2088年9月18日(土) その3
漂ってくる焼肉の香りに胸やけがした。さすがに寝る前にポテトLLはないんじゃないか、と正常な脳で考える。調子にのって注文したのがまずかった。いや、味はよかったが、LLサイズを甘くみたのがいけなかった。甘くはない、塩辛かったって、そういう問題でもない。とにかく、量が多かった。
オレは重い胃を擦った。チカチカと光るネオンが目に痛い。今日は土曜日なだけあって、普段よりもDRが多い気がした。すっかりマスコットになっているパンダもいる。
「遅いな……」
オレはギアを確認した。22:10。セインが遅れてくることは珍しい。もしかしたらルネに拉致されたのかもしれない。伸びをして、ルネの隠れ家へ歩きだした。
起きたら、セインから鬼のようなメールが届いていた。内容は予想がつくから見ていない。ボイスメールは聞くのに時間がかかるし、寝起きで文字を見る元気もなかったから、シンプルに大久保で会おうと約束を取り付けた。ハルヒコからは連絡なし、だ。セインが何か知っているだろう。もう事情徴収も受けているかもしれない。
まぁ、全部終わったしな。
埃のかぶった階段を一段一段下りる。気分を反映してか、オレの足取りは軽かった。
「おーい! セイン、ルネ、いるか?」
勢いよく部屋へ突入する。あの黒さを滲ませた幼女と、清楚な少女がオレを出迎えた。
「え?」
わけではなく、扉の先は、何もない空間が広がっていた。真っ白だ。壁も、何もない。床すら存在していなかった。透明なガラスの上を立っているようだ。トントンと足元を確かめると、確かに地面がある。だが、見えない。オレが慌てて振り向くと、入り口がすうっと消えていった。
「なんだ?」
明らかにおかしい。何もない空間に、ポツンとオレだけがいた。
「ここはルネの部屋か?」
異常だ。出口すらなくなった。オレだけがこの白い空間に浮いている。
ギアを確認する。現在の座標は、0000.00000000、0000.00000000……。
「NULL?!」
「そう、ようこそ仮想世界へ」
顔をあげた。目の前には、よく見知った少年が立っている。
「はじめまして」
そう、馴染みすぎている姿だった。
「no name」
眼の前に立つ少年は、今のオレと同じ姿形をしていた。寸分違わない。くすんだ茶色い髪、さして特徴もない凡庸な顔立ち。唯一の違いは、眼の前の少年はギアをしていなかったことだ。DRならば、現実につけているギアはアバターにも投影され、これだけは偽装ができない。オレの瞬時の思考を、少年の一言が吹き飛ばした。
「エマノンだよ」
ドクンと心臓が跳ねた。
「エマノン……」
まじまじと「オレ」を見る。
アバターはユニークだ。どんなに似た外見にしようとしても、必ず違いが出る。天文学的な数字でしか衝突が起こらないUUIDをベースに作られているからだ。逆に、同じ姿ということは、アバターのデータを共有していることになる。
「君のドラッグプログラムが欲しいんだよ。持っているよね?」
つまり、その意味は。
「ごまかしても無駄だよ、柳楽誠。25歳、無職。全部知っている」
強制的にギアのスイッチを切った。急激なパルスが脳内を駆けめぐる。戻ってきたオレの薄汚い部屋、オレの身体。ギアをとる。ズキズキと頭痛がし、吐き気がこみ上げてきた。ぎこちない動きで口元を抑え、トイレに駆け込む。便器に手を置き、吐いた。喉が灼けるように痛くなり、口からは黄色い液が流れ落ちた。苦しい。咳き込んだら、めまいがした。ぐったりと便器にもたれかかる。
自分の身体なのに、強烈な違和感があった。
当然だ。オレは自分の手を抑えた。ちゃんとした変換もなしに戻ると、急激な感覚の変化に脳がついていけない。旧型のギアは、反作用もひどかった。
ふらつく身体を支えながら、オレは立ち上がろうとした。ルーターを切らないと。サーバも、それから、初期化……。やるべきことは分かっていた。エマノンがオレのアバターで現れた意味も。
ハッキングされたのだ。エマノンに。




