2088年9月23日(木) その2
私書箱203を出て大きく伸びをした。見事な秋空だ。鱗雲がビルの合間に棚引いている。なんとも神妙な気分だった。それは本村弘美も同じようで、呆っと遠くを見つめる。
「ぼかぁ一旦署に戻ってからルネさんのとこ向かうス」
「ああ」
時間を確認すれば、まだ10時48分だ。わずか数十分間の出来事なのに、すでに何時間も経ってしまった気がする。それほどに濃密だった。
オレと本村弘美は外国語の飛び交う人ごみを抜け、モノレールの改札に入る。途端に騒がしいDRはいなくなり、実体だけが存在を許される。それを奇妙と思う程度には、オレは拡張現実の人間だった。軽く挨拶を交わして、オレは本村弘美に背を向けた。あいつは桜田門、オレは自宅行きだ。
軽快な音楽が鳴り響き、モノレールが走り込む。可動柵が開いて、乗客がぞろぞろ降りてきた。スーツ姿ばかりで、あらためて今日が平日だったことを思い出す。20代のビジネスマンとすれ違いざま車両に乗った。
昔は電車事故が多かったのだそうだ。電車で投身自殺、線路での衝突事故、それで発生する電車の遅延。そんなものが日常だと、ビジネスマンはさぞかし苦労したことだろう。モノレールが主流になって、それらはほとんどなくなった。ホームには柵が義務付けられ、地面に接する線路は姿を消した。高層ビルの合間を縫って走る光景はとても綺麗だと思う。ビルのガラスに反射する白いモノレールの姿や、見下ろした街の光景はオレのお気に入りだった。
壁に凭れかけ、口の中で転がす。『不可能な技術』、『ありえない理論』。
ぼんやりと流れゆく風景を眺めながら、ニオさんの語ったことを反芻した。
もちろんわたしは納得しなかった、そう彼女は続けた。
「だって、読みもしない論文を否定なんてありえない。だから、わたしは多々良先輩の書いた論文を読みたかった。でも……、時すでに遅しってやつかしら。多々良先輩は論文を処分してしまっていた。山本一樹の手元からも論文を削除したらしく、どこにも残っていない。遺されたのは論文のタイトルだけ」
『偽装現実の精神作用』
シンプルかつ明解なタイトル、そのくせ掴み所がない。
ピンポンパン、と音がして扉が開く。気がつけばもう荻窪だった。オレはジーンズのポケットに両手を突っ込んで駅を降りた。
眠りは限りなく浅い。夢は見なかった。妙に頭が冴えていた。オレは起き上がって首を振った。西日に目を細めて今が夕方なのだと悟る。
一昔前のサーバがモーター音をかき鳴らしていた。じっとりと肌も汗ばんでいて、暑い。どうやら無意識にタイマーをかけていたらしく、エアコンが切れていた。摂氏29.8度、そろそろ10月だというのに、まだ夏は立ち去ってくれない。
簡単にシャワーを浴びてメールをチェックした。相変わらずセインからもカインからも連絡がない。
「一体何やってるんだろうな」
いい加減心配にもなってくるが、オレには動きようがない。
触手と向き合うか、ルネに会いにいくか、思案をするが結論がでない。とりあえずDRになるか、とギアを捻ったのが駄目だったのか。
「こんばんわ、柳楽誠」
馴染みすぎた声にぞわりとする。
「お前!」エマノン。
NULL空間だった。オレの真正面には生き写しの少年が立っている。
「3日ぶりだね。その後の調子はどうだい?」
無言で拳を握り締めた。そのまま勢いよく殴りかかるが、ひらりとかわされる。
「熱くなるなよ、ヴァン。お前だってそれが無駄な行為だってわかっているんだろう?」
そうだった。こいつはDRじゃない。オレのアバターを象ったARで、中身は別のところにいる。落ち着け、と深呼吸をした。
「それで、何の用だよ」
オレと同じ面の皮がにやにやした表情を造る。自分ながらに気持ち悪い。
「いや、そういえば感想聞いてなかったなって思って。ドラッグプログラム、キモチヨカッタ?」
犬歯で噛んだ。口に鉄の味が広がるのがリアルだ。
「ああ、ヨかったよ。お前が試せばよかったのにな」
そうすればお前が知りたかったこともわかったんじゃないのか?
睨みつけてもまったく気にしていないようで、エマノンはオレの顔を覗き込む。
「何を感じた?」
「どうしてそんな質問をするんだ。トレースしてオレに流れ込むシグナルを読んだんだろ。もうオレはお役目御免なんじゃないのか」
快楽、それに憤怒。ドラッグプログラムで剥き出しにされた怒りが全身に蘇ってくる。
「それがさ。ああ。当事者だしヴァンにも教えてあげるよ。あのプログラム、人が認知出来ない程度の五感情報を送っていた。それが快楽の正体かと思ってさ、試してみたんだよ。色々な人に同じシグナルを流し込んでみたし、自分自身でもやってみた」
どうなったと思う?
「知るかよ」
「何も起こらなかった。な~んにも。ヴァンのように飛ぶような快楽なんてなかった。元々が感じられない程度の情報だったから、視覚も、聴覚も、嗅覚も、味覚も、触覚も、何も変わらなかった。五感以上の付加情報を送っているのかと疑ってみたけど、それもない。なんだろうね」
「知るかよ」
「そっけないなぁ」
それこそ、知るかよ。
エマノンはくるりと身体を翻し、一歩二歩三歩と歩いた。
「この情報、ルネも知ってるよ」
「何?」
「ルネもドラッグプログラムがどんなものなのか把握しているってこと。ヴァン、ルネをあんまり信用しないほうがいいんじゃないのか」
「余計なお世話だろ」
ルネは情報屋だ。ドラッグプログラムの情報はオレやサイバー課以外にも伝手があるのは当然だ。オレの様子にエマノンは鼻を鳴らした。
「まぁ、いいよ。色々情報も手に入ったしね。山本一樹に多々良涼、か。大分核心に近づいてきたんじゃないのか。山本一樹が結局多々良涼の理論を使ってドラッグプログラムを作った? 多々良涼は自殺ではなくて実は生きている? おもしろい想像ができるね。どこぞの三文小説みたいだよ」
何故このタイミングでドラッグプログラムをバラ撒いたのか。何故『特定のIPアドレス』に送りつけているのか。
「まだ全部解ったわけじゃない」
「それでもすぐさ」
エマノンはまたオレに向き直った。顔には笑みを張り付けて、良い悪だくみでも思いついたかのように目を輝かせる。
「いいこと教えてあげるよ。ヴァン、明日新宿に行ってみなよ。きっとおもしろいものが見られるよ」




