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Ⅲ.崩壊〈Der Untergang〉2


 クラーラ姫の寝室の前には武装護衛官(ワッヘン)の少女が一人だけ立っていた。


 不安そうなその面持ちを見て、アリーは舌打ちしたくなった。


(警護の者はどんなときでも平静でなければならないのに。そうでなければ姫さまを不安にさせてしまうじゃないの)


「姫さまのご様子は」

「室内です、フロイライン・コマンダ」

「異常はありませんね」

「ヤー。フロイライン・エーリカがついています」


 アリーは眉をぴくりと動かした。どうして一般団員(アルゲマイネ)がまだ残っているのだろう。撤収するよう放送もあったのに。


「わかりました。ここはいいから武器庫に行きなさい。あなたも武装するように」

「ヤボール、フロイライン・コマンダ」


 そう答えると、武装護衛官(ワッヘン)の少女は走って行ってしまう。


(不安に駆られて浮き足だっている。なんてことだろう。薔薇の御盾団(ローゼンシルト)ともあろうものが)


 アリーは寝室のドアをノックした。


「姫さま、アリーです。ドアをお開けしてよろしいですか」


 部屋の中からは、やや緊張した声で、


「ヤー」


 という返事が返って来た。アリーはドアを開き、室内に入った。


 点けっぱなしのテレビの音が聞こえる。衛星放送のニュースだった。さっきまでアリーも執務室で見ていた番組だった。首都(ローゼンブルク)での騒乱について繰り返し報じていた。


 クラーラ姫はベッドの上に座っていた。ブラウスとスカートという旅行用の服を着ていた。そしてアリーから見てベッドの反対側には見慣れない制服を着たエリカが立っていた。紺サージのセーラー(カラー)の上着に同色のプリーツスカート。海軍兵(マリーネ)の制服のようだった。


 アリーは落ち着いた言葉でクラーラ姫を安心させるように、


「姫さま、緊急事態です。ですがご安心ください。薔薇宮殿(ここ)の防備は万全です」


 次にエリカに鋭い視線を送った。


「なにをしているのです、フロイライン・エーリカ」


 自然ときつい言い方になってしまう。


一般団員(アルゲマイネ)には撤退命令が出ているはず。それに、私服に着替えるよう指示があったはずです」

「ヤー。これは私服です・・・正確には以前通っていた高校の制服です」


 返事だけは小気味良い。


「いい加減にしなさい。姫さまを守るのは私たち武装護衛官(ワッヘン)に任せなさい。さあ、あなたも撤収するのです」

いいえ(ナイン)

「なんですって」

「私は逃げたりしません。姫さまをお守りします」

「そんな勝手が許されると思っているの? 銃も扱えないあなたがどうして姫さまを守れますか」 

「私にはこれがあります」


 そう言って手に持っていたものを見せる。それは一振りの日本刀だった。


「刀? いったいどこからそんなものを」

薔薇の間(ローゼンカンマー)の展示物をお借りしました」

「勝手なことを」

「わたくしが許可しました」


 凛としたクラーラ姫の言葉に、アリーは驚いた。


「彼女はわたくしの側にいます。それこそが薔薇の御盾(ローゼンシルト)というものでしょう」


 アリーはじっとクラーラ姫を見た。朝とはまるで別人だった。十も年を取ったような大人びた態度だった。


 知っておられるのだ。両親である国王夫妻が亡くなられたことを。


「姫さま・・・」


 何かお慰めする言葉をお掛けしなければ、と思う。だが、


「慰めは不要です、クロイツァー伯。涙はすでに枯れています」


 よく見るとクラーラ姫の目には赤く泣きはらした痕があった。そしてエリカのセーラー服の胸元にも涙の痕跡があった。


(そうか。エーリカが抱きしめて差し上げたのね。姫さまがもっとも必要としていることを、最も必要としている時に与えられたのね)


 自分には出来ないことだった、とアリーは納得した。そうだ。エーリカは彼女なりのやり方で姫さまのお役にたったのだ。


 不思議と嫉妬心は起きなかった。ただ、自分は自分のやり方で姫さまを守るのだ、という思いを強く自覚した。


 頭を一つ振って、アリーは報告した。


「状況は不明ですが、首都(ローゼンブルク)において何らかの騒乱が起きていると考えられます。必要なら避難していただきます」


 避難の用意を、と言いかけてやめる。すでにクラーラ姫が外出着に着替えていることに気づいたからだ。


(エーリカの気配りね。日本刀のことといい、意外に使えるのかも、この子)


「状況の確認が出来次第連絡いたします。姫さまにはこの場で待機を」

「わかりました、アリー」


 素直にうなづく。もうぐずったり、文句を言ってアリーを困らせたりしない。

 アリーはエリカに視線を移し、


「その刀、扱えるのね?」

「はい。剣道の心得があります」

「けっこう。では姫の警護を頼みましたよ、エリカ」


 そう呼ばれて、エリカははっとしてアリーを見つめた。これまではドイツ語式の発音で「エーリカ」としか呼ばれていなかったのだ。日本語の発音で「エリカ」と呼ぶのはクラーラ姫だけだったのだ。


「ヤボール」


 その返事を聞くと、アリーは寝室を出た。警護の少女はまだ戻ってきてはいなかった。


(何をしているのかしら)


 緊急事態にあって、意外に役に立たない部下に軽く苛立つ。


 と、彼女の小型無線機(ウォーキートーキー)に連絡が入った。


「《ローゼン(ツヴァイ)》より《ローゼン(アインス)》へ。聞えますか」


 副官のヒルデからの呼びかけだった。


「こちら《ローゼン(アインス)》、どうしました」

「すぐに執務室にいらっしゃってください。本部と連絡がとれました」

「状況は?」

「無線では申し上げられません」

「わかりました、すぐにそちらに行きます」


 大股で廊下を歩く。途中、ようやく戻ってきた武装護衛官(ワッヘン)の少女とすれ違ったので姫の寝所を守るように命じた。そして渡り廊下を通り執務室に入る。


 室内にはヒルデが一人で待っていた(ムッター・ハイジの姿はすでになかった)。テレビは消され、執務室内は静寂に包まれていた。


 一瞬、アリーはなぜだか違和感を覚えた。


 ヒルデが持っていた受話器を差し出す。


「本部からです」


 何かがおかしい。そう思いながらアリーは受話器を受け取った。


「クロイツァーです」

「ああ、アリーくんか。わしだ」

「デンペルモーザー将軍! ご無事でしたか。王宮はどうなっているのですか。いったい何が」

「落ち着きたまえ、クロイツァー上級中隊指揮官オーバーシュトゥルム・フューラー!」


 そう一喝されて、アリーは恥じ入った。


「失礼しました、将軍閣下(ヘル・ゲネラール)


 深呼吸をする。デンペルモーザー将軍は語気を緩めて、


「安心したまえ、事態は収拾したよ」

「本当ですか」

「ああ。一時混乱してそちらに心配をかけたね」

「いいえ、そんな。でも、いったい何があったのですか」

「うむ、国王夫妻が亡くなられたの知っているね」

「はい」

「それに伴い、わが国は体制を変えた。ローゼンラント王国は滅び去り、新たにローゼンラント共和国(レプブリーク)が成立したのだ」

「え」


 何を言っているのだろう、この人は。アリーは一瞬、将軍の言葉の意味が理解出来なかった。


「これまで王室に支配されていたわが国は解放されたのだ。国王の傀儡だった首相以下全閣僚は逮捕された。これからは共和制の民主国家として、より自由で豊かな国に生まれ変わるのだ」

「ちょっと待ってください、将軍」


 共和国(レプブリーク)? とはいったい何のことだろうか。


 混乱しているアリーを無視して将軍は一方的に話し続けた。


「情勢が落ち着いたら選挙が行われる。民主主義というやつだよ。国家の運営は国民の手に委ねられるべきだ。一部の貴族や特権階級による専横は否定されねばならん」

「それはどう言う・・・」

「ああ、それと、わしのことはこれからは大統領代行( ・・・・・)と呼ぶように」

「な、」


 何を言っておられるのですか。


「なに、暫定的な措置だがね。それと、はなはだ遺憾ながら薔薇の御盾団(ローゼンシルト)は解体されることになった」


 アリーの耳をデンペルモーザー『大統領代行』の声が素通りしていく。ただ、(ああ、きっとあご髭を撫でながら話しているんだろうな、このひと)と、ぼんやりと思う。


「王室が無くなったのだから当然の措置だ」


 だが、そう聞いてアリーは我にかえった。


「王室は無くなってなどいません。クラーラ姫はご無事です」

「ああ、そのことだがね。君は士官学校を出ていたね」

「はい。しかし、それがいったい、」

薔薇の御盾団(ローゼンシルト)は解体され、上級中隊指揮官オーバーシュトゥルム・フューラーとしての君の身分はなくなる。が、士官学校卒業者は少尉に任官されている。つまり君はこれからは共和国国防軍(ヴェーアマハト)少尉(ロイトナント)というわけだ」

「私に軍人になれと」

「君はもともと軍人だよ。さて、では命令するとしよう。共和国命令第一号だ」


 一体自分に何をさせようと言うのか。


「命令する。クラーラ姫を逮捕したまえ」

「な、」

「国民の財産を不当に独占してきた罪だ。王室の財産はすべて没収される。気の毒だがクラーラ姫にはローゼンラント王国の一千年分の罪を背負っていただく」


 アリーはあまりのことに受話器を固く握り締めたまま立ち尽くしていた。


「これはローゼンシルト協会のマルレーネ理事長のご意向でもある。ローゼンシルト協会はずっと以前から国家改革の方策を練っていたのだよ。そして王政の廃止こそが繁栄の道だと結論したのだ」


 デンペルモーザーの醜悪でおぞましい話は続いた。


「内外へのプロパガンダのため、王族による権力移譲の儀式を取り行うのだ。そのために生きている王族が一名は必要なのだよ。

 前王夫妻は捕縛に向かった近衛の不手際(・・・)で射殺してしまった。儀式にはどうしてもクラーラ姫が必要なのだ・・・聞えているのかね、クロイツァー少尉?」


(落ち着くのよ、アリー。落ち着いてよく考えて。私はどうすればいいの? 何をすべきなの? いいえ、私は何者なの? 私は一体)


「復唱したまえクロイツァー少尉。聞えているのだろう?」


 アリーは大きく息を吸い、答えた。


いいえ(ナイン)

「なんだって。なんと言ったのかね」

いいえ(ナイン)、と申し上げました」

「クロイツァー少尉。君は自分が何を言っているかわかっているのか」

「私は少尉などではありません! 私は薔薇の御盾団(ローゼンシルト)上級中隊指揮官オーバーシュトゥルム・フューラーです!」


 アリーがそう言ったと同時に、誰かが彼女の腰から大型拳銃を奪った。はっとして振り返ると、そこには右手に小型拳銃を持ち、左手で大型拳銃を持った副官のヒルデの姿があった。


「残念です、フロイライン・コマンダ。いいえ、アリアドーネ」


 もはや敬称さえつけずにかつての上官を呼び捨てにする。


「あなたはもっと利口な方だと思っていましたのに」


 そしてアリーに小型拳銃を付きつけながら、左手の大型拳銃をベルトに差した。その手の動きを見てアリーはようやく気づいた。


 彼女の腕には腕章がなかったのだ。薔薇の御盾団(ローゼンシルト)の証である深紅の腕章が。部屋に入ったときに感じた違和感はそれだったのか、とアリーは思い至った。


「受話器を渡していただけますか? それから腰の短剣も」


 アリーは言われた通りに受話器と、そして短剣を鞘ごと差し出した。ヒルデは短剣を取ると無造作に部屋の隅に投げ捨て、それから受話器を受け取った。そしてごく事務的に「両手を上げてください」と告げた。


 アリーは無言でその言葉に従った。


けっこうです(グート)。大統領閣下、エバーバッハです。はい。はい。了解いたしました(ヤボール)

 電話を切ると、ヒルデは冷たく言った。


「これからクラーラ姫の逮捕に向かいます。手伝ってくださいますわよね?」


 アリーは黙ってヒルデを睨みつけた。


「断っておきますけれど、あなたを除く武装護衛官(ワッヘン)の全員が新体制の下で共和国国防軍(ヴェーアマハト)に参加することが決まっています。あなたの味方は誰もいませんよ?」


 それでもアリーは何も言わなかった。


「さあ、もうあきらめて、姫の逮捕にご協力いだけませんか? あなたの言葉なら姫も素直に従うでしょう。何しろ姫のお気に入りですものね、あなたは」


 アリーはようやく声を絞り出した。


「誰がお前たちに協力など」

「協力していただかないと、あなたのお大事のお姫さまが辛い目に合われますわよ。髪の毛を掴まれて、泣きながら引き摺られていく姫の姿を見たいのですか」


 瞬間、アリーは自らの血液が沸騰するような怒りを覚えた。


「なんて恥知らずな。あなたはそれでも薔薇の御盾団(ローゼンシルト)なの。姫さまを守るのが私たちの崇高な使命なはず。それなのに、よくもそんな」

「崇高?」


 ヒルデはバカにしたような笑みをみせた。アリーは彼女が笑っているところを初めて見たような気がした。


「私たちがお姫さまを守る忠勇な騎士だったとでも? そんなお伽噺を本気で信じていたのですか? 私はただ、薔薇の御盾団(ローゼンシルト)に入れば将来を約束されるからこの道を選んだに過ぎません。そうでなければ、誰があんなわがまま娘のお守りなんかするものですか」

「なんてことを」

「今日の事だってそうです。姫さまが夜更かしして発熱などするから、薔薇宮殿(ローゼンホーフ)でも決起せざる得なかったのです。本来なら首都で王と王妃と一緒に捕縛できたものを」


 その身勝手な言い草にアリーは唖然として優秀な副官だったはずの相手を凝視していた。


「さあ、もういい加減現実を直視してもいい頃ですよ。あなたが信じていた薔薇の御盾団(ローゼンシルト)なんて、もうとっくの昔になくなっていたのですよ」


 そう聞くと、アリーは全身の力が抜けたような気がした。がっくりと床に膝をつく。


「世話の焼ける・・・」


 ヒルデは舌打ちをして、


「達する。こちらは新指揮官(ノイエス・コマンダ)特別行動班アインザッツ・グルッペA班は執務室に。残りは宮殿の制圧を続けなさい」


 小型無線機(ウォーキートーキー)でそう命じる。やがて武装護衛官(ワッヘン)の制服を着た四人の少女がやって来た。全員が小型拳銃で武装し、腕章を外していた。


 それを見たアリーはヒルデが何のために特別行動班アインザッツ・グルッペの設置を提案したのかを理解した。クーデターの中核部隊にするために自らの子飼いの部下を集めたのだと。


「クロイツァー元指揮官をお連れします。肩を貸して上げなさい」

了解いたしました(ヤボール)


 そう言って手を差し伸べたのは、そばかす顔の三つ編みの少女だった。


「エヴァ・ケッセル上級団員(オーバーメイデン)・・・あなたまで」


 そして気付く。射撃訓練の帰りに伝令兵がエヴァに伝えたヒルデ宛の伝言の意味を。


(“ヒメルスキント”は空の子ども、つまり天の子、天子、世継ぎの姫のことだ。あれはクラーラ姫の捕縛と決起とを伝える暗号だったんだ)


 通信では傍受される可能性がある。だから薔薇宮殿(ローゼンホーフ)のクーデター派への連絡には昔ながらの人による伝令を用いたのだろう。


 アリーの強い視線から目を反らし、そばかすの少女は言った。


「命令です。立ってください」

「どうして。どうして裏切ったの。あなたは素直ないい子だったのに」


 エヴァは青い顔で、けれどこう言った。


「私が陸軍幼年学校から薔薇の御盾団(ローゼンシルト)に入ったのは、家が貧しかったからです。共和国政府は先々の生活を保障してくれると約束してくれました。だからです」


 そして呆然としているアリーに追い討ちをかけるように、


「貴族のあなたにはわからないことです」


 エヴァに腕を掴まれ、アリーはようやく立ち上がった。ヒルデを先頭に執務室を出ようとしたその時、ドアの外から騒がしい音が聞こえて来た。


「いけません、お下がりください」

「なにをいうか。フロイライン・コマンダにお尋ねしなければならんのだ」

「ここはいけません、どうか」

「ええい、退()けというに」


 ヒルデがドアを開けると、そこには武装護衛官(ワッヘン)の制服を着た少女と、ドクトル・ドレスナーの姿があった。


「何事です」


 ヒルデの鋭い声に、ドレスナー医師は、


「おお、ヒルデくん、それにクロイツァー伯か。ちょうどよい。わしは姫さまの御殿医として、常に姫さまのお側におらねばならんのだ。それなのに薔薇宮殿(ローゼンホーフ)を退去せよなどと」

「ドクトル、緊急事態なのです」


 口調の端に苛立ちの色をにじませつつヒルデはいった。


「どうかその者の指示に従ってください」

「そうはいかん。老骨とは言えこのドレスナー、姫さまのために命を惜しみはせぬ。どのような緊急事態であれ、逃げ出すなど考えられぬ。そうでありましょう、指揮官どの」


 そういいながらドレスナー医師はヒルデの肩越しにアリーを見た。が、ふと表情を曇らせる。


「どうされました。なぜそのようなお顔を? それになぜ・・・」


 その視線がエヴァの持つ銃をとらえた。


「なぜ銃など・・・」

「ドクトル、その女はもう指揮官ではありません。現在はわたくしが指揮官代行です」


 ヒルデの言葉に、老医師は首を傾げた。


「はて、いったいなぜそのような。見たところクロイツァー伯はお顔の色がすぐれないご様子ですが・・・ひょっとしてお加減が」

「もう結構ですドクトル」


 ヒルデは苛立たし気に会話を打ち切ると、


「連れて行きなさい。命令です」


 老医師を押さえていた少女に命じる。


「無体な。ヒルデくん、そのような態度はよろしくないですぞ」


 なおも抗議するドレスナー医師に、ヒルデは銃を向けた。


「事態を理解しない老害が。命令が聞けないなら射殺します」


 ドレスナー医師は口を閉じ、自らに突きつけられた銃とヒルデの冷酷な表情を見た。そして悄然としたアリーの顔を見る。


「クーデターなのです、ドクトル」


 アリーはようやくそれだけ言った。このままではヒルデが引き金を引きかねないと思ったのだ。


「どうか退去を」


 その様子を見たドレスナー医師は大きくうなづいた。


「なるほど。そういうことでしたか」

「ご理解いただけてうれしいですわ」


 ヒルデが皮肉な口調で言った。だが医師は、


「それならなおさらですな、指揮官どの」


 ヒルデを無視してアリーに向かって言う。


「この先、姫さまのお体を看るものが必要になるはず。及ばずながらこのドレスナー、最後のご奉公をさせていただきますぞ」

「ドクトル・・・」


 絶句するアリーに、


「なに、ご心配めさるな指揮官どの。この老骨の余命など知れたもの。わが命の残りを姫さまにお捧げするだけのこと」

「そんな勝手は許しません」


 ヒルデは柳眉を逆立てて、


「命令に従わないなら射殺すると言ったはずです」


 老医師はヒルデをひたと見据えて、


「ほほう、無抵抗な年寄りを撃つと? ローゼンラントの乙女も地に墜ちたものですな」

「なんですって」

「暴力にて人を従わせるは下の下ですぞ。いやしくも女性なれば微笑みひとつ、たおやかな仕草ひとつで男を操れますものを」

「この時代錯誤のクソジジイが。言わせておけば」


 ヒルデはつかつかと進み出て、老医師をなぐりつけようと銃を持つ手を振りあげた。その腕に、ドレスナー医師は突然掴みかかった。


「放せっ、この」

「指揮官どの、お逃げください!」


 もみ合いになる二人。その場にいた誰もがとっさに反応出来なかった。


 突然、一発の銃声が轟いた。


 老医師の体は声もなくずるずると崩れ落ち、仰向けに倒れた。白衣の胸が見る見る赤く染まって行く。

 ヒルデは荒い息を立てながら、煙の立ち上っている銃口と、動かなくなった老医師をチラリと見た。


「暴発事故です」


 息を整えると、ヒルデはそう言い放った。


「フロイライン・アンナ、死体をどこか邪魔にならないところに・・・部屋の隅にでも移動させなさい」


 最初に医師に対応していた少女に命じる。少女は青ざめた顔で小さく「ヤボール」とつぶやくように答えると、恐々と医師の両足を持った。


 だが少女ひとりで成人男性の肉体を動かすのは体力的に難しい。アンナは半ベソになりながら、懸命にドレスナー医師の体を引っ張っていた。


「後の者は一緒に来なさい。姫を逮捕します」


 ハンナはそう言うと、引きずられて行くドレスナー医師の体を跨ぎこした。


「なにをしているのです。来なさい」


 部下の少女たちは、青い顔でドレスナー医師の脇を通った。銃を突きつけられたままのアリーも、半ば放心状態でそれに倣った。


(なぜこんなことに)


 アリーはまるで悪夢の中を歩むように足下がおぼつかなかった。


(先生が亡くなった)

(暴発事故? ちがう。あれは殺人だ)

(撃ったのはヒルデ・・・)


 渡り廊下を通って東棟へと進む。だが、アリーの目には廊下も、廊下に面した薔薇の園も目に入ってはいなかった。 


 そのまま引き立てられるように姫の寝室の前まで連れてこられる。


 部屋の前の武装護衛官(ワッヘン)の少女はヒルデを見ると軍隊式の敬礼をした。その腕にもはや腕章は無かった。ヒルデはお座なりに敬礼を返すと、「あなたはここでドアを守っていなさい」と命じた。


「ヤボール、ノイエス・コマンダ」


 そしてヒルダはアリーの肩を拳銃で小突いた。


「さあ」


 ヒルデにうながされて、アリーは寝室のドアをノックした。


「姫さま、アリーです。ドアをお開けしてよろしいですか」


 部屋の中からは、


「ヤー」


 という返事が返って来た。アリーはドアを開き、室内に入った。


Ⅲ.崩壊〈Der Untergang〉3 に続く

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