2088年9月18日(土) その1
2088年9月18日(土)
「ただの風邪、なんてことないんだけどね」
三つ編みが揺れた。薄い眼鏡が月光を反射させてキラキラと光る。レンズの奥には、鋭利な目があった。
「カイン」
彼女は唇を釣り上げた。
「この姿でははじめまして、といったところかな」
深夜0時を回ったところだ。オレは東遊園地公園にいた。高層ビルはわずかに光を灯すのみだ。波の音がよくきこえた。
「呼び出して悪かったね」
「いや」
カインこと甲斐綾乃はオレと対峙した。背は少年姿のオレより少し低いぐらいで、白のハイネックに紺のジーンズ、イメージどおりのシンプルな恰好をしている。
「先日、ヴァンと聖がここにいるのを見たときから、半ば予想はしていたんだ。聖が今日訪ねてきて、決心した」
この公園でセインと同じ制服姿を見た気がしたのを思い出した。カインだったのか。
「調べてるんだろう。秋山このみとドラッグプログラムの関係を。それとも、私‐‐と言うべきかな」
クスクスとカインは笑った。
「聖、あの子のことだから、『先輩の仇が取りたい』などとバカなことを言って巻き込まれたんだろう。大体の経緯は予想がつく。ヴァンは、どこまで知っている?」
「ほとんど何も知らない状態だよ」
「そうか」
カインはオレの前にスクリーンを出した。
「!」
映し出された写真には、秋山このみとカインとの関係がはっきりと示されていた。
「不思議だね。ヴァンには知ってもらいたい気もするんだ。私たちのこと」
街頭カメラから取られたのだろうその写真に、DR姿のカインと秋山このみがいた。カインの頭を両手で抑え、舌を絡ませている。カインの口から唾液が伝っていた。カインの顔は快楽というよりはむしろ苦痛で、歪んでいた。
まさに、ルネに伝えることができなかった一枚だ。オレは眉を顰めた。
「このみがうれしそうに送ってきた。他にもあるよ。もっと激しいのも」
ほら、とカインの細い指が動く。
「いや、見せなくていい」
「照れなくてもいい。欲望に忠実に生きるのも、いいことだよ」
「間に合っている」
楽しそうに、カインが目を細めた。
「間に合っている……」「復唱するな!」
秋風が冷たかった。カインはベンチにゆっくりと腰かけた。「話は長くなる」オレも倣う。
半月が甲斐綾乃の顔を照らし、半面影を作っていた。
「このみとの関係を一言で表すなら、元恋人同士ってところだ。ならされた、というべきかな」
オレの想像は半分当たり、半分外れだった。
「元?」
「そう、元」
カインは月よりも遠いどこかを見つめた。
「私とこのみは同じスポーツ関連の業界に君臨する人物の娘で、幼少のころからの知り合いだった。それこそ幼馴染みとも言える間柄だったよ、小学生までは。私がこのみの恋人にさせられたのは、中学一年生の時だった。圧力だ。当時このみの会社MIMEが特許を取っていたシステム、oART導入に私が引き合いに出された。父から直々に言われた。このみの言うことを何でもきけと」
カインは淡々と語る。oARTは有酸素運動の革新的な技術で、数年前に連日メディアを賑わせていた記憶がある。詳細は知らない。だが、スポーツ業界にとって、大きな出来事だというのは理解できた。
「父は媚びろという意味でいったのだろうけれど、このみの要求は違ったよ。あの頃から、このみは私に執着していた。私は気づかなかったけれど。だんだんこのみの要求はエスカレートしていった。最初は休日に付き合え。次にキスしろ。最終的にホテルだ」
カインの口元は微かに震えていた。
「このみは自分の立ち位置を理解していた。カイスポーツが業界最大手になれたのも、oARTが独占できたおかげだしね。そうして、私は恋人という名の奴隷に成り下がった。」
嗤う。
「私とこのみとの関係は、初めから歪んでいた。このみの執着が私を搦め捕って、ずっと身動きできないでいたんだ」
クスクスとカインの口から声が漏れた。
「彼女、非常に女々しかったんだ。文字通りね。レースが好きだし、かわいらしいぬいぐるみには目がなかった。好きな色はピンクで、小学生になってもリカちゃん人形が手放せないでいた。それこそ、少女マンガが愛読書でね。私もよくレースの服を着せられたよ。ゴテゴテの趣味が悪いひらひらしたやつだ」
オレは甲斐綾乃のロリータ衣装を想像しようとしたが、できなかった。彼女の強い眼が、少女らしさを打ち消していた。
「ヴァン」
カインがオレを見た。微笑んでいるのに、泣いているようにしか見えなかった。
「そんなこのみが麗人みたいな恰好をしていたのは何でだと思う?」
「……女の子らしいとおかまみたいに見えるから」
「それもある」
彼女は笑顔を深めた。
「正解は、他の女が私に注目しないように、だよ。私に誰も近づかないように、他の女の視線を自分に向けるように仕向けた。友人になろうとした人は、全てこのみが奪い取った。滑稽だ。このみ以外は誰もそんな目で私を見ないのに。おかげで私は友人が一人もいなかった」
このみが睨みをきかせたせいでいじめもなかったけどね、とカインは付け加えた。
文字通り、カインは秋山このみに拘束されていた。聖ベルナデッタ学院はエスカレータ式で、人間関係もそのまま持ち上がる。もちろん、カインこと甲斐綾乃は友人がいないままだった。
転機が訪れたのは、2086年の夏、セインが転校してきてからだ。天然でにぶいセインは、カインと秋山このみの関係に気づかず、カインと友情を育みはじめる。
「当時の事情を少しだけ言うと、oARTに変わる技術、monolithが生まれた。もうこっちの方が有名になっているからわかると思う。秋山このみのMIME社ではなくHelene社だ。カイスポーツもoARTから乗り換えることになって、私はこのみとの関係を解消した。タイミングが悪かった所為もあった。聖が私を奪ったと思い込んだこのみは、聖にまとわりつくようになった」
それが秋山このみのデータにあった写真の山だ。
「堪らなかったね。以前は私が一人でいれさえすれば、学校ではそっとしておいてくれたんだ。『あんまり関係が知られるのは恥ずかしい』って目薬で潤ませた目でお願いしたことも関係あるのかもしれないが。聖が来てから、いや、別れてからかな。休み時間も教室を訪れて、四六時中私を監視しはじめた。聖はバカだから、単純に『親切にしてくれた』とでも言ってたんだろう。あれは、聖の懐柔も兼ねてたから」
写真で関係も強要された。秋山このみの束縛に限界を感じていた時、DRを知った。廉価版ギアが発売され、大々的にDRのアイドル歌手鈴木エーナが売り出された頃だ。カインは秋山このみが機械音痴だということを良く知っていたから、手を出さないと見込んで、「拡張現実へ逃げた」
ぽろり、とカインの目から雫がこぼれた。
「はじめてだった。あんなに楽しかったのは。甲斐綾乃ではない誰かになれた気がした。自由を感じた。ルネやヴァンにも会えた。下らない遊びが好きだった。ヴァン、あの時間だけが私の救いだったんだ」
カインはすっと涙を拭った。涙とともに、表情も消え去った。
彼女の口から流れ出たのは抑揚のない声で、オレは身体を震わせた。
「アレは偶然手に入れた。強烈な快感、悦感。はじめて使って、私はこれだと感じた。このみにギアを買わせたのも私だ。すぐさまこのみにアレを使わせた」
アレがドラッグプログラムを指していることはすぐにわかった。
「単純に、私以外のものに依存してくれればいいと思ったんだ。そうして、私から離れていってくれたらいい。このみは予想通り溺れたよ。アレの数も限られていたから、私の使う分は減っていったけど、使えない辛さよりもこのみの粘着のほうが苦痛だったから耐えられた。それでも、半分成功で、半分失敗だったが」
結果的に、DRでも追いかけられるようになった。
「まぁ、アレを使いつづけると死ぬなんて思わなかったけどね。このみは、私が殺したようなものだよ」
清々したけどね。カインはすっと立ち上がった。
三つ編みが揺れる。
「私はこのみが使うようになってからは使用していない。だけど、アレは一回使ったらアウトだと思う。多分、使用頻度が高いほど……」
「カイン?」
「時間切れ。最近、何度も何度も来る……。急に」
彼女が振り返ったが、逆光で表情がわからなかった。
「ヴァン。今から言うことを覚えておいて」
少女は膝をつく。波の音が耳障りだった。
「新大久保」
手を己れの首に絡めた。
「私書箱」
屈み込む。
「に、まる……、さ、ん」
「カイン!」
オレはカインに駆け寄って、彼女に手を伸ばした。虚しく彼女の身体を突き抜ける。オレは唯の映像だった。彼女の指はしっかりと食い込んでいて、剥がれようとしない。
「しっかりしろ」
カインは地面に倒れこんだ。カシャンと軽い音がして、彼女の眼鏡が外れる。レンズにはひびが入っていた。カインの口は引きつったように釣り上がり、唾液が伝っていた。
「カイン」
意識がない。オレはギアに目を走らせた。夢中で操作する。電話の呼び出し音はたった3コールなのに、やけに長く聞こえた。カインの顔がだんだん青くなっていくのがわかる。
『なんだ、ルネのお守りヴァン』
耳に入った声は爽やかだったが、オレは気にもとめなかった。
「サイバー課! 神戸の東遊園地公園にすぐ来てくれ。実体を引き連れて!」
『はぁ?』
「ドラッグプログラムの使用者が倒れている。自分で首を締め、動かなくなった。頼む」
『すぐ行く!』
オレは通話を切った。
ひびの入ったカインの眼鏡が、キラキラと月光を反射させていた。




