1:限りなく日常
嫌な夢を見たような気がして、目覚めが悪かった。枕のそばに置いたスマホを見ると、もう起きる時間だ。
溜息と共に起き上がると、手に触れるものがあった。
白い花が閉じ込められたガラス球……。
「藍綬~! 朝ごは~ん!」
一階から母の声がする。
「分かってるよ」
急いで制服を着てダイニングに下りる。母が身支度を済ませた格好で食卓を指さした。
「ちゃんと食べて、お皿洗って、遅刻しないで! ママもう出るからね!」
相変わらず母は忙しない。
「ねえ、これママの?」
ベッドから持って来た花の入ったガラス球のネックレスを掲げる。母は目を細める。
「知らない! 自分で買ったんじゃないの? パパもう出たから戸締りしっかりね!」
嵐のように母が出て行って、家の中に静寂が訪れた。食べる気がしなくて、朝食にラップをかけて冷蔵庫に突っ込んだ。
***
前を歩く女子高生の短いスカートが春の冷たい風に揺れる。私は制服をズボンにしたから、寒い思いをしなくて済んだ。
街のあちこちでビルが工事中になっていた。
──なぜどこも工事中なんだっけ?
「おはよう、四路坂!」
私の思考を打ち破って男子の声がした。見ると、田名土井夏彦が駆け寄って来た。
「ああ」
「相変わらず不愛想だな! 今日英語の小テストあるの知ってた? 僕やばいんだけど」
「ちゃんと勉強してれば問題ない」
「そうなんだけどさ、やっぱり準備は必要じゃん。あ、昨日あれ観た? めっちゃ──」
「夏彦、社会の窓が開いてる」
「どわっ! なんだよ、かなりの距離歩いてきたんだけど! だから変な視線を──」
何気ない日常──のはずだ。なのに、何かしっくりこない気がした。ポケットの中でガラス球に触れる。なぜか手放せずに持って来てしまった。
「聞いてる?」突然、夏彦が私の目の前に顔を出した。「男子だけじゃなくて、女子も四路坂の噂してる。ずっと質問攻めなんだよ。僕は君の幼馴染みという名の情報源にされてる」
「夏彦、今日は何年何月何日?」
「なにそれ? タイムスリップしてきた? なんだ、四路坂もそういう冗談言えるようになったのか~。昔なんて──」
「答えて」
「2023年4月25日だよ。なに? 演劇部にでも入る気? まあ、四路坂なら名女優になるだろうけど、もうちょっと愛想よくても──」
そう。高校生活が始まったばかりだ。
────……。
心の奥に何かが引っかかっているような、奇妙な感覚。
その時、街中に脳を揺さぶるようにサイレンが鳴り響いた。すぐに防災無線が流れる。
『異獣の発生を関知しました。市民の皆さんは安全な屋内またはシェルターに避難して下さい』
悲鳴と足音が交錯する。夏彦が何かを叫んだが、耳に入らなかった。
ビルの谷間に火花のようなものが散って、それを核にして光が迸った。
────……リ
────……ナ
頭の芯から言葉のようなものが滲み出る。
咆哮と振動と破壊音。
光の中から現れた巨大な化物が車を蹴飛ばしてビルに爪を立てると、ガラスとコンクリートが飛び散る。
足が勝手に動いた。夏彦の手を取って駆け出す。
「早くシェルターへ!」
「なんでこんな近くに異獣が?!」
「異獣はどこにだって出る!」
そうだ。
これも日常。
認めたくなかったとしても。
私たちはあれに平穏を蹂躙されてきたのだ。




