2088年9月22日(水) その1
はじめて触れたARはプラスチックのように硬かった。見た目は完全にりんごなのに、りんごの瑞々しさや弾力、香りがまったく感じられない。精巧に作られたディスプレイ用の置物のようだ。
「お兄ちゃん、これ、りんご?」
ARスキャンで作成されたりんごを、兄の映るスクリーンへ向ける。
『誠、それはまだ情報が添加されてないんだよ。ほら、こうしてみるとどうだ?』
手にあるりんごの偽物が、今まさにりんごへと変わった。
「りんごになった!」
『そのARに情報を加えたんだよ。まだスキャンじゃその辺は対応していないからね、自分で情報を作って加えてあげないといけないんだ』
苦笑しながら兄が言った。まだDRはそんなに普及していない。ギアは高額で、それもヘルメット型が大半だ。新宿へ言っても見かけるか見かけないかというレアさだ。だから、技術も進化していない。
『誠が大きくなる頃には一般的になってるといいけどね』
オレは兄の言葉をあまり理解していなかった。ただただ手の中のARに魅せられている。
「もしかしてこれって食べれる?」
『多分味はしないよ』
即答されて凹むオレ。街には色々なARが溢れていたが、ほとんどが見た目だけのものだった。硬い花びらをつまみながら、なんとなく訊いてみる。
「ねぇ、ARってさ、オレにも作れるかな」
『簡単だよ。誠、一緒に何か作ろうか』
「うん。もしかしてさ、現実にないものでもいい? 例えば、あの空飛ぶスケボーとか、つちのことか!」
目を輝かせるオレに、兄まで笑みが零れる。
『できるよ。最初にスケボーからやるか』
本当に作れるのか。古典映画で大好きだった空飛ぶスケボーが。未来に飛ばされた主人公がスケボーに乗って逃げるシーンが思い浮かぶ。最高に格好いい。
「ARってすごい!」
「すごい……」
あの頃とはまったく同じ台詞を、真逆の気持ちでつぶやく。
机の上で悍ましく蟲が這いずり回っていた。蜘蛛、ゴキブリ、ムカデ、小さい玉虫等が蠢いている。ガサガサという音までリアルでまさに気色が悪い。
「うん、柳楽君、いい感じね。動画まで送っておいてよかったわ。アルゴリズムがすばらしいわね」
「はぁ」
正午ぴったり、オレは触手クラブに来ていた。今日は仕事なのでいつもの少年ではなく青年のアバターを使っている。オンとオフの切り替えのようなものだ。顧客要望を聞いてイメージを合わせるための打ち合わせだ。事前にサンプルもいくつか作成して意見をきく。
目の前の七緒さんはこの触手クラブのオーナー兼社長だった。眼鏡にきっちり髪を纏めていてスーツ、まさにキャリアウーマンというに相応しい姿だが、如何せん、シチュエーションが残念でならない。周りには触手、目の前には蟲、それをうっとりと頬を染めて眺めている。
「この蟲たちの動きを、DRの穴があれば何度も出入りさせる感じに持ってくれば完璧ね。その辺の動きを修正してほしいわ。もちろんたまに皮膚を噛んだりとか、そういうものも組み込んでね」
「はぁ」
「触手の方は、そうね。もうちょっと堅めで擦りすぎると皮膚が傷つくぐらいざらついた感がほしいわね。こっちの方は……」
「はぁ」
ため息なのか相槌なのか自分でももう分からない。
「あとね、最後にもう一つ! ラフレシアみたいなえぐいお花のベッドがほしいのよ。ほら、今まで触手クラブって両手両足縛られて宙に浮かされてってのがメインでしょ。そうじゃなくて、花の中に押さえつけられて花弁で擽られるって素敵じゃない? それも悪臭がするのに、そんな中で快楽の渦に飲み込まれる。うん、いい!」
「はぁ」
オレの思考回路は迷路になってしまったようだ。まったく話についていけない。七緒さんはどんどん一人でフィーバーしていく。頬も赤くて何故か息も荒い。いつものことだ。会話は録音してあるので、後で何度も聞けばいい話なのだが、オレとしてはもうお腹いっぱい状態で勘弁してほしいのである。
「じゃあ、私からはそれぐらい。相変わらずの腕で安心しているわ」
「ドウモアリガトウゴザイマス」
全くもって褒められた気がしない。オレの無自覚な変態度がレベルアップしたってことなのか。七緒さんは一通り満足してくれたようなので、気色悪いものはさっさと消すと、彼女は若干悲しそうに顔を歪めた。
「また一週間後ぐらいに持ってきますよ。その時詳細な部分を修正しましょう」
早くこの場を去りたくてオレは立ち上がった。
「ええ、また一週間後ね」
空飛ぶスケボーの感動も触手クラブで地に堕ちる。七緒さんは嫌いではないが、永久にこの手の仕事はやりたくない。
この2日間、セインからも慎吾からも特に連絡はなかった。さっさと終わらせたい仕事なだけあって、オレもひたすらARを作成していた。その集大成が本日七緒さんに披露したあれだ。作っている最中も何度も目を逸らしたし、気力も削がれたが今日の比ではなかった。ゲッソリと気力を吸い取られたような気分だが、まったくルネと会えていない状態なのでそろそろ顔を出しておくか、と少年姿で大久保に降り立った。情報もそれなりに集まっている頃だろう。
空は薄闇なのに、大久保は相変わらず賑わしかった。駅の一角にいつもにはない人だかりができている。
「なんだ?」
外野は歓声だ。DRだけでなく実体も群れている。男性と、やけに子連れも多いぞ。オレは巧妙に避けながら中を窺った。
「げ」
ハルカだ。楚々とした様子で憂いた息をつけば、群集が唸った。それだけではなく、ハルカの隣にはまた一段と目立つアバターがいた。『ぷんすかプリンセス』の主人公やえちゃんの敵役で人気の高いヤヒロだ。服装はヤヒロの着ている黒色マントに悪徳スーツ。それだけならまだコスプレだけですんだ。しかし、このヤヒロのアバター、アニメ顔を見事に再現している。アバター作成は難易度が高いも関わらず、ここまでそっくりとなると、作った人は相当な技術の持ち主だろう。UUIDの偏差をあそこまで消してしまえるとは。
賞賛の後、なんとなく回れ右のオレ。
「あ、ヴァンさん」
周囲の視線が一気にオレへ突き刺した。ギギギとオレは振り返って顔を引き攣らせる。ハルカが愛らしく走り寄って、そっとオレの右手を両手で握った。態とらしく視線は斜め下で、目を潤ませて。
空気が痛い。どう考えたって、ここで手を振り払えるわけないだろう。おいタチバナ、演技の指導にも程度があるってのを知った方がいい。だから、オレは次の台詞にも頷くしかなかった。
「ヴァンさん。お願いです。ルネさんに会わせていだだけませんか?」




