幕間:水鏡の背中
~藍綬が目覚めるのを待つ間~
突然倒れた藍綬を浴場のラウンジにある長椅子まで運んでベッドに寝かせると、レヴィトは、ふぅ、と一息ついた。
「一体何があったんです?」
レヴィトの助けを求める声に応じて、ファレルが駆けつけた時、藍綬は布でグルグル巻きにされて浴場のラウンジに横たえられていた。レヴィトが濡れて裸のままの藍綬を運び出そうとしてパニックになったらしい。
「分からないわ。突然鼻血を流して……」
冷たい水で絞った布で藍綬の顔を拭きながら、レヴィトは心配そうに藍綬の額を撫でている。
「僕たちはなにか良くないことに巻き込まれているような気がします……」
突然そう言い出すファレルを、レヴィトは真っ直ぐな眼で見つめた。
「なぜそんなことを……?」
ファレルは男湯の方を指さした。
「あの獣人はこの世界の者ではありませんよね。それに、この人だって、最初に着ていた服は明らかに異邦の物でした……。それに、保養所にいる魔術師だって……。そんな人たちがどうして僕たちを助けるんでしょう。なにか裏があるんじゃ……」
「ファレル、藍綬たちは私たちを助け出してくれたの。それだけで十分よ」
「すみません……」
ファレルは頭を下げた。レヴィトにこれまで向けられてきた心ない言葉の数々を思い出したのだ。
***
「なりません」
メストステラス聖教の教主ハーメルは毅然とした態度で首を横に振った。
「ですが、教主様、このままでは私たちの教えは──」
「お言葉ですが、聖女様」
レヴィトの言葉を遮るのは、カーター枢機卿だ。教主会議の場に漂う空気がピンと張り詰める。
「反聖女派の連中は、聖女様が同等の場に立ったことを武器に我々を攻め立てようと画策しているのです。わざわざ連中の口車に乗る必要はない」
メストステラス聖教がいくつかの分派の間で正統権争いを続けて久しい。レヴィトはそんな現状を打破すべく、各派との公的な会合の場を設けようと提案したところだった。
教主会議の警護としてこの場に居合わせたファレルはあまりの重苦しい空気に窒息しそうだ。
「そのような思惑で全てが決まるわけではないと私は思います。彼らもメストステラス聖教の教えをなぞろうとしているのです」
カーター枢機卿は深く溜息をついた。
「聖女様に政治のことは分かりますまい」
「ですが、お互いを信じ合う心が──」
「もうそのような世迷言を口走らぬように!」カーターはピシャリと言い返した。「〝口先聖女〟と謗られている意味を今一度お考え下さい」
教主会議は一方的に打ち切られ、レヴィトはひとり部屋に取り残されてしまった。肩を震わせて涙を堪える彼女のもとにファレルと世話係が歩み寄る。
「レヴィト様、あんな連中の言うことを気にしないで下さい」
ファレルが意を決してそう口にすると、そばの世話係も強くうなずいた。
「そうですよ。レヴィト様は多くの人の幸せを考えていらっしゃるんですから、負けちゃダメです」
レヴィトは潤んだ目で二人を見つめた。
「ありがとう。でも、教主様もカーター様も守るべきものがあるわ。そのことを思うと、私に力がないことを思い知らされるの」
「そんなことありません」ファレルは思わず口走っていた。「誰もが人の言葉や行動に裏があると思い込んでいます。レヴィト様の力ではなく、聴衆の心がレヴィト様の言葉を歪めてしまうのです」
一気にまくし立ててから、ファレルは我に返ったように頭を下げた。
「すみません。つい、熱くなってしまって……」
レヴィトは微笑んでいた。
「人の言葉は水のように、ある者には潤いと癒しを、しかし、ある者には災いと痛みをもたらすの。私は誰にとっても潤いと癒しを与えられる水でありたい。そのための力を得るには、まだまだ私は日々力を尽くさなければならない」
彼女の瞳に、もう涙はなかった。
***
──あの時、人の言葉や行動に裏があると言った自分を恥じたはずだったのに……。
ファレルはレヴィトの背中に自分の心が映り込んでいるように見えた。言葉がなくとも、自分の心と向き合わされる──レヴィトはそんな水鏡のような存在だった。それが時に優しく、時に厳しく、ファレルに内省を促す。
「水を汲んできます」
ファレルは駆け出した。
藍綬を助けたいという一心で。




