だと思います」
アリーも答える。
「姫さま。アリーは何処へなりとも御供いたします。姫さまのいらっしゃるところが私の王国なのですから。ええ、たとえ日本だろうとどこだろうと」
「ありがとう、アリー」
そんなとりとめのない会話、他愛もない会話こそ、今の少女たちの心の安定のためには必要なものなのかも知れなかった。
やがて夕焼けに染まるオレンジ色の水平線の彼方に巨大な航空母艦の姿が見えてきた。
島型艦橋が二つある特徴的なシルエット。クィーン・エリザベス級空母の一番艦であるHMSクィーン・エリザベスだった。周囲には護衛の駆逐艦やフリゲートの艦影も見える。
無線の声が聞こえる。
「《ローゼン1》、こちらはHMSクィーン・エリザベスの航空管制だ。誘導に従い着艦せよ」
「こちら《ローゼン1》。了解した」
三人の少女を乗せたヘリコプターは巨大空母に向けて徐々に高度を下げていった。
ENDE
あとがき
読んでいただきありがとうございました。
この作品は以前別のサイトで「ローゼンシルト ―亡国の姫君―」として公開したものに加筆修正したものです。
楽しんでいただけたら幸いです。
もしお気に召しましたらブックマークと評価ポイントをお願いします。