2088年9月10日(金)
2088年9月10日(金)
オレはギアを手首につけた。捻る。カチ、と音がして、接続された。身構える。パルスが走った。わずかな快感、オレは身体を震わせた。
一瞬で景色が雑多な部屋から、雑多なビルが乱立している裏路地に変わる。いつものくせで、手を見た。少年のものだ。見渡す世界は、すっかり様変わりしていた。視界が違う、身体が普段よりも軽い。オレは手を握りしめた。
DR、偽装現実と言われている。言葉のまま、現実を偽装する技術だ。一昔前のネットの中にもう一つの世界を作る仮想現実とは違い、ここは、本物の「現実」だ。目の前にうつるビルも、現実に存在し、目の前を歩く人間たちも、現在この時間この場所にいる。ただ、オレの様なAR――拡張現実、実態を持たないただの映像体――も、人々の流れに混ざっていた。
AR自体の歴史は長い。ARは2010年頃に開発された技術で、現実にないものを現実へ投影する。ARが開発された当初は、WEBcomの前に紙を置くと、ディスプレイには紙の上に3Dフィギュアが表示され、踊るといった他愛のないものだったそうだ。今ではあちらこちらにARの広告が溢れている。空を飛ぶ文字であったり、地面からにょきにょき生えた絵が踊っていたり。そのARを発達させたものがDRだった。DRは約十五年ほど前から急速に発達した技術で、人間自身を偽装し、AR化させることを言う。つまり、このオレの姿は本来のオレではなく、オレが望んで作り上げたものだ。だが、この偽装したオレでさえ、「現実」に存在した。
鏡にうつる偽装した姿、アバターは、ありふれた深緑のTシャツに半ズボンのクソダサい服を着ていて、どこにでもいるクソガキの姿だった。茶髪に色素の薄い鳶色の目も、どこか生意気に見える。まさに、オレの精神そのものを体現していた。
オレは裏路地を出た。すでに深夜のはずなのに、チカチカしたネオンとARで、昼間よりも明るく思える。雑多なビルの隙間には、ハングルやら簡体字、繁体字のごじゃごじゃした広告ARが出ていた。日本語はない。広告ARの区画は法律で定められているはずなのだが、この場所にはそんなもの通用しないようだった。大久保は百年前からこんな場所だと聞いたことがある。新宿からたった一駅、その距離で途端に異国と変わる。行き交う人も、東南アジアや韓国、中国系が多い。ただし、こちらはあくまでも実体だ。AR化された人間、DRには、青色の髪や緑の肌など、国籍不明なやつらが多かった。中には人間ですらない姿も見える。ペンギンやらクマやらもいた。当然中身は人間だ。
「遅かったね」
声がした方を向いた。大通りを跨いで、人ごみの中に辛うじてお馴染みとなった姿が見えた。短髪、17歳ぐらいの少年。他に20歳前後の金髪碧眼に縁なしフレームの眼鏡をかけた青年、ふわふわした5歳程度の白欧系幼女が屯していた。
「そうか?」
ギアを見ると、23:00と表示されていた。「いつも通りだろ」
「早くおいでよ」
促され、人波を避けながら道を横切る。実体の人間は、ARを視ない人も多い。大久保の多くはギアやARのパルスを視覚野に同調させるチューナーを持っていない人たちだが、ARに煩わしさを感じたくない人間も、意図的にARとの同調をオフにする。そういったARを視ない人たちは、当然オレたちDRを認知せず、歩く。ARはただの映像だから、決して実体の人間とぶつかることはないが、自分の身体を通り抜けられるのは、決して気持ちいいことではない。だから、オレたちDRが実体を避けるというのが通常だった。人ごみだと、その避ける技術も高度なものが要求される。やっとの思いで対岸にたどりついたときには、軽い疲労感を感じた。
「ヴァン〜、だっこ」
幼女が小さな両手をオレに差し出した。つぶらなピンク色の瞳がオレを見上げる。波打ったハニーブロンドにふっくらした頬という非常にかわいらしい外見の幼女だが、中身はオッサンだとオレは断定している。仕草がかわいいのはなりきっているからだろう。最近のガキよりもよっぽど愛らしいのが恐ろしい。オレの中で立派に変態の称号を与えている。それでもオレは、ルネの頭を撫でた。気持ちよさそうに目を細める。そうやって、抱きついてこようとするのを、頭を抑えて阻止した。
「で、こんなところに集まってどうしたんだ?」
「あのね、ルネたち賭けしてたんだよ。ヴァンがどこから出てくるかって。セインはこっちで、カインはあっち。ルネは今日はもう来ないって方にしたんだ。みんな外れだね」
「……」
あどけない口調で、さらりといった。人差し指を口元において、目線は斜め上だ。
「ルネはオレに来てほしくなかったのか」
「違うもん。最初から期待しないでいれば、ヴァンがこなくてもがっかりしないでしょ? それに、来てくれたときはとてもうれしくなるよ」
とろけるような笑顔がよけいに胡散臭い。そうかそうか、と頭を撫でて、ふわふわした髪をくちゃくちゃにしてあげた。
「ごめん」
黒髪の少年が俯いてすまなそうにつぶやく。
「いいさ」オレはセインに向かって笑いかけた。大したことじゃない。どうせルネにうまくのせられてしまっただけだろう。
「カイン、何を賭けてたんだ?」青年は誤魔化すように眼鏡を調整した。
「さぁ?」
目が泳いでいる。ロクでもないことだ、とあたりをつける。が、お流れになった賭けだ、まぁいい。ぽんぽん、とルネの頭をやさしくたたいて、オレは賭けを忘れることにした。
オレたち四人は、こうやって夜の大久保でつるむ。別段約束をしているわけではない。なんとなく気がついたら暇つぶしに来ていた。大抵はみんなでゲームしたり、雑談したり、たまに散策という名の冒険をしたりする。ルネはオレをいじり、オレはいじられ、セインとカインは肩を寄せて苦笑する日々だ。
さて何するか、とカインとセインへ向いた。今日は金曜だ。学生の二人を気遣うことなく、とことん遊べる。
「ねぇ、ヴァン。ルネが」
「ルネ?」
オレは屈んでルネを覗き込んだ。ルネは絶えずはしゃぐ。そのルネが黙った。
焦点のあわない目。ゆっくり左腕を上げ、どこかを指で示した。その様子は何かに操られているみたいだ。
「こっち」
ピンクの瞳に光が戻った。この変な行動はわざとだろうか。ルネならば珍しくはない。一応訊いてみた。「何が?」
瞬間、オレの左手首に、ルネが抱きついた。ビックリして手を引こうとしたが、抜けない。
「こっちにヒマツブシがあるの!」
幼女にあるまじき怪力で、ルネはオレの腕を引っ張り、闊歩した。ルネの身長は低い。オレは傾きながら、バランスを崩さないように、とても情けない姿で連行された。
三回実体にオレの身体を通り抜かれた時、ルネの向かう先から悲鳴があがった。
「何だ?」
人が集まってどこかを見ていた。
カインが背伸びをして先を覗く。カインは背が高いのでこういうときは得だ。カインが息を飲んだ。ルネが「ルネもルネも」と先を急ぐのを抑え、オレが道を作る。ルネは外見だけはちびで幼女だ。こいつが先頭では、下手をすると人ごみに押しつぶされるかもしれない。どこから人がわいてくるのだろう。
人の壁が消えた、と思ったら最前列だった。飛び込んできた光景が一瞬理解できなかった。ルネが一歩遅れてオレの隣に顔を出し、セインがルネの後ろに立った。
目の前で繰り広げられる奇劇にオレは何も言えなかった。セインも呆然としていた。
「うわぁ」
ルネの無邪気な声が響く。
DRのカップルが重なって路上に倒れている。血は流れていないが、唸り声が痛みを伝えていた。加害者だろう。DRの男が口から涎を垂らしながら、鉄パイプを振り回していた。
ARを視ていない女性が歩いている。男は女性をめがけて、鉄パイプを打ち込む。そして、女性の身体をすり抜ける。女性は男に気づかず、歩く。狂った光景だった。男は、女性と同じように、次々と通行人を襲う。ヒッヒッヒッと謎のうめき声をあげていた。
ARを視ない人ならよかった。深夜残業をしていたような疲れたサラリーマンも、酔っ払ったオヤジも、汚らしい浮浪者も、男の鉄パイプをすり抜けていった。次に男が標的にしたのは、浅黒い肌のアジア系の子供だった。手にはカードを持っている。娼婦に手振り身振りで話していた。物売りなんだろう。ARがしっかり視えるのに、商売に夢中で今までの喧騒に気づかなかったらしい。男の鉄パイプは娼婦の頭をすり抜け、一緒に少年まで切った。少年は急に押し黙り、目を見開いて男を視る。娼婦は少年の変化に眉を顰め、きびすを返した。男はもう一度鉄パイプを振る。子供は逃げようとして、足を縺れさせ、倒れ込んだ。
少年は震えていた。オレたちは遠巻きに見物する。DRのオレたちにとって、あの狂った男も鉄パイプも実体だった。だから近寄れなかった。男は、少年に標的を定め、何度も鉄パイプを振り上げた。
「ひどい」
セインが顔を手で覆った。「そうだね」カインがセインに寄り添う。
幼女はオレの手を握りながら、子供ならではの無邪気さを装い、「ほおお」と奇行を凝視していた。
何度も何度も鉄パイプが少年の頭を通過する。虚ろな目で男を凝視していた。足元には商品が散らばっている。
「ドラッグだ」
ルネの澄んだ声が聞こえた。
「最近流行ってる、ドラッグプログラム」
オレは無意識にルネの手に力を込めた。
DRたちがだんだん集まってくる。ARの視える人間も、DRの男には触れない。誰も男を止めることができない。少年の足元に、液体が流れでた。
多分、大人なら、たかが映像だと、鉄パイプを無視できたかもしれない。あるいは同調を切断するとか。だけど、また小学生ぐらいの子供だった。目から涙を流し、男が鉄パイプを降り下ろす度に殺される。警察は来ない。気分が悪くなった。
「ヴァン?」
顔を背けたオレを、ルネが不思議そうに覗き込んだ。
「……確かに、見て楽しいものじゃないね」
幼いのに、変に老成した声だ。
男がまた鉄パイプを振り上げた。もう少年は反応しない。男の唾液はまだ口から溢れだし、周囲に散る。鉄パイプが、少年の頭を通過しようとした。
「あ」
瞬間、男が消えた。声を発したのはカインだったか、セインだったか。
自失呆然とした少年にやっと異変を感じたのか、ARの視えない人々が少年を介抱しはじめた。
「終わったね」
セインが口を開いた。俯いている姿は女性的だ。
「残酷だった」
現場から離れたい一心で、大久保の雑居ビルに場所を移した。廃ビルで、浮浪者や不法滞在者の寝座になっている場所だ。一ヶ所だけ、実体では侵入不可能な場所、完全に埋め立てられてしまった地下に、DR専用の部屋がある。オレたちしか知らない特別な場所だ。カントリー風に部屋が統一されていて、パッチワークのカーペットが敷かれている。ルネは唐草色のソファにちょこんと座っていた。
「ルネ、さっきドラッグっていってたけど、何?」
「んー?」
ルネが小首を傾げる。視線は斜め上。カインは真剣にルネを見つめていた。オレは仏頂面でソファにもたれかかっていた。セインもあれから俯いたままだ。
「この前一人でここに来た時もああいうの見たんだ。あそこまで酷くはなかったけど、虚ろな眼で、ブツブツとつぶやきながらどこかへ歩いてた。DRだったよ」
カインが眼鏡を押し上げる。
「ぼくも……。気味が悪かった。梅田で見た」
「ヴァンは見たことある?」「ない」ルネの声に即答する。今日はおもしろくない。空気が重い。さっさと帰ってやろうと思った。帰っても何もすることがないが。
「最近ね、」
ルネが頬杖をついて、DR化されたジュースを啜った。
「ドラッグプログラム? っていうのがあるんだって。ルネも見たことなかったんだけど」
「電子ドラッグ」
「んーちがうかなぁ」
ルネはカインの言葉を否定した。「電子ドラッグてのは、60年ほど前に流行ったんだけど、あれって動画なんだ」のほほんとした台詞で、ルネはのんびり説明しはじめた。電子ドラッグが登場したのは1990年代の終わりかららしい。チカチカした動画と独特なリズムの音楽で視聴者に酩酊感や多幸感、たまに幻覚をもたらすものだ。依存症も多少はあるが、睡眠薬よりも酷くはない。何度も電子ドラッグを視聴することで耐性が出来、そのうち「見たい」なんて欲求もなくなる。一時的に流行することはあるが、すぐに廃れる。このサイクルを今まで数度繰り返してきた。
「要は電子ドラッグに飽きちゃうってことなのかな」
あんなの、ドラッグですらないよ、とかわいい口が吐き捨てた。オレは帰るタイミングを伺いつつ、ルネの説明に耳を傾けていた。
ルネはコンピュータやネット、いわゆるITサービス系に強い。裏の情報は何でも知っているんじゃないかと思われるぐらいの博識だ。しかも今だけではなく、古いものまでよく知っていた。だからオレは勝手にルネの中身をIT業界で働いているオッサンだと見ている。どう考えても10代や20代で得られる知識量ではないだろう。
「今日のは多分ドラッグプログラムってやつなんだけど、それはね」
ルネの小さな指が、ぼーっとしているオレの額をつつく。
「ここにね、直接作用するの」
「やめろよ、ルネ」
ルネの手を払おうとするのを見事によけて、さらにオレの頭を指した。
「セイン、カイン。人がどうやって快楽を感じるか知ってる?」
二人はオレの予想通り、首を横に振った。
「ここに、腹側被蓋野っていうのがあるんだ。生物で習ったかな? 中脳にあるんだけど」
「確か、大脳への信号中継だっけ」
カインの台詞に、うんうん、とにこやかにルネが頷いた。
「ここからね、このへんの奥に大脳基底核ていうのがあるんだけど、ここに向かって、ドパミンが分泌されるんだ」
オレの頭をルネの指がなぞった。
「ドパミン?」
興味を引かれたのか、セインが顔を上げた。ルネは得意そうな顔をして、さらにオレの頭を触りまくる。
「快楽物質とか、脳内麻薬物質っていったほうが通りがいいかな。このドパミンが分泌されて、さらにドパミン受容体と結合すると、こう」ルネが謎のポーズをとった。「びびび〜っと電流が走って気持ちよくなるんだ」
「なんだか難しいね」
「別に理解しなくてもいいけどね」
「ドラッグプログラム? は……」「ドラッグプログラムはね、その快楽を感じるプロセスを、プログラムでなぞるものなんだよ」カインの後をルネが引き継ぐ。セインとカインの頭の上に、大きなクエッションマークが浮かんでいた。ルネは一息ついた。袖をたくって、自分の細い腕を見せた。細いのにふっくらして、大きいマシュマロのようだった。上腕に見覚えのあるギアがつけられている。オレのオンボロとは違い、最新版だ。水晶のようなアクセサリがギアに垂れ下がっていた。
「ギアがどういうものかは知っているよね。DRと実体の変換器。DRでも味覚、聴覚、触覚、痛覚、臭覚があるのはなんでかな? どうして、自分は「実体」じゃないのに、実体と同じように現実を感じられるのかな?」
ルネは別に答えを期待しているわけではなかった。ルネは自分のギアを撫でる。
「このギアが、ルネたちの感じるものをパルスに変換して、直接脳に流し込むんだよ」
桜色の小さな口が、ゆっくりと動いた。
「つまりね、ギアがルネたちの脳神経を制御してるの。こいつを狂わせたら、ドパミンも流し放題なんだよ」
静寂。
オレはだんだん疲れてきた。今日はこんなくだらない話をしにきたわけではない。単なる暇つぶしだとしても。だが、まだ話が終わらないことをオレは知っていた。誰かの口が開くのを待つ。
「でも、何でそれがあんなに狂ってしまうんだ?」
カインだ。ルネもその問いを待ち構えたように、にこやかに笑った。
「統合失調症と一緒なの。ドパミンは興奮を伝える神経伝達物質だから感情に作用するでしょ? それを不自然に増やしたら、当然情緒不安定になるわけ。幻覚もね、それかな。それに、ドパミンが過剰に分泌されたままだと、ドパミンを受け取る場所、ドパミン受容体っていうんだけど、そこで受け取るドパミンの量が減っていっちゃうの。そしたら、ドパミンがたくさん脳にあっても、あまり快楽を感じなくなっちゃうでしょ。結果依存症になって、アウト」
ルネが人差し指で首を切る真似をした。
「麻薬と、同じだよ」
「……」
セインとカインの中身は学生だ。オレと同様に重い話かもしれない。一人嬉々としているルネだけが浮いていた。
「オレ、帰るわ」
一息ついてオレンジジュースを飲むルネの頭をぽんぽん、と軽く叩いた。
「じゃあな」
ルネが何かいう前に、セインとカインに挨拶し、ギアを捻る。パルスが流れ、その先は、相変わらず汚いオレの部屋だった。




