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void  作者: az
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2088年9月30日(木)

 void、それが何を意味するのか、当時の自分には何も理解ができなかった。それを教えてくれたのもやっぱり兄だった。

 作りたいプログラムの仕様を入力すれば、勝手にコーディングしてくれるシステムが主流の今、手で一々プログラムを組むなんて非生産的なことはよっぽどのgeekでない限りしない。兄はその一部のgeekに属する人間で、とにかくプログラミングが好きだった。当然オレに教え込もうとするのは当然で、オレはこうして悪戦苦闘しながらコードを作る。

「ねぇ、お兄ちゃん。voidとNULLって何が違うの? 意味同じでしょ?」

 使い方の違いはわかる。voidとNULLは明確に使い分けされているから、混同なんてしない。だけど何でだ?


 void、空虚、虚無、何もない。

 NULL、存在しない、ゼロ。


「誠、ほら、よくみてごらん」

 兄の指した先は「if(p == NULL) 」の式だ。「もし、変数pがNULLならば真」という意味。

「このNULLはどういう意味?」

「えっと、ポインタ……、値が存在しないってこと」

「そう。存在しないってことを示してるんだよ。何かに似てるって思わないかい?」

「んと」

 オレの頭はぐるぐると回る。何もないことを教えてくれるもの。

「0?」

 正解、と兄はオレの頭を撫でた。インド哲学は偉大だ、なんてつぶやきながら。

「数字の0は数がないってことを示してるだろ。NULLも0の親戚で、何も値が入ってないってことを教えてくれるものなんだよ」

「そうか!」

 お兄ちゃん、解りやすい。

「じゃあ、voidは?」

「プログラムで重要なのは値の受け渡しだって理解しているね」

 オレは頷く。プログラムは値の受け渡しリレーをしながら処理をするんだ。

「じゃあ、voidはどういう時に使うんだ?」

「値がいらない時!」

「そうだよ、誠」

 例えば「int main(int n)」という処理の塊があった場合、nという匣に値を入れるんだ。「main(1)」でmain処理を呼び出す。nには1が格納される。1という数字がmain処理の中で調理される。だけど、値の不要な場合はvoidって書く。「int main(void)」だ。決して「int main(null)」じゃない。

 オレは「void」を眺めた。


「voidは虚無。NULLさえ存在できない場所、完全な無」


 心が震えた。





 早いもので9月も今日で最後、明日から10月だとは俄に信じがたい現実だ。9月はドラッグプログラムに振り回されてばかりだったが、それももう終わる。

 オレは上機嫌で触手クラブから出てきた。そう、あのおぞましい内容の仕事が片付いたのだ。七緒さんもいたく満足してくれた。今までの最高傑作とまで言ってくれたのだ。内心はかなり複雑だが、ジャンキー相手に反応を見れたことが功を奏したのだろう。あの後微調整したしな。報酬は上乗せしてくれた。「次は粘菌ね!」なんて叫びは聞こえないふりをしておく。

 今日はビジネスのため、アバターは青年を使用していた。少年と同じ程度の凡庸さ。オレがはじめてDRになったときのアバターだ。少年のアバターも思い入れがあるが、こいつはこいつで特別だ。

 頭の中で鈴木エーナの『トワイライト』を流しながら、オレは座標を指定した。

 マルセイユへ。


 時刻なんて知ったこっちゃない。ただ、フランスはもう夜だった。オレがぶらぶらと歩くのは人通りの少ない裏路地だ。街灯カメラなんて迷惑なものに映りたくはなかった。到着したのはホテルの角、ARバリアは予想通り張られていた。オレはゆっくりとその表面をなぞって繋ぎ目を探していく。アンダーグラウンドの世界でも出回っていない裏技だが、DR黎明期、ARバリアにも関わったことのあるオレだから無効化の方法も知っていた。ARバリアは目的の場所だけ割らせてもらう。そのまま移動。

 ベッドに眠るのは30代後半の女、と金髪で筋肉のほどよくついた男だ。

 裸だから、身体の子細まで判る。この女、男の胸毛が好きなのか。細い指を男のカールした胸毛にしっかり絡めている。

 オレは女に視点を移した。

 やっぱりな。女はチューナーをつけたままだった。シンプルなネックレスが信号を出している。そこに直接オレは座標を叩き込んだ。オンナの瞼がひくひくと動く。

 オレはまた目的地へ飛んだ。


 懐かしい場所だ。先日訪れたばかりだが、そう思った。部屋は完全封鎖されていて、この一室だけARバリアが張られてあった。申し訳程度に天井に穴を開けてそこから入った。部屋を見渡すと、サーバは押収されたようだ。昨日はあんなに散乱していたチップの破片も、今は綺麗になくなっている。机には茶色に染まった血がこびりついていた。

 三分といったところか。

 気配を感じてオレはARバリアを修復した。DR版完全密室の出来上がり。そして振り向く。

 息を切らせた女のアバターが切なそうな表情でオレを見ていた。実体と違って髪は長いし若い。お金を出して作ってもらったのかもしれない。容姿もそれなりに綺麗だ。

「多々良君!」

 悲鳴にも似た叫びだ。

「多々良君、わたし、ずっと信じてたの。多々良君が生きてるって。新宿で見かけて、叫びだしそうになったわ。あの時は多々良君が急にいなくなって焦ったけど、もう一回わたしの前に出てきてくれてよかった。ねぇ、わたしのサインに気づいてくれたのね。だから、こうしてわたしを呼んだんでしょ」

「……」

 ついさっきまで同衾していた男はどうしたんだろうか。それほどまでに女はオレしか見ていない。

「わたし、やっと多々良君の理論が正しいって気づいたの。あの時はどうかしていた。大切な多々良君を信用せず、あまつさえ会社も辞めさせようだなんて。山本先生が死んで、多々良君がわたしにそれを証明したんだってわかったわ。今からでも遅くない。一緒に論文を発表しましょう!」

 何も言わないオレに女は焦れたようだった。

「もうっ、多々良君、何か言ってよ。あの時はわたしが悪かったって。謝るから」

「残念だけど、オレは多々良涼じゃないよ」

 女は怪訝な顔をする。

「だって、それ、多々良君のアバターよ。冗談は好きじゃないわ」

 女の言う通りだ。これは多々良涼がずっと使用していたアバターで、オレのDRとしてのスタート地点でもある。

 オレは女に歩み寄った。顔が触れるギリギリまで近づける。

「菅野絵里、いや、二宮絵里。オレは多々良涼の弟だよ」

 瞳孔がぎゅっと縮んだ。

「おとうと? だって、多々良君は身寄りがいないのよ。戸籍も、弟なんて存在しない。確かに昔弟がいるって、アパートに来てるって言ってたけど……。だから誘いを断る口実に嘘吐いたんだって思ってたけど」

「うん。血は繋がっているけど、オレは私生児だからね」

 多々良涼の父親の愛人がオレの母だった。父は認知するつもりだったらしいが、オレが生まれる前に死んでしまった。今この事実を第三者が辿るのはかなり難しいだろう。関係者はオレ以外みんなもうこの世にはいないから。

「そ、そう。分かったわ。弟の、確かマコト君だったね。いいわ。それで、わたしを呼び出して目的は何?」

「目的? オレをおびき出したのは自分なのに?」

 二宮絵里はゴクリと喉を鳴らす。

「ええ。そうよ。全部わたしがしくんだ。あんな下らない男とまで結婚して。十一年、十一年もかかったのよ!」


 オレは椅子に腰かけた。皮張りのいいものを使っている。手摺りはオークの木だろうか、ひんやりとして滑らかだった。

 悠然としたオレの様子に苛立ったのか、二宮絵里は落ち着き無く足をならして、声を荒げた。

「マコト君は全部の真相が知りたいのね。いいわよ。教えてあげるわ。でも、交換条件よ。わたしだって知りたいもの。多々良君の理論が。あの『偽装現実の精神作用』が。山本先生のことも。それでいいなら喋るわよ」

「うん、まぁそうだね。オレも二宮絵里に話すつもりで来たわけだし。条件を飲むよ。

 女の顔がとたんに明るくなった。

「ええ、そうね。どこから言おうかしら。最初から?」

「山本一樹が何をやったか、菅野絵里が兄を解雇しようとしたところまでは知ってるよ」

 兄が論文を山本一樹に提出し、一蹴された。それを知った菅野絵里は兄を無能扱いして切ろうとした。あの時の兄の苦痛、絶望が日記に綿密に綴られている。しかもこの女は当時の山本一樹の愛人で、todoro社のCEOでありながらtuz社に売ろうとした人間だ。結果的にこの女はCEOを下ろされたが、todoro社はなくなってしまった。とんだ女狐ってわけだ。

「そ、そう。じゃあ山本先生が死んだところからかしら」

 女は忙しなかった。オレの前をぐるぐると歩き回る。

「山本先生が死んで死因を聞いて、わたし気づいたの。これ、多々良君がやったんだって。論文を全否定した復讐に山本先生を殺したんだって。だってそうでしょ。山本先生は持病一つない健康体で、死因も不明だもの。殺人でも自殺でも、ましてや病死でもない。血栓もないのに急に心臓が止まるなんてありえないのよ。それで、わたし、すぐさま山本先生のギアを確認しようとした。だけど、触らせてもらえなかった」

 忌々しそうに歪む顔。

「研究に関する遺品は全部二宮正行きって、そんなことないでしょ!」

 本当にそうだよな、と思う。あの男無能そうだし。

「でも、どうしても多々良君の革新的な技術が知りたかった。あれを発表すれば、まさに世界が変わるもの。どうにかしてあの男に近づいて愛人になった。それでも、遺品にはなかなか手が出せなかった。本当にあの男わたしに溺れているくせして、世間体だかなんだかで離婚しないんだもの。やっと結婚したのが二年前、そこからわたしは二宮正にドラッグプログラムの存在を教えた」

 二宮正の話と全てが繋がってゆく。元より予想していた内容だった。

「あの男に扱いきれないから、と多々良涼探しを勧めたのもお前か」

「そうよ。わたしが付き合った中で一番使えない男だったわ。頭にお花畑が咲いていて、その上で蜂が八の字ダンスを踊っているようなおめでたい人間だった。結婚してからは操縦がしやすくてよかったけれど」

「そうか」

 女は紅い唇を舐めた。ルネがするようなかわいらしいものではなく、女の色気を全面に押し出したような動作だ。

「次はマコト君の番よ」

 オレは笑った。


 

 オレの部屋にはもうどこにもつながなくなったサーバが一台ある。兄の遺品で、当時からしても若干旧い型だが、性能は十分にあった。そのサーバの中には、兄の遺したもの全てが入っている。日記、論文『偽装現実の精神作用』、そしてドラッグプログラムのソースコード。

 オレたちは頗る仲の良い兄弟だった。兄がオレの存在を知ったのは父の葬式だったらしい。本妻の子、愛人の子、間の父親は死亡という奇妙な家族だったが、兄が東京にいる間はよく一緒に遊んだ。兄が奈良に引っ越してしまった後も、夏休みになると遊びにいったりと、関係が崩れることはなかった。

 季節外れ、奈良を滅多に離れることのなかった兄が急にオレの家を訪れたのには驚いた。後ろのカートには兄の命ともいえるサーバとギア。

「あげるよ」

 オレはバカだった。差し出された憧れの品々に後先考えなく飛びついた。兄が近所の公園で首を吊ったと知ったのは、その次の日だった。荻窪、そこにオレの家がある。


 スクリーンを出した。情報はオレのギアについたチップから引き出している。女はそれを食い入るように見つめた。

「確か、菅野絵里は医学部神経科出身だよな」

「そうよ」

 不思議そうに返す。

「快楽はどうやって生まれるか知ってるか?」

「え?」

「快楽物質の出し方」

「麻薬とか?」

 その程度か。

「快楽物質は、長時間運動したり、音楽を聴いたり、絵を見たり、例外的なのだと極端な睡眠不足でも放出されることが知られている。その快楽物質を放出するための条件を極端に切り詰めたのが、ドラッグプログラムなんだよ」

「意味が……」わからないか?

「例えば、音楽は聴覚だ。良い音だと、音楽に浸る。その時快楽物質が出るのは、『快い』聴覚の刺激があるからだ。その刺激を抽象化する。絵画は視覚だ。絵を見て綺麗だと思う。『快い』視覚の刺激を抽象化する」

 二宮絵里は息を飲んだ。

「そうやって、五感全ての『快い』刺激を集めたものがドラッグプログラムだ」

「それは、多々良君は、DR技術よりもずっと根底にある、精神医学まで進んでいたってことなの?」

「二宮絵里がそう言うならそうなんだろうな」

 オレに医学のことはわかりようがない。電子ドラッグも根本は同じ仕組みだが、ドラッグプログラムはもっとコアだ。飽きのこないように完全にランダムで生成される。まさに純粋な快楽の刺激だけを追求したプログラムだった。

「でも、あの男はドラッグプログラムを使うと凶暴になるっていってたわ。あれは何?」

 ドラッグプログラムを使って感じた怒り。兄の『本物の』ドラッグプログラムを使ったことのあるオレだからこそ解る。

「あれは、歪み、だよ」

「歪み?」

「そう。元々二宮正がばら撒いていたプログラムは、兄の作ったドラッグプログラムの残骸だ。修復したようにみえて、実は完全じゃなかったってことだ」

「あなたはそれを理解しているというの?」

 信じれないといわんばかりだ。まぁそうだろうな。オレは頭を指さした。

「島皮質だよ」

 脳が専門なら判るだろ。

「ここの視覚野の受容体は、怒りを感じる神経群と隣接している。不要な視覚の刺激を何度も受け取ったら、怒りを感じる神経までが刺激されるんだよ。だから、怒りが湧く。二宮正のドラッグプログラムは、不要な刺激が多すぎたんだ。快楽だけじゃない、余分なものまで混じってしまう」

 島皮質、情動に強く関わる扁桃体、本能を司る視床下部、感覚神経はこれら全てにつながっている。感覚神経に電気が走ることで、これら情の中核ともいえる部位が刺激され、動物のもっとも原始的な感情、すなわち「快」と「怒」が生まれる。二宮正のドラッグプログラムは、「快」の均衡が崩れ、「怒」に転じていた。

「なるほど」

 言葉にしてしまえば簡単だが、本当はそれだけではない。刺激のパターンを分析しただけでは、快楽は生まれない。エマノンのトレースは無駄だった理由だ。ギアを使うのは、流す回路を指定するためだ。どこの場所からどういう刺激を与えるか。刺激のルートはどうか。強弱。そしてこれは今の自動でコーディングしてくれるシステムでは行えないほど複雑で、難解だ。ドラッグプログラムを作れるのはプログラミングに精通している兄だったからこそと言える。

「素晴らしい技術ね! 想像以上! なんで山本先生はこんな論文を否定したのかしら」

「単純に読んでないだけだろ」

 それとも、読んでも理解できなかったか。机上の空論で終わらせたか。

 何も快楽が論文の主旨ではない。兄は、刺激によってある程度感情を動かすことができると証明したかっただけだ。それがDRだと容易なんだって。別に快楽でも怒りでもなんでも良かった。たまたま作ったのが快楽だった。だが、そんなことをこの女に言っても無駄だろう。

 二宮絵里は何か思い出したように手を叩いた。

「そうよ。でも、死ぬんだわ。ドラッグプログラムを使うと人が死ぬ」

 オレはこの女と話をするのがバカバカしくなってきた。

「当たり前だろ。快楽っていうのはストレスだ。お前も医者なら解るだろ。短時間で何度も強いストレスを受けたら死ぬって。島皮質は刺激を覚える。ドラッグプログラムを使いたくなる。使う。ストレス。快楽に耐性ができる。使えなくてもストレス、使ってもストレス。その永遠ループだ。いわゆる中毒症状だな。それが限界に達して、ある日プッツンするんだよ」

 あれほどの強烈な快楽だ。ストレスは並じゃない。情緒も不安定になる。カインが統合失調症と似たような症状だと言っていたが、当たり前だ。まさにドラッグプログラムのフラッシュバックは統合失調症をなぞるようになっているんだから。自傷行為に走ることもある。

 ドラッグプログラム使用者がDRで死ぬ傾向にあるのは、ギアがフラッシュバックのキーになりやすいからだろう。サイバー課は拾えてないが、ギアを付けていない状態での死亡者もいるはずだ。

「理解できた。ネックは死ぬってことだけね」

 うんうん、と上機嫌で二宮絵里は頷く。

「それで、山本先生を殺したのは、君?」

 十一年前、まさにここが山本一樹の教授部屋だった。



 兄が死んで、泣きながらサーバを調べた。日記はすぐに見つかった。

 オレは中学に入学したばかりだったが勉強どころではなかった。引きこもりになっても、母はオレの気持ちが解るのか、何もいわなかった。舐めるように何度も何度も日記を読む。研究が認められない苦悩、悲しみ。オレからすればかなり意外なことに、兄は菅野絵里に淡い恋心を抱いていた。兄は女狐の本性を知らなかっただけなのだろうが。そんな憧れの人からの会社解雇計画、オレの兄が精神を病むのもさしておかしくない話だ。

 だが、兄の自殺の直接的要因ではない。

「なぁ。多々良涼がドラッグプログラムの中毒者だったってのは知ってるか?」

「え?」

 不意を突かれたような素っ頓狂な声。

「兄も論拠が弱いって知ってたから、ドラッグプログラムを作った。だけど、それを使っているうちにおかしくなったんだ」

「……」

「主に山本一樹の重圧で」そして、好きな人からの否定で。「短期間のうちにドラッグプログラムを作って試しているうちにジャンキーの出来上がりだよ。そして死んだ」

 兄がオレにサーバとギアを託したのは最後の理性からだった。

「日記を読んで、オレは山本一樹を憎んだよ。だってそうだろ。あいつが、兄の論文を受け入れてさえいれば! 修士過程なんてな。よっぽど理論破綻してなかったら修了できるものだろ。兄にはもう後がないってわかってるのに。あいつは!」

 奈良国際大学は研究者育成に特化した大学だ。中途半端な論じゃ駄目か。

 でも!

「兄は正しかったんだ。オレはそれを証明したかった!」

 必死で兄の論文の理解、ソースコードの解析をした。奈良国際大学修士課程の人間が書くだけあって、到底中学一年生に理解できるものではない。把握するまでに一年半もかかった。

「オレが兄の理論をものにして、行ったのは山本一樹にドラッグプログラムを送ることだった。決して内容が外からわからないように何十もバイナリを保護して、コピーガードもつけた。山本一樹はすぐに試したよ」

 封筒を送りつけたのはオレだ。代行屋にも用事を頼むことがあったが、ドラッグプログラムは自分の手で送っていた。封筒についた透かしは偶然だった。ルネとエマノンは都合よく勘違いしてくれたが。

「山本一樹を中毒者にしようとしたが、別に死ななくてもいいと思ってたんだ」

 西日が差し込んでくる。昨日と同じだな。目を細めて空を見た。

「区切りがつくまでは、と兄のIPアドレスやメールはそのままにしてたんだ。ある日、山本一樹から兄宛に一通のメールが送られてきた。嗤っちゃうような内容だよ。『共著で論文を発表しよう』とだと。どこぞの誰かと同じことをあの男は吐いた」

 女の口がひくっと動く。

「『論文を認めてやってもいいから共著』が条件だ。図々しい。さすがにオレも切れたね。殺そうと思った」

 


 兄の論文を精読しながら、同時に考えていたことがある。

「voidだよ」

「void……。虚無、隙間、深淵、空虚な、動詞は『無効にする』」

 この時だけはオレも二宮絵里を認めた。

「オレは、兄が中毒で苦しんでいたのもやるせなかったんだ。実際に自分自身でドラッグプログラムを試すこともあったからっていうのもある。だから、ドラッグプログラムの中毒症状をなくすプログラムを作った。そう、まさに、ドラッグプログラムを『無効にする』ための、ね」

「マコト君!」

 女の顔は喜色でいっぱいになった。オレを抱きしめんばかりに詰め寄る。

「素敵よ! そんなことができるのね。完璧じゃない。ドラッグプログラムとそのプログラム、併せて発表したら、もう世界が変わっちゃうわ」

「そうだな。結局、そのプログラムを使って山本一樹を殺したんだ」

「え……」

 女の動きが止まった。みるみる顔を強張らせる。

「これがそれだ」


 オレは二宮絵里にvoidプログラムを送った。白い光が彼女の腸に突き刺さって消える。女は緩慢に斃れた。目はもはや何も写しはしない。痙攣さえない。

「voidプログラムは、ドラッグプログラムの反対を行う。すなわち、刺激をvoidに送って感覚全てを無にする。島皮質、扁桃腺に記憶された快楽の情報はリセットされる。快楽の記憶が消えれば、ドラッグプログラムを使いたいという本能的な欲求は消えるんだ」

 人が刺激を一つも受け取らないという状況は普通考えられない。耳を塞いでいても、聴覚は働いている。目を瞑っても、視覚は動いている。味覚、嗅覚、触覚もいわずがもがなだ。島皮質の記憶を全否定し、受け取る刺激を再認識させるのが、このプログラムの目的だ。通常は数分。

 だが、オレはこの女に対して時間の設定を行わなかった。小さい白の部屋に人を閉じ込めて数日で発狂してしまうように、人間は刺激の少なさに対して想像以上のストレスを脳に与える。通常あるはずの刺激、五感が完全に途絶えた場合、脳に負荷が掛かり最悪死亡することになる。山本一樹は二三時間で逝った。

 DRになっている間は、実体も動きやしない。二宮絵里の同衾男が現状を把握する前にこの女は死ぬだろう。

「どうだ。刺激が全部voidに送られる感覚は」

 なんて言ってももう聞こえやしないけど。


 最初はルネのいうドラッグプログラムがオレに関わるものだとは思わなかった。あの頃の日々はもう捨て去ってしまった過去にすぎない。だが、エマノンにドラッグプログラムを使わされて、やっとわかった。

 これは、十一年前の後始末のようなものだった。オレが復讐心にかられて行ってしまった過去の清算だ。だから最後まで付き合った。知らないふりをして立ち回るのは、演義の下手なオレには骨の折れるものだったが。

 おかげで、もう内情を知る者はいない。


 山本一樹が死んで、改めてオレはドラッグプログラムを公開せず、オレに兄の研究成果を預けた意味を考えた。何も言わないまま消し去ることもできたんだ。それはきっと、オレに全てを委ねるってことだろう。

 オレは今の世界が楽しい。改革だの、常識をひっくり返すだのは御免だ。プログラムなんかに感情を操作される世界などいらない。ましてや、ドラッグプログラムの蔓延した世界など、クソクラエ。

 だから、兄の成果は眠らせることを選んだ。


 さて、これからセインとカインに、バレないようにこいつを流して治さないといけない。それで、帰ったらこのギアにつけたチップを処分する。今使っている回線は追跡できないようプロキシを多重でさしているからそれも戻す。それで終わり。

 もうすぐ10月だ。



 ギアを捻る。カチ、と音がしてパルスが走った。




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