2088年9月19日(日) その5
目の前には、あれほど憧れていたギアがあった。世界ではじめて発売された小型ギアだ。今までのヘルメット接続とは違い、手首に巻くタイプのものだった。重さも1キロ程度と軽量化されている。ブラックのメタリック加工が格好よくて、ARの世界が存外楽しくて、秘かに憧れていたものだった。それから、接続用のサーバも。ギアの情報を処理するには多少苦しいが、それでも当時にしては十分モンスターマシンだった。一般的な家庭用サーバとは違っていささか大きい。それが逆に気に入っていた。
オレは喜びと困惑を綯い交ぜにした表情で、見上げた。
「あげるよ」
兄は優しく微笑みながら、オレに言った。だけど、これには彼の夢が詰まっていたんじゃないのか?
「必要なくなったんだ」
いいの? 本当に?
恐る恐る伸ばした手に、ギアが馴染んだ。ずっしりとした重さは、これが現実なんだと教える。喜びが爆発した。差し出された憧れに、オレは兄がどんな心境かなんて考えようともしなかった。嬉々として、もらったばかりのギアをぎこちない手つきで腕に巻く。接続したわけでもないのに、どきどきと胸が高鳴った。
どう?
ギアをつけた左腕を兄へ掲げた。満面の笑みで、オレは兄を見た。
兄から「顔」が消え去っていた。だから、この時の兄の表情を知らない。
懐かしい夢を見た。オレはゆっくりと身体を起こした。ずるり、とギアを外すと、手首に薄っすらとギアの跡が残っている。ズキズキと痛む頭をしばらく抑えて時間を確認した。17:32、10時間近く眠っていたわけだ。
のろのろとオレは一回り大きいサーバへ向かった。15年以上前は最新鋭の、今ではすっかり時代遅れの宝物だ。筐体を撫でる。僅かに熱を持っていた。ブーン、とファンの回る音が聞こえた。
オレが完全に活動を再開したのは、それから1時間以上経ってのことだった。簡単にシャワーを浴びて、カップラーメンを啜った。眠っていた頭が覚醒していくにつれ、腹の熱が高くなる。ずしんとした錘を一つ一つためていくように、昨日の記憶が怒りに変わっていった。ギアを再びつけるころには、完全に頭にきていた。オレは喧嘩とは全くの無縁だが、今エマノンがここにいたら迷わず殴りかかるだろう。
エマノン、それ以上に自分だ。不甲斐ないの一言につきる。強烈な自己嫌悪、理性を剥ぎ取られた剥き出しのオレはおぞましく醜かった。
親指が折れるほどギュッと手を握りしめた。
結局、ドラッグプログラムと関わりを持ってしまった。一回でも使用すれば危険というカインの言がある。そして、おそらくエマノンはそれを知っていた。ドラッグプログラムを試すだけなら、オレ以外でもよかったはずだ。それなのに、オレを狙ってきたってことは、なんらかの意図があるはずだ。少なくともあのチップをばら撒いているヤツを捕まえるまで、この騒動から抜け出すことはできないだろう。最低の気分だ。いいよ、最後まで関わってやるよ、エマノン。
「クソッタレ」ギアを捻った。
降り立った先は『アリスの国』の正面だ。エマノンの空間に飛ぶことはないだろうと思っていたが、いざここにこれてほっとした。北海道では日が落ちるのが早いのか、すでに星が輝いていた。しかし、いつもの賑やかさはない。夜は輝いているはずの趣味の悪いイルミネーションは沈黙していた。
「タチバナ、遅くなった」
客はいないようだった。タチバナは受付に座って、いくつものスクリーンを睨んでいた。柔和な表情が素敵なはずのアバターは、今日は荒々しい空気を醸しだしていた。
「ああ、遅すぎだ」
タチバナがオレを認めて、ため息をついた。
「何があった?」
「客にドラッグプログラムでラリったやつがいた。それで、リカちゃんが襲われた」
「嘘だろ」
タチバナが無言でスクリーンを寄越した。画面には店内の様子が映っている。受付の先にある待合室で、先生風の男が一人立っていた。少女が入ってきて、簡単に会釈した瞬間、急に男が動いた。ぬっと両手を差し出して、少女のうなじを押さえる。そのまま両手で首を絞めた。首がもがれるのではないかと思うほどに、男の指が細い首に食い込んでいた。音が出ない分、不気味な動画だ。30秒ほどで少女の姿が消え、男が暴れ始めた。
「向こうの部屋、見てみろよ」
散々だった。待合室はファンシーにおもちゃや人形が置かれていたが、見事に壊され、人形は四肢が散らばっている。床に、男の唾液と思われるものが付着していた。
「最悪だろ」
タチバナが顔を歪め、困ったように笑った。
「リカちゃんは?」
「実体は無事だが、精神的にかなりキてる。DR化が怖いそうだ。それ以上に客が。もしかしたら辞めるかもな」
「そうか……」
オレもリカちゃんとは面識があった。某子供の人形を彷彿とさせるような、前髪ぱっつんの茶髪ロングで、目がくりっとして大きい。小学5年生の設定なので、店でも年は高い方だった。明るくて、しっかりとしていた印象がある。実体は元男娼の37歳。
リカちゃんは間違いなくプロだった。DRはある程度五感を調整できる。こんな仕事をしていると、痛覚や触覚をほとんど感じないようにする者も少なくないが、逆にリカちゃんは感覚を増幅していると聞いたことがある。「自分も感じて、その分お返しをするの」って優しい目で言っていた。
だから、首を絞められたときの痛み、感触を必要以上に受けてしまっただろう。DR化は強制終了も可能だが、リカちゃんにはする時間さえ与えられなかった。
「誠、俺は正直怒っている。あのクソヤロウにも、ドラッグプログラムばら撒いたヤツもな」
「ああ」
「だから協力してくれよ」
協力もなにも、オレはとっくに渦中にいた。




