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void  作者: az
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2088年9月25日(土) その1

「ほら、こうやってギアを捻るんだよ」

 ギアを付けたオレに向かって、苦笑しながら兄は軽く腕を捻る動作を見せた。

「うん」

 胸の高まりがどうしようもなくて必死に頷いた。大きなサーバがヴィィィン、と唸る。小難しい本や資料が部屋一面に散らばっていた。オレは辛うじて場所が確保できたちゃぶ台の前の座敷、兄はベッドに腰かけている。

「じゃあ、やってみようか」

「うん」

 震える手で、ゆっくりとギアを捻った。迸るパルス、目を開けると大きな公園にいた。

『どうだい?』兄の声が聞こえた。回線だけは開いているからこうして会話ができる。

「すごい!」

 普通の人間がオレの身体を通り過ぎた。自分は透明になっているのだ。ARになっている。オレは興奮してあちこち触りたい気分だった。肉体から開放された自由な魂だ。ARはなんでもできる。

 だけど、何故か違和感が拭えない。一歩踏み出そうとして、足元が崩れた。

『誠?』

 踏みとどまって、やっと何がおかしいのか気づいた。

「兄さん、なんだか背が高くてぐらぐらする」

 視点に慣れなかった。普段のオレよりもアバターの背が高い。一瞬で数十センチ背が伸びた気分だ。バランスが難しくて歩き辛い。

『一回こっちに帰っておいでよ。誠のアバターを作ろう』

「うん」

 ギアを捻ると、また兄の部屋だった。兄は眉をハの時に曲げてスクリーンを出す。

「ごめん」

 しょんぼりするオレに兄は頭を撫でた。

「いや、気が利かなかったよ。やっぱり誠専用のアバターもあったほうがいいよな」

 そう言ってスクリーンをオレによこした。アバターの設定画面が表示されていて、丸坊主素っ裸の男のアバターがゆっくり回転している。

「これ、オレ専用のアバター? 好きに変更していい?」

 答えは確認しなかった。オレはもう好き勝手にアバターをいじる。オレの今の身長は161cmだからそれに合わせる。もっさりとした黒髪じゃなくて、色素の薄い茶色で。慎吾みたいな恰好いい感じがいい。散々顔を弄くった。流行りのボトムにお気に入りのパーカーを着せる。

「うーん」

 だけど、できあがったのは凡庸という表現が一番似合う少年姿だった。首を傾げるオレに兄が苦笑する。

「誠らしくていいんじゃないかな」

 それ、褒めてないだろ。平凡だっていいたいんだろ。

「結構アバターを作るのはむずかしいんだよ。特に今までヘルメット型のギアしかなかっただろ? 作り込む部分がまだうまくできていないんだ」

「そうなんだ」

「そのギアが普及すれば、技術も改善されると思うよ」

 当分の我慢かぁ。でも、オレがはじめて作ったアバターだ。オレの分身だ。どこまでも凡庸な顔立ち、だけど少し鼻が低いところとか、猫っ毛の髪とか、うん、いいかもしれない。

「お兄ちゃん、じゃあこいつでもう一回行ってみる!」

 さっきよりも胸が高鳴った。



 ふと、初めてDRになった時のことを思い出した。あの頃はただDRになることが純粋に楽しくて新鮮でおもしろかった。兄がいて、甘えて、笑いあって。今はもう特別な感慨を抱くことはないが、妙に懐かしい気分にさせられる。実体のオレよりも一回り小さい手のひらをぎゅっと握った。

 奈良の空気は郷愁を呼び起こす。


 奈良研究学園都市は第二の筑波を目的として作られた研究学園都市で、かつての藤原京上にあった。奈良研究学園都市には、企業の研究施設や様々な学校が集まる。その核をなすものが奈良国際大学だった。奈良国際大学は日本でも有数の学府で、創立50年に満たないにも関わらず、すでにノーベル賞学者を5名輩出している。日本でも東京、京都、筑波に肩を並べるほど、いや、それ以上に人気も学力も高い。他の大学と違い、奈良国際大学は専門に特化していた。つまり、一般企業向けの社会人になるためのステップとして通うところではなく、研究者・専門職育成に注力した場所なのだった。

 奈良県橿原市、ここは山に囲まれているだけあって、空気が清廉としている。道路は綺麗に舗装されていて、夕日で黄金に輝いていた。何棟もの建物が円を描くように建っている。その中心が一際高い塔で、奈良国際大学の象徴だ。

 ここも久しぶりだな、と思う。最後に来たのはいつだっただろうか。校門へと続く道を一歩一歩踏み出して雰囲気を楽しんだ。

 小さい影がぶんぶんと大きく腕を振る。

「ヴァン、遅いよ」

「そうか?」

 既にルネは校門前に来ていた。

「はしゃぎすぎだろ」

「だって、だって」

 抱きつこうとするのを頭を抑えて防いだ。

「で、やっぱり構内はバリア張られてるのか?」

「建物の中がね」

 昨日のルネの宣言どおり、今日これから大学に侵入する。事前に調べた限り、大学の敷地内でも外なら自由にDRが出入りできるようになっているが、建物の中はARバリアが張られていた。講義の盗み聞きや研究のスパイ対策、大学の治安維持等色々理由はあるのだろう。

「だけど、建物でもバリアのない場所はあったよ。どこだと思う?」

「DRを研究しているところか?」

 ルネはにっこりと笑った。

「うん。西3ーB棟、ここが工学部の研究室が集まっているところなの。ここだけはDRの研究が主体なだけあって、バリアが張られていない。二宮正の教授部屋もこの建物にあるよ。911号室。セインちゃんには今日もここにいることを確認してもらった。サイバー課が来る前に行こう」

 ぎゅっとルネはオレの手を握り締める。興奮しているのか、頬が上気していた。

 一歩、敷地に入る。確かにバリアはなかった。

「こっちこっち」

 手を引かれるまま駆け足になる。どれだけ燥いでいるんだろう。

 敷地内は近未来を思わせる作りをしていた。地面はアスファルトでもコンクリートでもない。土はどこにもなくて、白い地面からにょきっと木が生えている。説明らしきものがARでテロップが流れていた。『当大学では、高吸水性ポリマーを使用しています。これは水を浸透する機能を持った化合物で、主に道路の排水に……』また、講堂の屋上からは何本ものケーブルが空へ伸びている。上空10kmまで達するこのケーブルの先には、風車がつけられている。ジェット気流を利用した風力発電で、奈良国際大学が実験的に行っている発電方法だ。凧の原理で風車が落下することはない。

 こうして歩くだけでも、様々な奈良国際大学の先進的技術を見ることができた。

 ルネの足はぴたりと止まった。バームクーヘンを切り取ったような、歪曲した建物だ。見上げると10階はありそうな高さで、ガラスが茜色の空を写し出している。

「ここが工学部の棟だよ」

「へぇ」

 休日だからか、夕方だからか、オレたち以外に人の姿はない。

 中を覗き込むと、正面入り口をすぎたあたりにエレベータ、隣に簡単な案内板があった。さすがにここのエレベータはDR対応なんてしていないだろう。9階まで跳ぶか。

 まずオレたちが二宮正の部屋に乗り込んで、ドラッグプログラムチップの証拠を取る。同時にデータが削除されないようにそれを抑え込む。一通り情報をいただいた上でオレたちは退散、その後でサイバー課が正式に訪問という手筈になっていた。

 よしっ、とルネはかわいらしい気合を入れる。

「たのもー!」

「……」

「……」

 建物に踏み入れた。

 先ほどまであったごく当たり前の正面入り口、中のエレベータや案内板は見事に消え去る。目の前に広がっているのは無限にも思える螺旋階段だ。暗闇で、ところどころに蝋燭が灯っている。

「ルネ、これ……」

 幼女は人差し指を口元に当てて、こてこてと左右に首を傾ける。そして小さく「あっ」と叫んだ。

「そうだった。二宮正、セインのお父さんは今ドラッグプログラムに目が眩んでいるけどさ、本来はDRと仮想現実の融合が研究テーマなんだよ。DRは現実世界の座標を使ってアクセスしている。一方、仮想空間には座標がない。二つの世界は直接行き来ができない。その二つを結びつけるにはどうしたらいいか。MIT時代の二宮正は座標を仮想化して拡張現実と仮想現実、言うなればARとVRを融合させようとしたんだ。多分、その成果がこれ」

「この扉の先は仮想空間ってことか?」

「うん」

 座標はしきい外の値を出していた。

「どうする?」

「単なる実験なのかな、それとも、初めから罠なのかな」

 ルネは唇を舐めた。

「行くしかないでしょ」



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