お蔵入り 02
2話目ってわけじゃありません。
書きたいとこだけ抜き出したらこんな感じ。
押さえつけられた両手首が痛む。それでも泣きたくなくって唇をかみ締めた。半ば意地だったはずなのに、もう他にすることもなくって、ただ目の前の人物を睨んだ。
「離してっ!! 離してってば!!」
両手を動かし、足をばたつかせる。無駄な抵抗だって分かってる。だけどそうせずにはいられなかった。だってそうしなくちゃ、殺されてしまいそうだったから。
じたばたと往生際悪く喚くあたしに相手は困ったような、微妙な表情をした。
「賢者とは違い、まぁ、なんと騒がしい……」
雪乃にも同じことをしたの? 信じられない。人間がすることじゃない……って、この人、人間じゃないんでしたね。そうでした。
そんなどうでもいいことで自分に突っ込みを入れつつ、相手に噛み付いた。
「騒がしいって、殺されそうになってるんだから、抵抗して当然でしょっ!?」
「別に殺そうなんて――まぁ、思ってますけど」
その前に、少々味見でもしようかと。
その言葉にぞっとして、初めて涙が出た。この人、今なんて? 何て、言ったの。『味見』って、まるで人を食べ物みたいに。
人より鋭い犬歯がきらりと光る。それは紛れもなく、あいつと同じもの。なのにどうして、ここまで嫌悪する必要があるんだろう。この人のそれは見るのも嫌で、あいつのは……見ると体が熱くなる。
血が沸騰するような、そういう熱さじゃない。じんわりと染み出るような、沁み込むようなそんな熱。それが体中に広がる。まるで、血の流れに沿って巡るみたいに。
「そんなに怖がることもないでしょう? 同じものが、幾度かその身に穿たれているはず。違いますか?」
首筋を触れられて、びくりと体を振るわせる。
そこに触れないで。指を滑らせないで。やつの、指は違った。そんな、不躾な触り方じゃなかった。知らずやつの指を思い出していて、赤面する。
何を、思い出そうとしているの? あたしは。
「ここにも、あぁ、ここにも残ってますね。白い肌には、よく目立つ」
何か不思議な力が働いているのか、傷はほとんど残らない。ただ名残のように数日、淡い赤色をその肌に残すだけだ。数時間で傷はふさがり、数日で跡形もなくなる。
それが当初は安心をもたらしていた。だけど今じゃ、物足りなさを生んでいる。
大きな、傷を残してくれたらあたしも忘れないのに。
「そんな顔を、するんですね? あれに、触られるとき」
「ちがっ」
何も違わない。違わないんだけどさ。
「甘美な血の匂いは、私達を酔わせる唯一の美酒。これを毎晩堪能できるとは、まったく羨ましい限りです」
あなたの血の匂いは特別、芳しい。
……嬉しくないんですけど、正直。血の匂いとか、自分じゃ分からないし。人間相手に自慢できることでもないし。多分、こっちに来なかったら、一生知らなかった事実ですもん。
「その血を、私に下さいますね?」
それは了承を得るための問いかけでもない。まして、こちらの了承を得ようなんて、初めから思ってもいないだろう。
「いっ」
嫌だ、と口に出す前に、ぶつりと肌が断ち切れる音がした。
熱い、と思う以前に意識が朦朧とする。
痛みを、覚える前に毎回こうなるんだ……。やつも、こいつも、どうしてこういうときだけ、苦痛から遠ざけようとするんだろう。
毎度毎度、あたしの心をズタズタに引き裂いていくくせに、こうやって身体的苦痛だけは取り除こうとする。それが腹立たしくて、意識を保とうとした。
「あっ、ーーっ」
痛さに、目が回る。当たり前だ。あんな太い牙が自分の中にあるんだから。どくどくと流れ出ていく血を感じ、背筋を凍らせた。
毎回、よく死なないものですね。あたし。血の気が多いほうではないんですけどね。
「~~~っ。いった」
痛い。痛い。痛い。どうして、こんなに、痛いの。
早く、終わればいい。それまで、気を失うわけにはいかない。いつものように、やつの腕の中に崩れ落ちていければいいのかもしれないけれど、今回はそうもいかない。
意識を飛ばして、次の日に目が覚めればベッド、なんてこともないのだ。
「さっさと、気を失えれば楽でしょうに」
口元を手の甲でぬぐい、この人は目を細めるのか。あたしの血で、その口をぬらして、笑うのか。その手で、牙で散々あたしを蹂躙しておきながら、どこまでも穏やかに口角を上げる。
「美味しい、ですか?」
「ええ、とても」
噛まれた部分を手で押さえつける。そうすればたいていはすっと傷がふさがるのだ。だけど、今回は違った。手のひらにべったりと血がつく。まだ乾いていない、液体が手をぬらす。
血が手をすべりひじの先からぽたりと落ちた。ベッドの上に、赤い斑点が描かれる。どう、して??
「何、どうして」
「あぁ、血が止まらないんですか?」
どうやら、あなたは私の毒が聞かないらしい。
「どういう、こと?」
「簡単なことです。その昔、私たちの祖先は夜、人が寝静まった頃に部屋へ入り、人間の血を飲んでいました。そのために必要なのが、強力な毒です」
言い換えれば、痛さを『何か』に変換する、媚薬のようなもの、といったところでしょうか。
「痛みを、快楽に変える。同時に、傷をふさぎ、記憶を消す。まぁ、もうそのような力はありませんが、傷をふさぎやすくさせ、痛みを和らげることはできるんです」
たいていの人間には使えるんですけどねぇ。
「稀に、体質的に合わない人間が出てくるんです」
何かの作用で、適合しないんでしょうね。
「血が止まらないと、どうなるか分かりますか?」
にやり、と嫌な笑みが浮かんだ。
「もう少し、味わってみたかったのですが、そこまで執着するような味でもなかった」
中の上といったところですね。つなぎ止めてまで、飲みたい代物じゃあない。
「あなたに執着する、あれの神経が分かりません」
「分からなくて、結構よ」
出なきゃ。そう思って、ベッドから立ち上がる。ぐらりと体が傾き、床に膝をついた。もう逃げられないと思っているのか、死ぬのも時間の問題だと思っているのか、あの男は追っても来ない。
半ば這うように扉を開いて、外へ出た。
「やば……」
目がかすむ。足もおぼつかない。どうしてか、身体が熱くてぐらりと視界が歪んで、暗転していく。
「やっ」
死ねない。こんな、あたしの世界じゃないところでなんか死ねない。だって、あっちにはあたしの大切なものがたくさんある。
家族も、友達もいる。こんな、わけの分からないところで死ねない。雪乃も、きっと心配してる。
だけどどうして、こんなときにやつの姿ばかり目に浮かぶの。どうして、目の前に彼がいるの。そんな顔、見たことないから想像なんてできないはずなのに。
夢なんだから、もう少しその綺麗な顔に笑みでも浮かべてよ。いつもみたいに、人をバカにするような笑顔じゃなくて、優しい笑顔でも。
意識が、なくなっていくんだから、それくらい願ったって許されるでしょ。
「……サクラ」
呆然と、名を呼ばれたことなどなかったはずだ。その顔が、険しくなることなんてありえない。
ねぇ、ほら。笑ってよ。あんたの顔、そうすればすごく綺麗なんだから。あの魔王様にだって負けないくらい、綺麗なんだから。
「ノ、ア」
こうやって、呼んだのも、初めてかな。
「桜、桜」
呼ばれてる。あぁ、お母さんか。もう少し寝かせてよ。今いいところだったの。イケメンがいてね、自分が異世界にトリップするの。始めは冗談じゃない、と思ってたけど、案外面白いのよ。
まぁ、気に食わない野郎もいるけれど、それでも傍から見て観賞用にはなるのよ。魔王様はとても優しくてね、雪乃が大好きで……。
「桜っ。お願い、起きて!! お願いだからっ」
雪乃は、普段は冷たいんだけど、実は優しい子なの。魔王様といると、それがよく分かる。
「桜ぁー」
そうそう、よくこういうふうにあたしを呼んで。
「桜っ」
そこまできて、一気に覚醒した。
「雪、乃」
「よかったぁ、死んじゃうかもしれないってノアに聞かされて、それでっ」
死んじゃったらどうしようかと思ったよ、と泣き声で言われた。
「ノア、ノア呼んで来なくっちゃ。あぁ、かなり怒ってたよー。一人で出て行って、挙句死にかけて戻ってくるんだから」
でもあんな焦ったやつの顔が見れたんだから、よしとしなくちゃね。
先ほどまでの泣き声はどこへやら。雪乃はそう言い置いて、部屋から出て行った。
うとうととする。眠いの、何なの。あぁ、もう……。
「部屋に帰りたい」
「帰せませんね。残念ながら」
がたん、とベッドの隣で音がした。思いっきり不機嫌そうな声がして、慌ててそちらを向いた。
「ノア」
「いったいどういう了見か、聞いておきましょうか。サクラ。私の頬を張った後、一人で出て行き、挙句翌日死にかけて発見される。しかも、人気のない場所で。
私が通らなかったら、あなたあそこで死んでましたよ? いったいどれだけ」
そこからは声にならないらしい。はぁ、とため息をついて、彼は眉間のしわを揉み解すように、手をやった。モノクルは外されていて、彼の端正な顔がしっかりと見える。
真っ赤な瞳がこちらを見ていて、射抜かれているように思えて下を向いた。
「ごめっ」
「謝って欲しいわけじゃありません。ただどういうつもりなのかと聞いているんです」
その傷、私の一族のものでしょうね。それに、この傷。
「始めからあなたを殺そうとしたようにしか思えない」
ちろり、と傷が舐められる。びくっと身体を振るわせたのは、それが痛かったからだ。
「痛いでしょう。始めから、傷を残す気だったんですね」
私に、見せ付けるためでしょうか。
彼の唇が、そっと傷口に触れられて、それと同時に痛みが和らぐ。これが、毒、だろうか。痛みを和らげ、傷を塞ぎやすくさせるという。
「可哀想に。容赦がない、やつだったんですか」
まるで傷だけで分かるとでも言いたげだ。あたしには何も聞かず、ただ傷を追う。それだけで、全てのことが分かるらしい。
「確かに、あなたの不注意もありますが、今回は私のせいですね」
ゆっくり、おやすみなさい。今は休息が必要でしょう。十分に休息を取ったら、お仕置きですね。
怖いけど、安心する。
いつも通りの会話じゃないけど、まぁ、いいか。
「おやすみ」
お仕置きなんて、聞かなかったことにしよう。
「あなたは、本当に心配させてくれますね」
帰ってこない彼女を探し、一晩中城を歩き回った。見つけたとき、血だらけで心臓が止まる思いだった。それが血への執着か何か、分からないけれど。
「私以外の男の牙を受け入れたなんて」
彼女が悪いわけでもないのに、腹が立った。
「上書きできないのが口惜しい」
彼女が万全な状態であれば、今すぐその首筋に牙を埋めて血を飲みたい。啜れるだけ啜って、気を失うまで攻め立てたい。
それができないのは、ひとえに彼女がすぐ死んでしまいそうなほど儚く見えたからだ。
「また、今度ですね」
サクラ、あなたを他人に渡すつもりなんてさらさらないんですよ。
我ながら、執着心が強い。
「逃げられるなんて、思わないで下さいね」