優しい魔王サマとニセモノ賢者
しばらく沈黙が流れ、それからやっとジルは口を開いた。
「俺は、この性格を直すつもりがないのかもしれない」
ポツリと漏れたその言葉に、わたしはジルの顔を覗きこんだ。バランスのよい、目鼻立ちのはっきりとした顔に刻まれた表情は全くの無表情だった。
優しい色を湛えていたはずの瞳は今も澄んだままだったが、ゾッとするほど冷たい色しか映し出してはいない。
ただ床の一点だけを無機質に眺め、焦点が合っているのかさえ怪しかった。
「ジ……」
「俺には、この性格が国を滅ぼすなんて思えない。
俺は民が好きだし、同じくらい人が好きだ。どちらも傷ついてほしくないし、戦わないですむ方法があるならそうしたい。
俺には、父のような戦に勝利できるような才能もないしな」
冗談半分のように言って、ジルは苦笑いする。
そしてジルは組んでいた手を緩め、わたしの肩に頭を乗せてきた。肩に宿る温もりと、黒く見えるやわらかい髪。それを見ながら無言で続きを促した。
いつもなら、他人の相談なんて面倒にしか感じない。人に話して何かが変わるわけでもないのに、何故話してくるのか腹が立つときもあった。
だけど今は、聞かなければいけない気がした。
「俺は、民と人が平和に共存できればいいと、そう思っているのに」
――それは偽善でしかないと、言われた。そう思うだけなのに、優しすぎると言われる。
「ユキノ。俺の性格は、直さなければいけないほど酷いか?」
無性に頼りなくなったジルの手を握る。ヒンヤリと冷たいだけの指先と、指先だけで手を繋ぐ。それぐらいしか、自分にできることはなかった。そう、思った。
慰めの言葉も、取り繕う言葉も、出てきてはくれなかった。
「ごめん、ジル」
嘘ついてて、性格直そうとして、何もできなくて。
初めて、この自己中な性格を後悔した。直さなければいけない性格なのは、むしろわたしなのに。
それでもジルは謝ったわたしを見返し、ふわりと笑った。ここへ来たとき、パニック寸前だったあのときのわたしを少しだけ安心させてくれた優しい笑みだった。
「何故ユキノが謝る? 謝らなければいけないのは俺の方だ」
わたしの肩から顔を上げ、わたしの顔を見返す。先程のノアと同じくらいの距離にジルの顔があるのに、恐怖は感じなかった。
この綺麗な瞳の奥にある感情を、覗いてみたいと思う自分に驚いて少しだけ体を引く。
「不安か?」
突然、そんなことを聞かれる。
「はい?」
思わず聞き返したわたしにジルは困ったような顔をする。
柔らかな瞳も、眉を下げる表情も、無表情の顔からは想像できないくらい優しくて、本当に、魔王様になんて見えなかった。
「不安でないはずないな」
頭に手を回され、今度はわたしの頭がジルの肩に乗った。
そして不意に泣きそうになった。自分でもどうしてか分からないけれど、何にも泣きたくなるようなことはなかったのに。
ノアに言われたことさえ、我慢できたのに。
涙が こぼれそうになった。
「この国には、全くと言っていいほど賢者の資料がない。だから色々言う者もいるだろう。いきなり知らない国に連れて来られて不安だと思うが、我慢してくれ」
不安だった?
確かにそう感じていた。来たばかりのときに動いていた携帯の時計も一分動いた後、進まなくなってしまった。
それが怖くて、どこにもメールが打てず、机の引き出しにしまいこんだ。
もしメールが送れなくなったのを、電話がかからないのを知ってしまったら、わたしと元の世界のつながりがプツリと切れてしまうような気がしていた。
もう一生、帰れなくなるんじゃないかと思ってしまうだろう。だから見ないようにした。不安になるようなものは視界から、思考から追い出した。
賢者様らしく生きることに神経を注いだ。そうしなければ、不安と恐怖に押し潰されそうだったから。それでも周りにはばれないと思っていた。
わたしをそこまで見る人は、この世界にもいない気がした。元の世界にもいないように、ここもまた、わたしにとっては偽りの関係でしかないのだと思っていた。
なのに、ジルがそんなことを言うから、無性に嬉しくなって……そして無性に悲しくなった。
元の世界にいた十六年間はいったいなんだったのかと、無性に悲しくなった。今まで過ごしてきて、培ってきた人間関係って一体何だったの。
ジルの言葉が嬉しかったのも事実だったが、どこまでも意地っ張りなわたしはその優しさに頼ることができなかった。
「わたしは賢者です。我慢する前に疑っている人たちをどうにかするでしょ」
そんな強がりを知ってか知らずか、ジルは小さく笑うとわたしの頭に手を置きくしゃりと撫でた。
「世話をかけるな、賢者殿」
「滅相もございません、魔王様」
わざとらしいセリフに返事をして笑った。こっちの世界へ来てから、いや向こうにいた時間を含めても、これほど自然に笑ったのは久しぶりな気がした。
部屋へ戻り、ベッドに腰を下ろした。そして今日手に入れた情報を整理する。ここ数日間の日課だった。
「賢者の資料はほとんどなく、あっても信憑性に欠ける……が、何故か写真は残っている」
気になって写真を見せてもらったのだが、わたしなんかよりずっと美人だった。
と、いうか、あなたを語ってごめんなさいと謝罪するくらいの超美人。似ている、と言っても共通点は黒髪黒目だけだ。
「ノアはわたしが偽者だと知っている――が、ジルは知らない」
人に聞かれてはまずいので小声で口に出す。どんどん整理できている気もするし、そうでない気もする。
「ジルの性格によって大臣たちはジルが魔王に相応しくないと思って……ジルの身の安全は大丈夫なの?」
整理しては新しい疑問が出て、こんがらがりそうになった。そして一番の問題を口に出す。
「わたしの口から出た言葉、誰の言葉?」
『あなたは誰?』
自分自身に問いかけるが、当然のごとく返ってくる答えはなかった。はぁ、と吐いたため息が予想以上に疲れて聞こえる。
今日は色々なことがありすぎて体が参っているのだと勝手に結論付ける。こういうときは寝るのが一番だろう。
重い、それでもこの世界では軽装らしいドレスを脱ぎ、用意されていた寝巻きに袖を通す。絹製らしく、ヒンヤリと冷たくてツルツルとした肌触りが気持ちいい。
庶民のわたしからしてみれば、パジャマが絹って勿体ない気もするけど。
ベッドに入る前に机の引き出しを引き、入っている携帯を確認した。念のために電源は切ったままにしている。ここには充電器もコンセントも――というか電気自体ないみたいだし。
恐々と携帯を手に取り電源を入れる。この世界に来てからもう一週間以上経っているにも拘らず、時計は全く進んでいなかった。
新着メールも着信もなかった。来たばかりのときには立っていたアンテナさえも立っていない。
諦め半分、落胆半分で電源を切る。完全に元の世界とのつながりが切れてしまったことを自覚し、携帯を取り落としそうになった。
『怖い』
「何、が?」
『怖い?』
「だ、れ?」
『怖いの?』
ばん、と思わず机を叩いた。
耳の奥で響き続ける声は、鳴り止むことなく聞こえる。その気味の悪さに身震いした。自分の声が頭の中で木霊する。耳を塞いでも効果がなかった。
『怖がることなんてないわ。だって、私はあなただもの。あなたは――私だもの』
最後にそう言って、声は消えた。始めから何もなかったかのように、部屋が……頭の中が静かになる。
それに安堵しつつ、震えそうになった足を叱責する。携帯を再び戻し、引き出しを閉めるとベッドにもぐりこんだ。
「大丈夫」
何の根拠もないそれで、安心することができなかった。
「賢者様本日は魔王陛下の公務が立て込んでおりますので、本日の授業は夕方へ変更していただきたいとのことです」
「分かりました、と伝えてください」
ドレスを着るのを手伝ってもらっているメイドは『かしこまりました』と返事をして退がる。
贅沢な生活に慣れてしまいそうで怖い、というかやることが少なくって少し手持ち無沙汰な感じがする。
午後のお茶……二時半から三時半がぽっかりと明いてしまった。
賢者というのは情報が少ないせいかかなり神聖視されていて、周りの人も馴染んでくれないから一緒にお茶をするような親しい人はいない。
さぁ、どうしようかと迷っていると、机の上においてあった一冊の本が目に入る。日課の図書館通いは未だ続いていて、今日も既に二時間ほどそこで過ごしていた。
膨大な数の本から前賢者様やその時代の事情、さらにはわたしが元の世界へ帰る方法を探している。
賢者の資料は前言ったようにほぼなく、この間見せてもらった写真さえ見つからない。あの写真、ノアはどこで手に入れたんだ?
わたしが元の世界へ戻る方法にも有力な情報はなく、すでに諦めかけている。珍しい魔術の資料はあらかたノアの部屋にあるらしい……。でももうあの部屋には二度と入りたくない。
残るは前賢者様のいた時代背景だけど、これには困ることはなかった。もう調べれば調べるだけ出てくるので、今のところわたしは目下そのことばかり学習している。
――どうせ時間も空いたし、勉強のために行くか。ノアに知らない間に啖呵きっちゃったし。
トントンと羊皮紙(書きにくい)とインクをしみこませて使うペン(使い難い)をもち、扉を開ける。そこには今まで調べてきたことが書いてあるのだ。
この国のことを簡単に説明するにしても長い。ので、現在わたしが調べているのは前賢者様がご活躍なされたという五百年前から六百年前だ。
その頃の魔王はジルのお父様らしい。思うけど、魔王って、いや魔王に限らずこの世界の人ってすごく長生きな気がする。わたしなんてせいぜい生きて百年とちょっとが限界なのに。
で、その前魔王様、ダンテ・リュシラーズ様。
その人はリュシラーズ王国(今更ながらこの国の名前らしい)始まって以来の(賢者様、名前も知らないこの人の影響もあるが)賢君で、国民に慕われていたらしい。
ダンテ様は初めて人間国―シトリラス王国―と不可侵条約を結んだらしい。
しかもそれは即位して十年目にしてというから驚きなのだそうだ(この国では在位数百年が普通らしい)。
長い間争い続けてきた戦争を平和的な話し合いで収め、条約を結び、両国に平和をもたらせた。
その後何らかの形で前賢者様と出会い、全盛期を築くが、五百年前ダンテ様は急病で六百八十七歳という短い一生(短いんだ……)を終えたらしい。
詳しく調べるのは止めたけど、本ではそのまま生き続けたら今でも生きているはず――というようなことが書かれていたような気がする。
ダンテ様が死ぬのと同時期に前賢者様は姿を消して、二度と戻って来なかったと書いてある。
今気付いたんだけど、そのときの賢者様との記憶がないにしても、会ったことがあるジルっていったい何歳? 確実に五百歳以上ではあるよね。
それで外見年齢二十歳にも見えないとかちょっと詐欺じゃない? わたし十六年しか生きてないのに、ジルと見た目そんなに変わらないように見えるって理不尽な気がする。
話はそれたが、ダンテ様の死は様々なところに余波を引き起こしたらしい。
前賢者様が消えたこともそうだが、なによりダンテ様の死がきっかけで不可侵条約が不安定になった、という話だ。
ジルは小さすぎて即位したはいいが政治なんて分かるはずもなく、臣下たちがうろたえまくった結果らしい。幸い、今は不安定ながら落ち着いていると書いてある。
ペラペラと羊皮紙を捲りながら長々と説明を読んでいると、いつの間にか図書室の前にまで来ていた。他のところよりも大きくて、立派な扉が目に入る。
取っ手にはこうもりをモチーフにしたのか羽の生えた動物がついている。
少々気味が悪いが、慣れてしまえばどうでもよかった。中へ入ると紙の匂いがかすかに香った。別に嫌なにおいではない。
ここだけ空間から切り離されたような、そんな感覚が体を支配した。
時計さえ進むことを遠慮しそうな、たとえ数百年後ここへ来ても変わらなさそうな永遠に近い時間が空間を覆いつくしているような感じだった。
時々見かける司書さんも見かけない。今日はいつもより静かだった。
歴史資料棚の近くの席を取り、羊皮紙とペンとインク壺を置く。そして少し見慣れてしまった本棚の間にすべりこんだ。
ここには検索機なんてない。写真はあるけど、電話も電気もない。中世ヨーロッパのような雰囲気だと思う。まぁ、中世ヨーロッパよりは進んだ感じがするけど。
つくづくここは別の世界なんだと感じ、ため息をつきたくなる衝動を押さえつけ、本の背表紙に指を走らせる。
ここだけを考えれば、学校の図書室とそう大差ないのに。目に入るわけの分からない単語や地名が出てくると、いやでも現実に戻される。
どうやら、わたしでは理解できないのだろう、微妙なニュアンスや知らない地名、人名などは読んでもらわないとカタカナなどに変換されないのだ。
この前、何の気なしに、『これなんですか?』と聞くと、『え……この国の、名前ですよね』と返された。――そりゃあ、驚きますよね。この国の名前を知らない賢者がどこにいるよ。
とっさに、『いえ、この本の材質です』と誤魔化したけど。(そんなの、どれも同じような紙だろうに)
知らない言葉に触れるたび、実感するのだ。
『ここはわたしがいていい場所ではない』ということを。
忘れることなく、幾度となくわたしの前に現れては消えていくその考え。事実そうなんだからと思っても、何故か心に突き刺さった棘は抜けなかった。
その考えを嘲笑して、一冊の本を手に取る。早く帰る方法を見つけてしまえば、こんな考えに付き合わされることもないのだ。
魔王陛下の地位が危ない? わたしが知るか、そんなこと。
わたしはわたしのことで精一杯で他人のことを考える余裕なんて持ち合わせていないし、メリットもないのにどうしてわたしがジルを助けなきゃいけないわけ?
そうノアに言ってしまえば楽だった。
実際来た当初なんてもっと酷いこと思ってたし。それを口に出して言わないのは自分の立場を考えているからに過ぎない。