2088年9月19日(日) その4
帰宅すると、午前7時を回っていた。普段はとっくに寝ている時間なのでかなり眠い。のろのろとカバンからギアを取り出して、まだオフラインなのに気づいた。一通りサーバの初期化・復旧は終わっているので、ネットにつないでみる。
「何だよ」
サーバには大量の伸吾からの着信が残っていた。
『メッセージ聞いたらすぐに店に来てくれ』
伸吾らしからぬ焦りを含んだ声に、オレは慌ててギアを腕に取り付ける。座標は『アリスの国』へ。カチ、とギアを捻った。
「やぁ、やっと来てくれたね」
目を開けると、オレの声が聞こえた。ぽっかりとした空間に、オレだけが浮いている。座標はNULLを差していた。
「またお前かよ、エマノン」
眼前に、オレのアバターが現れた。やはり手首にギアはない。橘が言っていた通り、こいつにセキュリティは無意味だ。ギリッと奥歯を噛んだ。
「あの着信の山は偽装か?」
くすっとエマノンは笑った。普段のオレの姿の分、強烈は違和感が襲う。
「タチバナシンゴからの電話のことかな。それなら本物だよ」
「今すぐここから出せよ」
「やだよ」
「お前ッ」
掴み掛かろうとしたオレの腕をすり抜け、エマノンはオレの頭一個分上に立つ。
「意外に短気なんだね」
誰だってこの状況なら怒るだろう。恐らく、だ。こいつはDRではない。昨日はオレのアバターに騙されたが、眼前のエマノンは単なるARだ。ギアがないのは隠しているからではないし、今現在そんな技術は存在しない。DRのように表情動作が巧みだが、そういう風に見せられないわけではなかったことに気づいた。こいつはどこか別の場所でニマニマと無様なオレを観察している。オレはエマノンに危害を加えることさえできないのだ。
「残念だが、ドラッグプログラムはサイバー課に渡した」
冷静になれ、と両手を握り締めながらエマノンを見上げた。あいつは目を細めて、愉快なものを見るかのように唇を吊り上げた。
「知ってるよ」
「じゃあ一体なんだよ。もうオレに用はないだろ」
「あるよ、これ」
エマノンが右手をオレに差し出した。握られた拳をゆっくりと開く。
「……、ドラッグプログラム」
右手の上に浮いたそれは、先ほどオレがサイバー課に渡したものだった。
「今、本村弘美のギアから直接アクセスしているんだ。バカだよね、あんなセキュリティ何度でも突破できるのに」
クスクスと嗤う声が耳障りだった。エマノンを睨むが、何もできないオレを嘲笑うかのように、ますます唇を歪める。
「彼らに解析は無理だよ。これ、逆コンパイルしてみたけど、プログラムが入れ子状になっていて、表面をなぞっただけでは、何がなんなのかわからない仕組みになっているんだ。で、プログラムを実行すると、中のプログラムが壊れてしまうようになってる」
「お前にはできるのかよ、スクリップトキディ」
幼稚なハッカー。厭味を込めると、一瞬だけ眉を顰めた。
「心外だな、柳楽誠がそう思ってるなんて。まぁ、いいけどね。キディかどうかはこれから判断してもらうから」
嫌な予感がして、一歩、オレは後ずさった。
「これを解析するには実際にプログラムを走らせてみて、動きをトレースするしかないんだよ。だから、」
オマエデタメサセテモラウヨ。
逃げようとするが、手遅れだった。一瞬の出来事だ。チップが光が生まれ、オレに向かってきた。光はオレの胸を貫いた。
瞬間、強烈な快楽、扇情、アドレナリンが脳内に迸る。抗うことはできなかった。「ははは」自然と笑い声が毀れた。懐かしい感じだ。閃光がいくつも走り、そのたびに何かから開放された気分になる。余計な自分がどんどん削ぎ落とされていくのがわかった。今までの陰鬱なオレが生まれ変わったかのように、世界が煌いた。
ドラッグプログラムが何だよ、エマノンが何だよ。どうだっていいじゃないか。本当におもしろおかしい。楽しい、愉しい。グニャリと目の前のオレが融けていった。ああ、こいつはエマノンだったか。どうでもいい。何もない空間というのがツボに入って、オレはくすくすと笑った。NULLだって? 単純に作りこむのが面倒だっただけだろ、キディ。結局、あいつは自分で試すのが怖くてオレにしかけたんだろう? 強がりかよ。ああ、たのしい。しかし、何だってオレはあんなにがんばってたんだろうなぁ? しあわせなんてこんなに簡単に手に入るじゃないか。しあわせ? しあわせだ。しあわせってなんだ。このじょうたいのことだ。おれはみたされているのか? みたされている。どうしてだ? せいんもかいんもたすけをもとめているのに? あいつらがまきこんだんだ、かんけいない。しんごがよんでいたのにいいのか? あいつはひとりでどうにかするさ。いままでもそうだったしこれからもそうだった。なあ、ほうっておいてくれよ、おれはいまこんなにたのしいんだよ。おにいさんのことは? おにいさんだって?




