帰ってきた義央
義央が気がつくと、呉服橋の屋敷近くの野原にぼんやりと立っていた。まだ日が高いので昼であろうが、何年頃に戻ってきたのか。
周りを見ると隣には傲岸そうな大柄な男がいた。
「おい、気がついたか?
ここが江戸か。屋敷に案内せい」
「お前は高師直だな。
屋敷に連れて行くならばわしが雇ったということにせねばならん。
名も変えねば。
うーん。確か貴殿の元は高階姓。
高階師仲でどうだ?」
「ここで名を挙げるわけにもいかんし、なんでも良い。
屋敷で何か食わせてくれ」
師直を連れて、屋敷に戻ると、どうやら義央は茶会の帰りだったようで、先に戻った供が人混みの中、殿とはぐれたと大騒ぎしていた。
「不良浪人どもに絡まれていたところをこの者に助けてもらった。
名を高階師仲という。腕も弁も立つ。
今後、用人として働いてもらう。
皆、よろしく頼む」
「高階だ。
これからここで働くことになる。
お見知り置きいただきたい」
師直が不敵な顔で挨拶し、遠慮もなく早速飯を所望した。
その迫力、図々しさを見て、屋敷の者は逆らわない方がいいと判断した。
飯を食ってから義央は師直と相談した。
「今は元禄十三年の秋、浅野内匠頭に斬られる前の年のようだ。
これから年明けに将軍名代として賀詞挨拶に京都に行き、戻って勅使馳走役の指南をしなければならん。
前回と同じように斬られるのは避けたい。
どうすれば良いか」
悩むようにそう尋ねる義央に師直はガハハと笑い飛ばす。
「吉良、貴様、浅野や赤穂浪人はもちろん、お主と孫を殺したも同然の幕府にも復讐するのだろう。
ならば奴らの弱みにつけこみ、こちらに有利な今日局面を作るのだ。
さて、一度目の人生ではこれからどうなる流れなのだ?」
それから義央は、
今後勅使として来年正月に賀詞を祝うために将軍の名代として朝廷に行くこと、
そこで将軍綱吉の生母である桂昌院に従一位に昇進させる工作を行うこと、
江戸に戻った後はすぐに勅使御馳走役の指南を行い、勅使を迎える当日に浅野に斬られたことを語った。
「なるほど、わかった。
朝廷の公家どもの根性はよう知っている。
どうせ朝廷と幕府は軋轢があるだろう。
両者を操り、うまく立ち回ることだな。
同時にその浅野の襲撃に備えて、貴様は武芸を磨かねばならん。わしが鍛錬をつけてやる。
浅野の斬りつけが初めの山場、散々な恥をかかせて、家来どもを挑発してやれ」
師直はそう言うと楽しげに笑う。
それからの義央の日常はこれまでの茶会や名所のそぞろ歩き、書物披見などと全く異なるものとなった。
時間があれば、新たな用人である高野と庭や部屋で稽古していた。
それも屋敷中に響き渡るほどの激しいもので、終わった後の義央は半死半生であった。
「お殿様、何を突然に熱心に稽古されているのですか?」
これまでいかにも高家の貴人らしく振る舞っていた夫の変貌に、妻の富子は疑問に思った。
「なに、先日、チンピラに絡まれて往生した時に、少しは武士として振る舞えるようにならねばと思ったのだ。
そのうちに義周も加わるが良い。
稽古すれば体も鍛えられるぞ。
高野の稽古はちと厳しいがな」
「はい、おじじ様」
義央は気軽に応えたので、周囲もなるほどと頷く。
しかし富子はそれだけとは思えなかった。
あれだけ鬼気迫る稽古は余程のことがなければできないだろう。
例えば命を奪われるような。
富子が気をつけていると、義央はみるまに腕を上げていく。
とりわけ小太刀や体術など室内の戦闘用の鍛錬が多い。
(今日は背後から斬りつけられた時を想定して、相手を制圧する稽古ですか。
この太平の世の中に室内で襲われることもなさそうだけど)
そう思いながら、富子は今日も夫の稽古を見物していた。
背後からの高野の短刀の斬りつけに、義央は素早くその腕を取り、そのまま前に投げ飛ばし、短刀を持つ手を手刀で打って刀を取り上げ無力化した。
「だいぶ腕を上げたのう。
これならばなまくら大名の斬りつけなどは問題になるまい」
高野が偉そうに言うと、義央はぜいぜい言いながら、「そうかのう。お主のおかげだな」
と返事をした。
(この二人の関係も不思議だ。
主人と用人のはずだが、その言葉使いはほとんど友人のようですね)
富子の視線に気づいたのか、義央はこちらを向いて照れたように笑う。
「富子、年寄りの冷や水と笑うてくれるな。
名門吉良の当主が万が一の時に無様な格好をすれば先祖に申し上げが立たん」
「笑うてなどおりませぬ。
精が出ることと思っていました。
お水でもお持ちしましょう」
夫のやる事に疑問を持っていたのがわかったのかと富子は慌てて立ち上がる。
「ふーん、貴様の妻は何処の出じゃ?」
師直が関心なさげに尋ねる。
「驚くな。
名門上杉家の娘じゃ」
何の気なしに言った義央の一言に対して、師直の反応は激烈なものであった。
「今、上杉と言うたか‼︎
上杉は我が仇敵。
そのような者を妻とする男に手を貸すわけにはいかん!
それどころか、浪士どもに先んじて、わしがこの家を潰してやるわ!
まずはその皺首を跳ね飛ばし、あの妻女を刺し殺し、上杉の縁者を皆殺しにしてやる!」
(そう言えば高家を皆殺しにしたのは上杉であった)
義央は思い出し、己の迂闊さを後悔したが、もはや遅い。
いや、あの家は元は上杉ではなかったはず。
激昂し、今にも斬りかからんとする師直に、義央は、待て!と大声を出す。
「上杉ではない。
かの家は長尾じゃ。
上杉は滅亡し、名跡を長尾に譲ったのじゃ」
「上杉ではない?
本当か」
師直は疑わしげに尋ねる。
義央は、関東の戦国史を語った。
「くっくっく
足利が上杉に追われ、上杉は伊勢に敗れ、遂には長尾に泣きついたものの敗亡したか。
それはよい気味だ。
しかし、元は長尾とはいえ、上杉の名を持つ者と同じ屋敷には住めぬ。
あれを追い出さねば我が出ていく」
「わかった。
なるべく早くあれは上杉の屋敷に返すので、我慢してくれ」
(前回は浅野に斬られた後に、あなたは切腹しないのかと聞かれ、それがきっかけで別居したのだったな。
今回は少し早いが復讐のためにはやむを得ない)
義央は折を見て、富子を上杉家に帰すこととした。
それは師直の要求のためばかりではない。
今後の自分の行動はこれまでのものとは一変するかもしれず、その時に長年一緒だった妻がいると不審に思われる可能性が高い。
そしてそれが実家の上杉家に伝わると、お家大事の彼らがどう動くか、場合によれば乱心として押し込められるかもしれない。
妻を愛していないわけではないが、大義親を滅すという。やむを得ないことだと義央は腹を括った。
年末も近づいた頃、義央は老中に呼ばれ、登城した。
御用部屋で待っていると、老中首座である阿部正武が現れ、正月の賀詞に朝廷にいくように指示がある。
賀使はもう何度となく行ったことだ、これだけであれば義央は慣れたものである。
そこを退出すると、すぐに茶坊主が老中格の御側御用人、柳沢吉保が呼んでいると告げに来た。
(やはり来たか。
ここからが本番だ)
現政権で最大の実力者、柳沢吉保。
コイツと綱吉こそが義央を見殺しにし、家を取り潰し、孫の義周を死に追いやった張本人であると義央は確信していた。
「上総介殿、今回の賀使の件、ご苦労。
そして、それとともに桂昌院様の従一位への昇進の根回しをやってもらわねばならん。
知っての通り、上様の桂昌院様への孝心は大層厚い。是非とも母君への叙位を実現したいと考えられている。
そのため、これまで禁裏御料を3万石に増やすなど随分と配慮をしてきた。
決めるにはもう一押しが必要だ。
これを朝廷に詳しい、経験豊富な上総介殿にお願いしたい」
吉保は柔和な顔で話す。
物腰こそ柔らかだが、将軍の名前も出されれば断れる話ではない。
実際、前回は否応なく、むしろ貴殿しかいないと頼られた事に喜んで承諾した。
そして、前例のないことだと渋る公家たちを相手に、これまで培った人脈を使って、金をばら撒き、脅しつけ、なんとか承諾を得てきたのだ。
もちろん今回はそんな殊勝なつもりはこれっぽっちもない。
微笑する吉保を心の中で睨みつけ、表面上は恭しく返答する。
これは師直ともよく相談したものだ。
「もちろんこの身に代えて桂昌院様の昇進のために働かせていただきます」
はっきりとそう言うと、吉保の顔に安堵の色が浮かぶ。
そこで言葉を続ける。
「しかし、桂昌院様の従一位の叙位には強い反対があるのも事実。従三位でも相当な反対があったのを金と力で押さえつけました。
今度は上様すら超える最高の官位。
恐れながら、八百屋の娘に摂関家を超える官位を与えるなどあり得ない、これを認めれば次は皇位すら狙うのではないかという声すら聞きます。
できないとは申しませんが、容易ではないことを承知ください」
これまで唯々諾々と言うことを聞いてきた義央の強い反論に柳沢は驚いた。
特に桂昌院を八百屋の娘だなどこの江戸城で言う者はいない。
無礼者と言いかけて、柳沢はそれどころでないと言葉を止めた。
「そこを上手くやるのが貴殿の仕事だろう。
高家筆頭は何の為だ!
金はいくらかかってもかまわん。
上手くいけば貴殿の加増を考えてもいい」
硬軟織り交ぜて義央を説得する柳沢に、義央は淡々と言った。
「この義央の腕で、公家は脅し透かしでなんとか致しましょう。
しかし、叡慮となれば如何ともしがたく・・
恐れながら霊元上皇様は幕府に対して敵対的であり、今上陛下はまだお若い。
御生母の松木宗子女院も必ずしも好意的な受け止めではなく、頼りは近衛様ばかり。
上手く承諾いただけるのか全く自信はありませぬ」
義央が朝廷の厳しい状況を立て板に水のように並べ立てると、柳沢の表情は曇った。
生母の昇進を実現させることが綱吉の今の最大の目標である。
寵臣としてはなんとしてもそれを実現させなければならない。
そしてその為には幕府のうち、最も朝廷に通じているこの男を使わねばならない。
「上総介!
これは上様たっての望み。
なんとしても実現しろ!
できねば吉良家は取り潰しだ!」
普段温厚な柳沢が荒々しく怒鳴りつけ、席を立つ。
驚いた茶坊主が思わずその部屋を覗くが、吉良上野介は顔色一つ変えずに端然と座って茶を啜っていた。
首を刎ねられた経験に比べれば、柳沢の怒声など物の数ではないと腹で笑っている。
しかし茶坊主にその腹はわからない。
今の世の中、柳沢に叱責されて青ざめなかった者など見たことがない。
それもこれまでは高慢で吝嗇、小心と思われていた吉良上野介である。
(吉良様、人が変わったようだ)
その話は早速江戸城で広まった。