雨ふって
「またレジロール切れてるじゃん!」
スーパーでアルバイトをしている俺は、よく発注ミスをする社員に頭を抱えている。
「レジロールは無いのに電球は50個届くし!そんなに電球いらないよ!」
ミスをするのはいつも同じ社員。社員のくせにとにかくだらしがない。髪の毛はボサボサだし、エプロンはヨレヨレだし、ヒゲは剃り残しが目立つし。その上よく遅刻する。
「クソ、この忙しい時に……」
時刻は午後5時半。主婦、子ども、退勤後のサラリーマン、とにかく人でごった返す。タダでさえレジ前に並ぶ長蛇の列を捌くことで手一杯なのに、今に限ってレジロールが切れて、しかも予備がない。お客さんに平謝りして、慌てて探しに行く。舌打ちされたのが聞こえた。俺だってこんなつもりじゃないのに…。
事務所で発注を確認して、膝から崩れ落ちた。またアイツかよ…。いつもいつも余計なことばかりして、仕事増やしやがって。いつものように電話をかける。あまりにも電話をかけすぎて、もう番号を覚えてしまっている。
「もしもし、平子さん!?また発注間違えてますよ!この時間にレジロール在庫切れで俺が客に怒られたんですけど。しかも電球50個も発注してどうするんすか!?店中の電球取り替えたってまだ余りますよ!ほんと毎度毎度、ちゃんと確認してから発注してくださいって言ってますよね!?だいたい平子さんは…」
電話に出るや否やマシンガンのように捲し立てる俺を遮り、わかった今行くから、と電話を切られた。切る直前、電話口の向こうで舌打ちしながらボソッと、休みの日までかけてくんなよ…とイヤそうに呟いたのが聞こえた。俺だってアンタに掛けたくて掛けてるわけじゃない。そもそもアンタが原因なのに…。
イライラが止まらない。平子さんとは毎回こんな感じで、俺がアルバイトを始めてから一年間、ずっと犬猿の中だ。モヤモヤした気持ちを払拭するように、大きく二、三度深呼吸をし、両手で頬をピチッと叩いて、持ち場に戻った。
午後十時、退勤の時間だ。今日もドッと疲れた。勤怠カードを切って、重い足取りで職場を後にする。平子さんはあの後三十分くらいで店にきた。
すれ違った際に「悪かったな。」と一言声を掛けられた。「別に。いつものことなので。」いつものように冷たく返事をする。大人げないとわかってはいるが、イヤミを言わずにはいられない。言った後でまた落ち込む。こんなにネチネチした自分がイヤなのだ。それもこれも全部、平子さんのせいだ。
どうやらさっきまで雨が降っていたらしく、道がかなりぬかるんでいた。足を持っていかれないよう、慎重に歩く。少し足取りに慣れてくると、さっきまでの疲れを思い出すかのように、急に疲労感が襲ってきた。身体が怠い。今日は帰って早く寝よう。そんなことをボーッと考えて、油断していた。次の瞬間、足が持っていかれる。気づけば俺は、泥の中に尻餅をついていた。
一瞬の空白の後、徐々に状況が理解できた。そして絶望した。自分の服が泥だらけになっているのを見たからだ。今日はこんなに疲労困憊なのに…家に帰ったらすぐ洗わないとな。なんだかもうイヤになって、そのまま膝を抱えてうずくまった。
ちょっと、しばらく動けそうにないな。でも、誰にも頼ることはできない。しばらくこのままでいて、少し回復したらまた歩き出そう。そんなふうに考えていると、後ろから突然誰かに話しかけられた。
「…あの、大丈夫?」
驚いたが、聞き覚えのある声だった。振り返って顔を上げると、そこにはなんと、平子さんがいた。どうして……そう思って一瞬硬直したが、次第に嫌悪感と羞恥心がフツフツと湧いてきた。よりによってあの平子さんに見られるなんて、最悪だ……正直、今一番見られたくない人に見られてしまった。知らない人に声かけられた方がまだマシだった。
「大丈夫です、転んだだけなんで。……ていうか、なんで平子さんこんなところに居るんですか。」
慌てて立ちながら泥を払う。もちろんほとんど取れるわけもない。全身泥まみれ、パンツの中まで染み込んでいる感覚がある。思わず顔を顰める。
「いやお前、事務所に携帯忘れてっただろ。さすがに携帯は次のシフトの時で良いとはならないだろうと思ってな…。」
嘘である。あの面倒くさがりの平子さんが、わざわざ携帯を届けてくれるはずがない。それも追いかけてきてまで。大方、今日の発注ミスを後ろめたく思って、渋々届けにきたのだろう。
「……ありがとうございます。すいませんわざわざ。……じゃ。」
そそくさと立ち去ろうとしたが、呼び止められた。
「お前、その格好で帰るのか?さすがに風邪ひくだろ。……俺ん家、こっからすぐだから寄ってけ。」
ギョッとした。いやいや、ただでさえ早くこの場から立ち去りたいのに、平子さん家!?絶対にイヤだ!!
「……いや、結構です。別に帰れますんで」
足早に立ち去ろうとした瞬間、視界が宙に浮いた。気づいた時には、空を見上げていた。今度は服だけでなく、頭や顔まで泥をかぶったことがわかる。平子さんが近づいてきて、顔を覗き込んできた。
「お前、結構おっちょこちょいだな。……こっから家まで結構あるんだろ?さすがにその頭じゃバスは乗れねえな。」
「………」
俺が頑なに返事をしないのに痺れを切らしてるのか、頭をボリボリ掻き出した。
「……ああもう、良いからさっさと来い。風邪でも引かれて明日のシフトに欠員出たら俺が困んだろ。社員命令だ。」
今のは本音だろうな。結局は自分が困りたくないから、だから俺を助けるのか。まあ、そうだよな。人は何かの見返りなしには人のことを助けようとはしない。
なんだかもう何もかもがどうでも良くなって、差し出された手を静かに握った。
「ちょっとそこで待ってろ。今拭くもん持ってくる。」
アルバイト先のスーパーから徒歩三分。本当にすぐ近くに平子さん家はあった。築二十年くらいのアパート。階段を登って二階の一番奥の部屋だった。玄関が開いて、恐る恐る中へ入る。まさか平子さん家に入る日が来るなんて。人生何があるかわからない。なんか不思議な感じがする。
待ってる間、ついソワソワして辺りをキョロキョロする。ポストのチラシは山積みだし、靴箱があるのに何足も靴が脱ぎ散らかされている。それに玄関前の通路にはゴミ袋の山が溜まっている。いかにも平子さんらしいな…。壁にはカレンダーが斜めに掛けられている。え、これよく見ると一年前じゃん。カレンダーの意味…。玄関の隅にはビニール傘三本と虫取り網。
「虫取り網…」
「あったあった!ほれ、とりあえずこれで頭拭け。」
ガサガサとモノの海から這い出てきた平子さんは、乱雑にタオルを投げてきた。受け取ると、ペコリと会釈する。このタオル、ちゃんと洗ってあるのかな…。まあでも、どうせ俺の泥で汚れちゃうから捨てるだろうし。一抹の不安をかき消しつつ、頭を拭く。
「とりあえずシャワー浴びて来い。その間に服洗っといてやるから。」
シャワー室は玄関のすぐ隣にだった。言われるがまま服を脱いで、シャワーを浴びる。さっきまで乾いた泥が肌に張り付いていたから、キレイに取れていくのが何だか気持ちいい。ふと目線を上げると、シャンプーが三種類も置いてある。男性用と、こっちは女性用、そして……弱酸性?肌弱いのかな。でも敏感肌だったらこっちの刺激が強い男性用のシャンプーは使わないよな。そして女性用……平子さんも結構遊んでるのかな。彼女いるようには見えないし……。
「あっ……」
そんなことを考えてたら、間違って女性用のシャンプーを押してしまった。……ま、いっか。流すの勿体無いし。仕方ないのでそのまま女性用のシャンプーを使う。甘ったるい匂いがツンと鼻をついた。
シャワーを終えて脱衣所へ行くと、いつの間にか着替えが置いてあった。クタクタのTシャツとジャージズボン。あとはうちのスーパーに売っていた新品のパンツがあった。そう言えばこの前在庫処分してたな…。なんて思いながらふと顔を上げると、洗濯機の横にシャンプーハットが掛けてあるのが目に入った。平子さんって未だにシャンプーハット使うのか?あの人結構いい歳だよな……。平子さんがシャンプーハットを使っている姿を想像したら、ちょっと笑えた。
「すみません、風呂ありがとうございました」
頭を拭きながら出ていくと、平子さんは、おぉ、と言いながら何かを作っていた。インスタントラーメンかな。なんて思いながら少し近づくと、平子さんが一瞬ピクっとなった。
「……お前、女モンの方のシャンプー使った?」
「あ、ええ。……まずかったですか。」
「……いや……」
あからさまに少し空気が変わったのがわかった。シャンプー、彼女のとかだったかな……少しでも減ってたらめっちゃ怒られるやつ?
「……こっち座れ、髪乾かしてやる」
「え!?いやいいですよ、髪くらい自分で乾かしま……」
「いいから。」
俺の言葉を遮るように言うと、腕をグイっと引っ張ってソファに座らせた。本当に髪くらいいいのに……俺のこと何歳だと思ってんだよ。でもなんか、いつもと違う様子の平子さんに、何となく逆らえないでいた。
髪をシャカシャカタオルで拭かれ、ドライヤーを当てられる。雑でぶっきらぼうなのを想像してたが、意外にも優しく撫でるように乾かしてくれる。一束一束、丁寧に。いつもの平子さんとは想像もつかないくらいの慈悲深さを感じる。何だか、妙にくすぐったい。しばらくして、ドライヤーが止まる。
「わざわざドライヤーまで、ありがとうございます。」
気恥ずかしくて、少し俯く。しかし、しばらく返事がない。
「平子さん…?」
振り返ると、どこか寂しげな瞳と目が合う。
「…いやすまん、ボーッとしてた。飯作ったんだ。食おうぜ。」
そういってテーブルに促される。平子さんはキッチンへと戻る。手伝おうかと思ったが、静止させられたので大人しく待っている。出てきたのはインスタントラーメンではなく、ミートソースのスパゲティだった。良い匂いだ。今日は色々あってほとんど何も食べてなかったので、食欲をそそられる香りに思わず唾を飲む。
「たまに作りすぎるんだ。お前が来てくれてちょうど良かったよ」
そう言って微笑む。こんなに優しい笑顔は初めて見た。平子さんもこんな顔できるんだな、なんて思いながら手を合わせる。
「わざわざ夕飯まで、本当にありがとうございます。いただきます」
フォークでクルクルと束を取る。出来立てじるしの湯気が踊り出す。口が期待しているのがわかる。一口含む。優しい香りが口一杯に広がる。思ったより優しい味付けだ。具はゴロゴロとしてて歯応えがあり、ニンニクの旨味に食欲をそそられる。なんというか、家庭的な味である。なんだか懐かし気持ちになる。美味しいなあ……。
「このミートソース、すごい好きな味付けです。平子さんが作ったんですか?」
「そうだよ。美味いだろ」
「めちゃくちゃ美味いっす。平子さんって結構料理するんですね」
「まあ、たまにな。作ってくれる人もいないし」
「あれ、彼女さんはいないんですか?」
「……いや、嫁がいるけど、別居中」
……ヤバい。めちゃくちゃ地雷だった。てか結婚してたの!?あの平子さんが?意外すぎる。人は見かけに寄らないな……って呑気に考えてる場合じゃない。
「……あっ、すいません。俺変なこと聞いて……」
「いや、いいよ。このミートソースは嫁がお気に入りだったから、よく作ってやったんだ。子どもでも食えるよう、味付けも薄めにしてる」
「お子さんもいるんですか?」
「ああ、息子が一人な。今は五歳。よく虫取りして遊んでやった」
だから玄関に虫取り網あったんだ。そういえばシャンプーも、弱酸性って子ども用ってことか……。
「さっきお前が嫁のシャンプー使ってたから、つい懐かしい気持ちになっちまった。髪くらい自分で乾かせたよな。余計なことした」
「いや、俺は全然大丈夫なんで、気にしないでください」
そうか、と言うと、少し嬉しそうにして、残りのスパゲティを食べ始めた。
「お前、今日泊まってけ。服も明日になら乾いてる。明日も出勤だろ?」
「え?イヤでもさすがにそこまでは……」
「今さら何遠慮してんだよ。俺ん家から出勤した方が早いだろ?」
「うーん、でも……」
「そんで明日俺のこと起こしてくれ。俺今月これ以上遅刻したらヤバいんだよ」
これが本音か。全くこの人は……。
「……じゃあ、お言葉に甘えて。お世話になりましたし、明日平子さんのこと叩き起こしてあげます」
「おう、頼むよ」
そう言うと、平子さんは嬉しそうに笑った。
平子さんはしばらく使っていなさそうな布団を出してくれた。ちゃんと天日干しはしてるぞ、って、俺の心を見透かすように言った。モゾモゾと布団に潜る。確かに、お日様の匂いがするな。そんなつもりじゃなかったけど、いつの間にか疑ってたみたいだ。平子さんの日頃の行いが悪いんだからしょうがない。誰かと一緒に寝るなんて久しぶりだな。しかもあの平子さんとだなんて、昨日までの俺だったら考えられなかった。
「どうして、俺なんかにあんな大事なこと話してくれたんですか?」
そう聞くと、平子さんはしばらく考えてから、
「……お前が今日、泥まみれじゃなかったら、話すことはなかったな。」
と言って優しく微笑んだ。平子さんの笑顔を見ると、なんだか妙に安心するな。俺はフフッと笑うと、いつの間にか眠りに落ちた。
どこにでもありふれている、幸せそうな一家団欒の食事風景。寡黙だが優しそうな父、明るくて可愛らしい母、そして、幸せいっぱいに笑顔を浮かべる僕。今日は僕の大好きなミートソースのスパゲティだ。小さい頃は何気なく食べていたが、母の作るミートソースは、具材がゴロゴロしてて、ニンニクが良いアクセントになっていたと気づく。あれ、これは夢か。今日食べた平子さんのミートソースが、母の味にそっくりだったんだ。どこか懐かしいと思っていたけど、やっと思い出した。好きだったなあ、あの味。
フッと目覚める。枕が少し濡れている。カーテンから柔らかい陽射しが溢れて、部屋を包んでいる。ふと横を見ると、平子さんが隣の布団で寝ている。やっぱり、不思議な感じだ。時計を見ると、今は十時過ぎ。出勤が十二時だから、起こすにはまだ早いかな。静かに布団から出る。洗面所へ行くと、俺の服が干されてあった。シワシワだけど、泥はキレイに取れていた。洗濯は奥さんの仕事だったのかな。いつも着ている服もシワシワだし、洗濯苦手なんだろうな。でも、俺が寝た後、泥取りまで頑張ってくれたのか……。なんだか妙にくすぐったい。
よく見るとこの家、家族がいた痕跡だらけだ。家具や家電は一人暮らしには大きいサイズのものばかりだし、シャンプーどころか歯ブラシや食器や小物は大体三つある。シャンプーハットだけじゃなくアヒルや船のオモチャも散乱しているし、女性ものの化粧品やエプロンなんかもあった。俺が寝かせてもらった布団も、もしかしたら奥さんのモノだったのかな……。斜めに掛けられてホコリを被ったままのカレンダーを見つめる。平子さんの時間は、一体いつから止まってるんだろう……。
身支度を終えて朝飯を作っていると、平子さんがノソノソやってきた。
「……おはよう」
「おはようございます。起きちゃいました?まだ時間あるので寝てて良いですよ。」
「……いや、いい。」
まだ寝ぼけているのか、目をゴシゴシと擦りながら、ふぁ〜とあくびをしている。
「もう少しでできるので、顔でも洗ってきてください。」
「ん、さっき行った……。お前、家事得意なんだな。」
「え?まあ一通りは出来ますよ。一人暮らし長いんで。」
「そうか……」
「もう出来るので、座っててください」
そう促して、料理を運んで行く。昨日お世話になったからと思って勝手に作っちゃったけど、人に自分の手料理を食べてもらうなんて、いつぶりだろう。ちょっと緊張するな……。
「……いただきます」そう言うとモソモソとご飯を食べ出した。白米と、山菜の味噌汁、卵焼きに焼き鮭、ほうれん草のお浸し。あまり料理をしないと言っていた割に、冷蔵庫には食材が結構揃っていた。味はどうだろう……。不安そうに平子さんを見つめていると、心を見透かしたようにフッと笑って、
「……うん、美味しいよ。お前は料理上手だな」
そう言って頭を撫でてきた。また子ども扱いしてるな……。少し顰めっ面をする。ちょっと不満に思ったけど、なんだか無性にお腹が空いてきたので、卵焼きを突ついて食べ始めた。
一年前のあの日、妻が子どもを連れて出て行った。俺がスーパーに出勤している間に、妻子の荷物はほとんど無くなって、代わりにテーブルの上に半分だけ埋められた離婚届が置いてあった。
確かに、その時期はスーパーが繁忙期で、家庭のことはほとんど妻に任せっきりだった。俺は仕事熱心な方では無いが、疲れとストレスで八つ当たりのようになってしまい、毎日のように妻と喧嘩していたと思う。妻の好物のミートソーススパゲティを最後に作ってやったのは、もういつのことだったか。
その後何度か妻と連絡を試みたが、結局妻の結論は変わらなかった。もうとっくに愛想を尽かされていたのだ。仕事を言い訳にして家庭を顧みてこなかった結果として、その変化にすら気づけなかった。気づいた時にはすでに、もう手遅れだったのだ。
もう俺たちの関係が修復されることはない。とっくに終わっているのだ。頭ではわかっているのだが、未だに心が受け入れられない。いつまで経っても離婚届に手をつけられないでいる。妻と別居して一年。そろそろ区切りをつけなければ。そう思って離婚届と睨めっこするが、膠着状態のまま、気づけば時だけが経っている。
いつものように進展しない休日を過ごしていると、スーパーから電話がかかってきた。また俺は何かやらかしたのか。妻と子どもが出て行った日から、俺はいつも心ここに在らずだ。いつもボンヤリ妻とのことを考えて、気づけば時間だけが過ぎている。遅刻やミスが格段に増えた。これ以上勤務態度が悪くなくと、最悪解雇も考えていると店長から脅されている。
「もしも……」
「もしもし、平子さん!?」
うっ、声デカ……またコイツか。この犬みたいにキャンキャンうるさいヤツは、ちょうど一年前にうちのスーパーに入ってきたアルバイト。苦学生らしく、ほぼ毎日フルタイムで出勤している。頑張り屋なのは結構なことだが、真面目すぎて生きにくそうだなと、たまに思う。もっと手を抜いたり、誰かに頼ったりすれば良いのに……。なんでも一人でやろうとして一杯一杯になっているところをよく見かける。発注ミスなんて俺のせいなんだから、お前が頑張ってカバーしようとしなくてもいいのに……まあ、原因が俺だから、俺が言えたことじゃないんだけど。
いくら妻子と別居中で頭一杯だからって、俺のミスでいつも泣きそうになってるコイツを見て、さすがに申し訳ないとは思う。謝ってはみるものの、素っ気ない態度で返される。コイツが入社してから俺はずっとこんな感じで、再三注意されてんのに俺がミスばっかりするからよく怒られる。今日みたいに一杯一杯な日は素っ気なく返される。俺、コイツにもいつか愛想を尽かされるんだろうな……。なんて自虐的に考えていると、事務所に誰かの携帯が置いてあるのが目に入った。
この携帯……。アイツ明日も出勤だけど、どうしようかな……まあこのままココに置いといても……。そう考えた瞬間、脳裏にアイツの泣きそうな顔が思い浮かぶ。頭をボリボリと掻き、携帯を持って事務所を出た。
外の道はかなりぬかるんでいた。そう言えば家出る時雨降りそうだったもんな。アイツの帰り道は確かコッチだっけ……。街灯はほとんどなく、暗くて道がよく見えない。めちゃくちゃ滑るな、気をつけて歩かないと……。
しばらく歩いていると、前の方でベチャッと何かが落ちたような音が聞こえた。何だろうと思ってしばらく黙っていると、同じところからハァ……とため息が聞こえてきた。恐る恐る近づくと、誰かうずくまっている。このシルエットは……間違いない。
「あの、大丈夫?」
驚いて上げた顔と目が合う。まつ毛に水滴が滴り落ちて、街灯に反射してキラキラと輝いている。いつも泣きそうな顔はしてるけど、泣いてるところは初めて見た。コイツ、普段はあんなにうるさいのに、泣くときはこんなに静かなんだな。泥の中で一人静かに泣く姿を目の当たりにして、胸が苦しくなった。
妻も俺がいない家で子どもを寝かしつけた後、一人静かに泣いていたんだろうか。そう思った途端、急にコイツが愛おしくなった。嫌われているのはわかっているが放って置けなくなって、半ば強引に俺の家に連れて行った。
家に俺以外のヤツが入るのは一年ぶりだった。一年前から何一つ変わっていないこの空間に少し戸惑っているようだ。風呂に入れて、泥で汚れた服を洗濯機に突っ込む。着替えを引っ張り出して置く。腹減ってるだろうから、この前の残りのパスタを作ってやろう。
妻子が出て行ってからも、ついクセでミートソースを三人分作ってしまう。いつもは残った分も一人で消費しているけど、今回は一年ぶりに誰かに食べてもらえるんだな。つい頬がほころぶ。
アイツがシャワー室から出る音が聞こえる。そろそろ準備し始めよう。そう思って鍋に火をかけた途端、懐かしい匂いに意識を掴まれた。妻のシャンプーの匂いだ。
シャンプーは一年前からずっとそのままにしていて、俺はメンズシャンプーしか使わないのだが、中々他の二つが捨てられないでいる。もしかしたら二人がまた帰ってくるかもしれない。そしたらまた必要になるかもしれない。叶いもしないとわかっているのに、つい期待をしてしまう。
俺は甘ったるい匂いに自由を奪われて、感じたい、触れていたいという衝動でいっぱいになった。鍋の火を消して、強引にコイツの髪を乾かす。優しく髪に触れる。コイツの髪、柔らかくてフワフワだな。そう思った途端、息子の髪を乾かしている時の光景がフラッシュバックされる。妻と息子が一緒に風呂に入って、二人が上がった後、俺はよく息子の髪を乾かしていた。甘ったるい匂いに包まれた空間で、妻と話しながら…。
気づいたら髪を乾かし終えてたようなので、慌てて夕飯を出してやった。相当腹が減ってたのか、腹の虫が丸聞こえだ。両手を合わせて、「いただきます。」と言って食べ始めた。相変わらず真面目だな。一口食べて、今まで見たこともないくらい良い表情をした。どうやら美味かったようだ。何となく安心して自分も食べ始めた。
「どうして俺にあんな大事なこと話してくれたんですか?」
寝る直前に聞かれた。
「俺、絶対平子さんに嫌われてると思ってたのに…」
いや、お前が俺のこと嫌いだったんだぞ。その辺わかってんのかな…。
どうしてって、お前の泣き顔を妻に重ねて懐かしい気持ちになったから、なんて言えるわけない。そんなつもりじゃなかったんだけど、結果的にお前の不運を利用してしまった。最低な男でごめんな。だから妻にも愛想を尽かされるんだろうな。なんて自虐的に思っている間に、寝息が聞こえてきた。今日は疲れただろう、ゆっくり休め。長いまつ毛の先を、しばらく見つめていた。
朝起きると、アイツはすでに起きていた。布団がベランダに干してある。律儀だな……なんて思って洗面台に向かおうとして、ギョッとした。廊下に山積みだったゴミやチラシは無く、出しっぱなしだった靴は靴箱に収められている。洗面台に干してあった俺のエプロンはキレイにアイロンがかけられていてシワ一つないし、なんなら廊下も部屋も洗面所も一通り掃除してあった。そして、斜めだったカレンダーは、真っ直ぐになっていた。
アイツ、結構図々しいな…なんて思いながらキッチンへ向かう。爽やかに喋っているが、少しバツの悪そうな顔をしている。コイツ、わかっててやったな。……まあ、ありがたいことなんだけど。俺だったらずっと、あの日のままのこの家を変えることなんてできなかった。広くなった廊下を見て、切なさと同時に、胸のつかえも少しだけ取れた気がした。
美味そうな料理がたくさん出てきた。朝ご飯食べるの久しぶりだな。誰かの飯食うなんていつぶりだろう。なんて思いながら妻の顔が浮かぶ。そのまま食べようとして、昨日のコイツの姿が一瞬脳裏によぎる。
「いただきます」普段なら言わないけど、何となく今日は言ってみる。手を合わせるのは、ちょっと気恥ずかしかった。
ん、美味いな。コイツ料理も上手いのか。一人暮らし長いって言ってたもんな…。ふと、穴が開くほど見られてるのに気がつく。フフッ、そんな不安そうな顔で見なくても大丈夫なのに。お前の料理はちゃんと美味い。そう言うと、安心して腹が減ったのか、虫の音が聞こえてきた。コイツ、素直じゃないクセに、めちゃくちゃわかりやすいよなあ。
「一人暮らし長いって、どれくらい?」
「えーっと、高校からだから……今で五年目くらいですかね
」
料理を頬張りながら答える。リスみたいだ。
「高校から家出たのか?」
「んー、家出たって言うか、俺帰る家無いんですよね」
一晩寝て元気になったのか、口調はいつも通りに戻ってる。
「俺の両親、小五の時事故で他界して。中学の間は親戚の家何軒か居候して、高校ん時はバイトしながら寮で暮らしてました。大学は行くか迷ったんですけどね、金ないし。」
「……お前、めちゃくちゃシフト入ってるもんな」
「はい。でもまあ、奨学金も借りられたんで、なんとかやってます」
ずいぶんとあっけらかんと喋る。そんな生活、絶対楽じゃないだろうに。
「……何か、やりたいこととかあんの?」
「……あります。高校ん時の恩師が、金なら何とかなるから、やりたいことやれって。奨学金の手続きとか、色々手伝ってくれたんですよ」
「……そうか。いい教師に恵まれたんだな」
「はい!」
そう言ってニカっと笑うと、味噌汁を掻き込んだ。
「あっ平子さん、そろそろ出勤の時間ですよ!準備して行きましょう」
手早く皿を片付けて、テーブルを拭く。あっという間に身支度を済ませる。本当に手際が良いな。
「平子さん、本当色々お世話になりました」
「いや、気にすんな。朝なんてほとんど俺がお世話されたようなもんだし」
確かに、といって笑う。軽い足取りで家を出て行く。俺も後に続く。
「……なあ、どうしてさっき、あんなに大事なことを話してくれたんだ?」
え?と言って振り返る。目をパチクリさせて、うーんとしばらく考える。
「俺が昨日、泥まみれじゃなかったら、話すことは無かったですね」
そう言うと、優しく微笑んだ。