ミズハノメの屋敷
別の探索者です
野中真也は気が付くと、目の前に建つ立派な日本家屋の平安の豪邸の門の前に立っていた。広い庭には良く掃除された井戸と淡い黄色の池――微かに湯気が立ち上っておりもしかしたら温泉なのかも知れない――があり、辺りに植えられた思わず目を奪われて立ち止まってしまう程に美しい満開の桜の大樹や彼岸花、赤い実を付けた柘榴等の草木が花や実を付けており、芳醇な香りを漂わせる。
真也は自分が何故こんな所にいるのだろうと思う。少なくとも此の様な場所に来る用事はなかった筈だし、《そもそも直前迄の記憶が無く、どうやって此処迄来たのかが分からない》。《思い出そうとすると、頭が痛む》。
辺りは屋敷からの光以外に光源が無く非常に暗い。初めは今が夜で月の無い新月なのかと思ったが、《良く眼を凝らして見回すと、此の場所が白い稲妻が落ちる瞬間を切り取って貼り付けた様な巨大な植物の根が這い回る土の洞窟の様な空洞の中である事が分かった》。
庭の明らかに季節感を無視して咲き誇り実を付ける草木の異常性も相まって、此の場所が地中であると云う事実は、《彼の精神を少し、されど確かに揺さぶる》。
振り返ると、背後に広がる塗り潰した様な一面の闇と其処に真っ直ぐ伸びる上り石段のみが見える。とてもでは無いが、何も分からずに向かいたいとは思えない。
仕方がないので、真也は門を潜り玄関に続く石畳を進んで玄関の前に立つ。
「すみません!誰か居らっしゃいませんか!?」
見た所インターホンやドアノッカーが見当たらなかったので、曇硝子が格子窓に嵌められた黒い木製の引き戸を叩きながら、大声で屋敷の中に居るかも知れない住民に聞こえる様にそう尋ねると、パタパタと云う近付いて来る足音が聞こえ、曇硝子の向こうに人影が浮かぶと引き戸が開かれた。
引き戸を開いたのは、無地の薄い臙脂色の着物を着た30代程の女中の様な女性だった。
真也は、女性を見て違和感を覚える。《そして其れについて考えて直ぐに、彼女の着る着物の襟が何故か左前になっているからだと分かった》。
「お待ちしておりました。野中真也様。どうぞこちらに」
女中は一礼すると、白粉と紅で薄い化粧を施した顔に何処か不自然な笑みを浮かべて屋敷の中へと迎える為に左手で指す。
「あの、此処は何処でしょうか?其れに私の事を知っているんですか?」
「えぇ、貴方様が最後のお客様ですから。其れと、此処は【堅洲国に通ずる比良坂】に建てられた【ミズハノメ様の屋敷】でございます」
女中の女性は質問に答えると、屋敷の中へと振り返りしずしずと埃一つ無い良く手入れされた木の廊下を歩く。《堅洲国が東北辺りの地名だと勘違いし》、《ミズハノメの名について心当たりがなかった》真也は置いていかれては困ると手早く靴を脱ぐと、慌てて女中の後を追った。
道中の襖絵も屋敷に合った見事な物ばかりで、歴史的な知識のある真也は、《其のどれもが古事記や日本書紀に記された神話に纏わる物であると分かった》。
廊下を進むにつれて大人数で騒ぐ陽気な声が聞こえて来る。軈て突き当りの襖の前で女中が立ち止まると、ゆっくりと開かれた。
「ミズハノメ様、真也様をお連れ致しました」
中は宴会場の様な大座敷であり、左右に向かい合う様にして十人ずつ並ぶスーツ姿の少し草臥れた会社員らしき男や、シャツとジーンズに腰に細いチェーンを付けたチャラそうな髪を脱色して金髪っぽくなった若者等の男女が一様に置かれた濃い紫色の座布団に座って女中に似た違和感のある笑みを浮かべて談笑し、其の前には白米が入った茶碗や鯛の酒蒸し、こごみのお浸しの入った小皿等の見事な料理が載せられた日本の老舗旅館で見る様な周りが黒く内側が朱殷の漆塗りの御膳が置かれている。
彼等は大半の者が互いにお猪口に徳利を傾け合い、左手に不格好に持った箸で、取った米や鯛の身をボロボロと溢しながらぎこちなく食べており、其の様子を正面の最奥に座る少女の俤を残す桜色や朱色、白や黒を合わせた五衣唐衣裳を纏う高校生位にも見える、射干玉の眼と流れる様な艷やかな長い黒髪を持つ女性が料理に手を付けずに其れを眺めていた。
此の世の者とは思えない程に美しい其の女性の後ろには、鶴と亀や、ピンク色の丸い物を持った昔にいた豪族の様な服装の男性が、背後から迫る鬼女も斯くやあらんと云った赫怒の形相の全身が腐り崩れてボロボロの白装束を纏う女性がけしかけた醜女と骸骨の兵士から坂を登り逃走する様子が描かれた屏風が上下逆さまに立てられている。
彼女と向かい合う様に手前の中央に置かれた御膳と誰も座っていない座布団は、恐らくは間違いなく真也の席なのだろう。
「ようこそいらっしゃいました。真也様。どうぞお座りになってお食事をご堪能下さいませ」
鈴の音の様な澄んだ声と共に、左右に座り食事していた者達は箸や徳利を置いて、歓迎を示す様に一斉に手の甲を打ち合わせて拍手をした。