京都への甘い罠
赤穂藩士が初めて事件を知り、大騒ぎしている頃、義央は朝廷との交渉の大詰めを迎えていた。
江戸幕府の創設以来、押さえつけられていた怨念からか、桂昌院の昇進という綱吉が執着している案件に対しては、公家はもちろん上皇や帝も言いたい放題であり、義央は関白の近衛や武家奏上と頭を痛めていた。
「今はおとなしくしている下級公家にも、麿達、上位公家が幕府に頭を下げさせているところを見せねば、また騒ぎ出すやろう。
従一位を授けるほどの忠義を尽くすということから、将軍と桂昌院には京に来て帝や上皇に拝謁してもらわんとあかんな。
上京してきたら当然、禁裏料の加増や皇族・公家に金をばら撒くはず。
それに加えて、大嘗祭を始めとする各種儀式の費用の負担や内裏、社寺の再建などを行わせることにする。
これをすべて行えば、膨大な金が必要じゃ。そしてこれで京の景気は良くなろう。
豊臣の金を浪費させるために寺社仏閣への浪費を勧めた家康が行ったようなことやなあ」
近衛は薄く笑って言う。
綱吉はどうしても母親の従一位が欲しいらしい、そして江戸城で勅使を迎えて人死を出すなどの醜態を晒し、弱みがある。
ここでとことん搾り取るつもりである。
「これを行えば桂昌院の叙位は間違いないと言うことでよろしいですね。
ここで掌を返されれば私のメンツも丸潰れ、腹を切らねばなりませんが、その時は激怒した幕府に皆さんも処罰されるでしょう」
義央は念を押す。
世の中に公家の約束ほど当てにならないものはない。
「ああ、帝も上皇も認めておられる。
これで江戸に持って帰り。
もちろん、これは吹っかけや。
どこで決着させるかはアンタに任せる。
麿のメンツも立てて、あんじょうやってや」
近衛は最後は義央に一任した。
無論、任せると言わせるために多額の金を使っている。
近衛に礼を述べつつ、義央は思う。
(桂昌院の叙位ごときのために、征夷大将軍が帝に頭を下げにくる。
これは天下にどちらが上かを示すことになる。
幕府の権威が落ちれば、これまでの家康や家光の苦労は水の泡。
御三家や譜代は面白くあるまいし、反綱吉派の勢力も増えよう。
だんだんと世の乱れの種が増えてきた)
義央は赤穂から戻った師直の話を聞く。
「主君の暴挙、斬首、藩の取り潰しを突然に知らされて、貴様の仇敵の大石らは激しく狼狽しておった。
時間がなければ考えている暇もない。
民衆を扇動して藩札の回収を要求させれば、奴らは有り金をはたいて返すしかない。
金がなくなれば藩士は騒ぐ。まして奉公構えにされて余裕がない。
そこに金と仕官をぶら下げてやれば、あっという間に意のままになる集団よ」
師直は手酌で酒を飲みながら言う。
「その赤穂浪士の集団を操るために、大野とか言う次席家老に弟の師泰を憑依させたのだな。
赤穂藩士は600人ほど、行き先がないことを考えれば、脱落者を考えても400から500人ほどは使えるか。
問題は大石だな。
奴は慎重かつ用意周到な男。
軽々に倒幕などは行うまい」
義央がそう言うと、師直はニヤリとする。
「赤穂浪人どもは、主君をいじめ、邪魔をした吉良を討つ部隊と幕府に物申しに行く部隊に分けて行動するように誘導する。
大石をはじめとする47人の貴様の仇は吉良屋敷に討ち入りに行かせるから、全員返り討ちにすればよかろう。
そのために真田をつけてやる。
奴は防衛戦のプロだ。
他の奴らには師泰に率いさせて江戸城を襲わせる。
そちらには我も加勢に行き、太平に慣れ切ったこの時代の武士どもの度肝を抜いてやる」
そう楽しそうに言う師直に、義央は呆れる。
「赤穂浪人を合わせても千人。
いくら奇襲でもそれぐらいで江戸城を落とすのは無理だぞ」
「落とさなくても幕府の権威を落とせば良い。
謀略を駆使して、将軍を大慌てさせるぐらいはしてやるわ。
主君尊氏様にすら御所巻きにして、死ぬ覚悟をさせた我の手腕を見ているが良い」
せいぜい平和な時代の政争しか知らない義央には見当もつかないが、師直は自信があるようだった。
それは彼に任せるしかない。
「では、わしは江戸に戻って、綱吉と柳沢にこの案を呑ませてくる」
「そうじゃ、将軍は上洛してくるのだな。
まずはその時に冷や汗をかかせてやるか」
江戸に戻る義央に対して、師直は京に留まり、赤穂の様子と朝廷を見守るという。
二人はここで別れて、それぞれの活動を始める。
何度も柳沢からは朝廷の動きを尋ねる使者が来ていたが、義央は
「秘密に関わること故、わしが直接に話す」と言って追い返していた。
桂昌院は高齢、早く叙位させてやりたいという綱吉の焦りがわかる。
焦らせるほど幕府に条件を飲ませやすくなる。
義央はあえて、高齢で疲れたと称してのんびりと中山道を下る。
途中には信州で真田昌幸と会って、訓練ぶりを聞く。
「戦国の世に比べてなんと緩いことか。
人を斬ったこともなく、戦に出たこともない者が武士と名乗るとは。
わしが死ぬ直前まで鍛え上げているので、ぼちぼち使えるぐらいにはなってきましたな」
そこで義央は、師直からの伝言、すなわち秋の将軍上洛の襲撃計画を告げる。
「なるほど、主君の斬首を恨んだ赤穂浪人の仕業に見せかけて、綱吉を襲うと。
この時代の武士など案山子同然、首も取れそうですな。家康の代わりに曾孫の首でも貰いましょうか」
昌幸は楽しそうに笑う。
そして浪人どもを率いて信州から吉野に移ることを承諾した。
(赤穂浪人へ与える金、私兵団の支度、大奥への工作や噂の流布、また淀屋に金を頼まねばならんな)
尊氏の下で天下を差配していた師直の計画は大規模であり、大大名でも青ざめるほどの金がかかる。
淀屋がいなければこの十分の一も実現できなかったであろう。
温泉に入り、英気を養い江戸に戻った義央は若返ったかのように精力に溢れていた。
江戸屋敷の家臣も義央の元気な姿に驚いていた。
(前世では、細かい幕府の規則を指南することや朝廷との交渉に疲れ切っていたが、もうそんなものを気にもしていないせいか。
それに復讐という生き甲斐があるためか、身体に張りがあるわ。顔の血色も良い。
さあて、来年の12月14日が楽しみじゃ。
赤穂の奴らは皆殺しだが、とりわけ首領の大石やわしを殺した武林はいたぶって殺してやる!)
江戸屋敷に戻った義央はすぐに柳沢に呼ばれる。
城内に入ると、驚いたことに将軍綱吉が直々に会うと言う。
「朝廷の首尾は如何じゃ。
我が母上の従一位は大丈夫か」
綱吉は不安げに尋ねる。
武家伝奏は期待を持たせる言い方であったが、考えてみれば平民出の女が子供が将軍になったから従一位とは前例にないことであり、将軍の力でも難しいことである。
義央は自信満々に頷き、朝廷の要求を書いた書付を小姓に渡した。
「武家伝奏のお二人や関白近衛様と相談したところ、これを行えば、桂昌院様による朝廷への功績は巨大なものとなり、誰も反対できまいと言われていました」
「上野介、でかしたぞ!」
その言葉で綱吉は喜んだが、義央から渡されたそのリストを見て柳沢は青ざめた。
「何だこれは!
禁裏御料の加増、御所の改装、朝儀の再興はまだいい。
寺社仏閣の修繕など京にどれだけあるのか知っているのか。
そして一番の問題は上様と桂昌院様に京に出向き、朝廷に挨拶をしてもらうということだ。
家光様の将軍宣下以来、上洛をした例はない!
これまで押さえつけていた朝廷に頭を下げるようなことができるか!」
柳沢の悲鳴のような声を義央は淡々とか受け止めた。
「家光様までは上洛されておりました。
上様が京に行かれても一向におかしくはありません。
それに桂昌院様は京のお生まれ。
久しぶりにお帰りになれば懐かしいのではありませんか」
「そうじゃ。
母上も京に行きたがっておってな。
予にも一度は京の都を見て欲しいと頼まれておる。
妻の信子も京に里帰りしたいと言っていたので、良い機会じゃ」
これまでの大奥への工作の甲斐があり、綱吉は乗り気であった。
「上様、将軍の威信にも関わり、費用も膨大となります。
お考え直しを」
いつもは唯々諾々と綱吉の機嫌を取る柳沢もここでは反対した。
「父上同様に予が大軍を率いて京に行けば将軍の武威を見せつけられるというもの。
費用は勘定奉行の荻原に改鋳させればいいだろう」
綱吉は柳沢の反対を一蹴した。
「上様の仰られる通りでございます。
そのご英断をいただけば、桂昌院様の叙位は何の問題もありません。
秋の京の景色は美しゅうござります。
その頃に行かれれば如何でしょう」
すかさず義央は追従する。
「なるほど、母上も信子もそう申していた。
さすがは上野介。よく京を知っておる。
よかろう、吉保、それで準備せよ」
そう言って綱吉は席を立った。
(思い通りよ。
はて、師直はどうやって綱吉の上洛を襲うのか、楽しみじゃな)
自然と笑みの溢れる義央を、柳沢は睨みつけていた。




