2088年9月20日(月) その1
大久保はクズみたいな街だ。至る所がヘドロのようにドロドロに澱んでいる。少し街を歩くだけで、怪しげな外人が普通のサラリーマンと話しているところが見られる。金と小袋の交換、一瞬の出来事だ。隣を見れば、胸を大きく開いた服の外人女性が数人で集まっている。スカートの丈も極端に短い。一人の中年男性が彼女立ちに声をかける。一人の女性が腰に手を回され、夜の闇へと消え去った。飛び交う理解不能な言語、雑言、悪徳を当たり前に繰り広げているこの街を、オレは気に入っていた。奇抜なDRが集まってくるので、どこか遊園地みたいな雰囲気が好きだった。
だが、今はそれがひどく不快だ。ぞわりとした空気がオレの肌を撫で付ける。足元を照らすネオンでさえ、薄汚い。イライラしながらオレはゴミの散乱した道を歩いた。
「3日ぶりだね」
「ああ」
オレは息を整えて、ルネの部屋へ踏み入れた。今日のルネは珍しく三つ編みで、良家のお嬢様のように清楚だ。部屋もアンティーク調の家具で、絨毯は赤と金の見事な品物である。実体だったら絶対に見ることができないだろう豪華なソファに、オレは遠慮なく背を預けた。
「疲れてるね」
トテトテとした足音が聞こえて、頭にふわりとした感触があった。ルネの小さな手がオレの頭を撫で付ける。オレは目を閉じて、ゆっくりと口を開いた。
「なぁ、ドラッグプログラムの価値を教えてくれないか?」
ルネの手が止まった。
「それはどっちのルネに訊いてる?」
「情報屋」
頭からルネの手が離れた。オレの正面に立ち、ピンク色の瞳がまっすぐにオレを見つめた。どこかでこうなるのではないかと思っていた。情報屋、それを利用して後は行くところまで行くしかない。少なくとも、ルネとの関係が変わってしまったとしても、だ。
「ヴァンは……」
ルネの目が段々細くなり、そして。
「なんでそうなるんだよ」
ルネはいつも以上にオレに抱きついている。幼女のどこにこんな力があるのかと不思議なくらいに怪力だ。
「ルネ、痛いから離れろ」
「やだよ〜。もう、ヴァン律儀すぎるよ〜。素直に友人だろ、教えろみたいなオレ様態度で利用しちゃえばいいのに、わざわざルネのお客様になろうだなんて、100ペタ年早いよ」
ぐりぐりとルネの頭をオレの胸に押し付けて、なんだかこそばゆい。
「わー、照れてるし。かわいいねぇ。大体さ、今一番ドラッグプログラムに関わってるのはヴァンだし、ルネはそれを利用している立場なんだよ。警察の内部資料なんかもちゃっかりいただいちゃったりしてるのに、ルネはそれくらいの情報出し惜しみしないよ」
いつも通りのルネだ。
「それに、ルネはちゃんとヴァンの友達だよ」
訂正、少しだけかわいい。
耳まで真っ赤になったルネの頭を、オレはぽんと叩いた。
「あー……、友達として教えてください」
顔をあげたルネに、満面の笑みが浮かんでいた。
「それで、どうしてヴァンはそんな情報が知りたいの?」
落ち着いたところで、のんびりとルネが訊く。オレは相変わらずのソファだが、ルネが抱っこをせがんだので、彼女はオレの膝の上だ。この幼女は本当にスキンシップが激しい。
「ああ、ルネとサイバー課はともかく、エマノンまでドラッグプログラムを狙ってるって相当だろ。一応世間での価値ってのを知っておこうと思ってな。なんたってオレのところまでハックするぐらいだからな」
ルネに微笑みかけた顔の筋肉が固まった。
「へぇえ」
普段よりも一オクターブ低い声が、響いた。
「ルネ、初耳だな、それ。エマノン、ルネのヴァンに手出したのか。ヴァンもおとなしく手出されちゃったのか。ちょっとダサくて間抜けだけど、聞き捨てならないなぁ」
「あの……」
どす黒いオーラを身にまとい、ルネは極上の微笑みでオレに言った。
「詳しく教えてもらえないかな」
洗いざらいにこれまでの経緯を吐かされた。カインの邂逅やら、エマノンハッキング事件やら、サイバー課に抹茶フラペチーノの代金を回収し忘れたことまで、だ。この2日間はなかなかヘビィだったと改めて実感する。話した内容にプラスして、ハルカ改造物語とアリスの国リカちゃん事件まであったのだ。そんな疲労たっぷりのオレに、ルネは幼女には似合わない真剣な表情で、ボソッとつぶやいた。ヴァンはやっぱり間抜けだな、と。
「まぁ、エマノンがヴァンに手出したのもわかるんだけどね。だって、あいつ、ルネを警戒してるんだもん。ルネに手出さずに情報欲しいっていったら、やっぱりまずヴァンを狙うよね」
仕方ない子を見るように、ルネは首を振った。
「やっぱりお前の所為かよ」
オレは昨日までルネが情報屋だってことすら知らなかったんだ。ガードのしようがないだろ。リカちゃん事件の後、タチバナに話したら盛大に憐れみの顔で同情されたのにもムカついたが、これはこれでくるものがある。
「ルネもさすがにヴァンに手出されちゃ、黙ってないけどね。お仕置きしなきゃ」
小さな手がポキポキと鳴った。恐ろしい……。
「でも、ヴァン完全に巻き込まれちゃったね。もうどっぷり浸かっちゃいなよ、こっちの世界に」
なんて、ルネの背後に闇の世界が広がっているんだが。
「遠慮蒙る」
「じゃあ、本題に入ろうか」
ルネの手のひらに浮かんだのは、例のチップのARだ。
「ドラッグプログラム。これが市場でどんな価値かってのは容易に想像がつくよね」
オレは頷いた。麻薬にとって代わるものだ。製造はプログラムのコピーという驚くほど簡単なもので、麻薬と同様、いや、それ以上の快楽を得られる。さらに付け加えるならば、少なくとも使用するのは違法ではないということだ。これ一つで世界の麻薬取引の常識を変えてしまう、まさに爆弾だ。
「でもそれだけじゃない。ヴァンはそれが知りたいんだよね。これがどういうものか」
チップはルネの手のひらの上でゆっくりと回転している。
「ヴァン、想像してみて」
実体だった時はどういう刺激を受け取っているか。
ルネは己れの目を指さした。
「視覚」
耳。
「聴覚」
鼻。
「嗅覚」
口。
「味覚」
そして、そっとオレの頬に触れた。
「触覚」
実体の刺激は全てこの五感によるものだ。DRもそれは変わらない。
「ヴァン、快楽なんて刺激はこの世には存在しないんだよ。快楽物質は五感の刺激を通して生成されるんだ」
ランナーズ・ハイみたいな。
「麻薬は、その快楽物質に似たものだったり、快楽物質が消滅しないように長続きさせるためのものだよ。だけど、それはこの世界ではできない。この世界は直接実体に作用しないようになってる」
あくまでも、ARは架空の世界だった。たとえば、風邪薬をAR化してDRになってから風邪薬を飲んだとしても、風邪は治ることはない。ただ苦味が口内に広がるだけだ。麻薬も同じことで、AR化した白い粉から快楽を得ることはない。さすがにどんな味がするのかは知らないが。
ルネの言わんとすることが、オレにも十分理解できた。
「つまり、五感以外の情報をDRでは受け取ることができない」
こくん、とルネは頷いた。
「ルネは以前説明したね。ギアは実体とDRの変換器だって。刺激をパルスに変えて脳に送るんだって。だけどね、快楽なんて刺激は存在しないから変換できない。ギアが直接脳で快楽物質を発生させるなんてこと、できないんだよ」
そう、ドラッグプログラムは「不可能な技術」なのだ。




