第3話 プチトマトの誘惑
昔懐かしい遠い記憶の中。深く呑み込まれて。唐突に母の声に呼ばれた。そして現代に戻ってくる。
「アンタ聞いてる?話聞いてなかったでしょ?」
「…嗚呼ごめん。ボーッとしてた」
本当にあの頃に戻った気分でいた。不思議な体験である。寝ぼけたように締まりのない返事をしても母は特に気にする事もなくもう一度同じ話を始めた。
トモナは僕に会いたがっている。「気が合うな」と嬉しくなる気持ちもある。けれど何処か素直になれないでいる自分がいる。それは恐らくつまらない大人になってしまったからなのかも知れない。
「まぁ、あの子もねぇ。いい歳だからね。アンタも25歳でしょ?早く彼女ぐらい紹介してよ?」
またこの話か。
「いいよその話は!それでトモちゃんは何て言ってたの?」
彼女とは高校入学と同時にそれっきりだ。15歳から25歳までの空白の10年間。その間、どんな人生を歩んで来たのか、敢えて知らずにいる。聞くのが怖かったのだ。ただ、実家が農家だった事から農林高校に入学したのは知っている。そして卒業したら実家のバラ農園を手伝っていると聞いていた。
その時、又もや記憶が蘇る。…そう言えば、お互いの家が収穫どきになると僕らは手伝いに行ってお小遣いを貰っていた。それを今、思い出した。
〜15年前〜
バラの収穫シーズンは年に2回ある。春から梅雨明けにかけての3ヶ月間と秋から冬までの3ヶ月間だ。その中でも前者は良く儲かった。
「アンタ長く切りすぎ!もうちょっと短くていいから!」
「後で切り揃えるから大丈夫だよ」
朝早くに起きて彼女と一緒に手伝うのが当たり前だった。しかし、やり方で食い違うのは恒例行事だ。手慣れた手つきでどんどん収穫していくさまは、さすがバラの姫と言ったところか。何かで測るわけでもなく均等な長さで切り落としていく。
そんな姿をこれ見よがしに見せつけてくるものだから僕も意地になる。けれど短く切りすぎて商品にならなくなっては意味がない。
それは初心者が使う手法で予め長く切り、後に切り揃えるというマニュアル通りのやり方だ。これなら誰でも出来るのだ。彼女はそれを良く馬鹿にした。
「鈍臭いわねぇ。手間が増えるだけじゃない」
「新人のパートさんは皆んなこのやり方だよ。それはね。凄い事なんだ…」
誰がやっても同じ品質になる。バラ農園がどれぐらい儲かるかより、そう言った仕組みのアイデアに僕は魅力を感じていた。そこは彼女と大きく食い違っていたのだ。
「痛!…もう!棘が刺さったぁ!!」
これも良くある事だ。手際もいいが怪我も多い。それが彼女の個性だった。そんな時は歌舞伎町のホストのようにすかさず絆創膏を差し出す。そして決まって「やって…」と甘ったれた事を言う。
けれど喜んでその治療をするのだ。何故ならその間だけ耳を少し赤らめて終始ニコニコしている。きっと嬉しいんだと思う。僕もなんだか嬉しくなる。もしかしたらこの為にバラの収穫を手伝っているのかも知れない。
そして終わりが近づくと、朝食と昼食の間ぐらいになる。少し食べては来たが、本格的に腹が減る。親父達はそれを楽しみに待っている。
僕の実家もそうだが彼女の家の庭は結構広い。そこにテーブルや椅子。バーベキューコンロなんかが置かれていて休日ならではの準備が始まっている。
親父自慢のキャンピング用品がここぞとばかりに用意されて、前回なかったはずのNEWアイテムを僕らに披露する。自慢じゃないが農家というのは必ず大きな農業用倉庫を何軒か持っていてトラクターやコンバインなどの農業設備や資材を保管している。けれどその一つは父の趣味で埋め尽くされようとしていた。
「ほら焼けたぞぉー!若いもんはどんどん脂を食え!しこたま蓄えるんだ!」
「コラお父さん!うちの野菜も焼いてよ!減らないじゃない!」
父さんは執拗に肉を食べさせようとするが、母さんはそれに反するように野菜派だ。僕は肉が焼けるまでの間にプチトマトをスナック菓子感覚で食べていた。それはよく喧嘩の火種になる。
「ちょっと食べ過ぎぃ!私の分は!?」
「あっごめん。食べ過ぎた」
悪気はない。夢中である。
「私もトマト食べたかったのにぃ!!取ってきて!」
そうなると発生するイベントは一つだ。
「はいはい。まだ沢山ありますよ!ほら、トモちゃんの為にアンタが取ってきなさい!」
母のミッションがスタート。これを待っていた。トマトは別腹である。幾ら食べても飽きないのだ。つまり大好物である。そして夏野菜が栽培されているビニールハウスの一つに僕はいる。何故かトモナも一緒だ。
「ここで食べちゃお」
採った矢先にパクッと食べてしまっている。それでは全て姫が平らげてしまう。
「ちょっと、全然持って帰れないじゃん!我慢しよ?」
けれど悪戯な笑みを浮かべて彼女は良からぬ事を閃いてしまうのだ。
「これが欲しいの?じゃあ取ってみて?」
そして何とプチトマトを口で咥えた。目を閉じて何かを待っている。僕の心臓は今に飛び出してしまいそうである。唾を飲み込み、舌舐めずりをして乾いた唇を潤した。遂に決心する。しかし、その頃にはもうタイムアウトだった。
「うっそー!本気にした?冗談だよーだ!」
僕と彼女の顔は目前まで来ていた。その頬は紅潮し、耳を真っ赤に染め上げる。2人が初めて秘密の時間を共有した瞬間だった。お互いの心臓がバクバクと脈動する。姫の気持ちが伝わってくるようだった。