約束ひとつ
ちらちらと目の前が明るくなるのを感じ目を開けた。いつの間にか寝てしまったらしく、机に突っ伏している。
ゆっくりと起き上がると、両手を枕にしていたせいか感覚が無かった。
いつものような……、やわらかいベッドの上でないことに安堵しつつ、わずかに息をはいた。
「いつもみたいって、こっちの方が日常でしょ」
自分自身に突っ込みつつ、ぐっと背伸びすると体中が痛かった。ここには絹の寝巻きも、メイドもいない。
ついでに言えば、嫌味を言う美形も、優しいだけの魔王様もいない。そのことを一瞬だけ寂しいと思いながらも、すぐに打ち消した。
「学校、だし」
パジャマを脱ぎ、かけてある制服に手をかけた。下着を身に着け、シャツを着て、スカート、リボン、ブレザーと順々に、手が覚えているとおりに行動する。
約一ヶ月ほどやっていなかった動作なのに、すんなりと身に馴染んでいた。
「すぐ、忘れる、よ」
こんなことばっかりなら、すぐにこの日常に馴染むなら。
そのとき、メールの着信音が響く。思わず身構えた。
『 送信者:桜
件名 :英語の日本語訳した?
本文 :
今日当てられる日なんだけど、予習した?? 学校行ったら見せて欲しんだけど。』
予想していた通りのものが、予想していた時間通りに送られてくる。ある意味、とっても正しいことなんだろうけど、不意に涙がこぼれた。
ここはもう、あっち側じゃない。
好きかどうかなんて関係ない。ただいつもみたいに、せめて最後くらい、ゆっくりお茶でも飲みたかった。
ただいつもみたいに他愛もない話がしたかった。
「っ……」
ただ――。
「馬鹿だ、わたし」
今、どうしようもないこと考えたよ、ジル。もしかしたら。
「もし、わたしが、帰りたくないって言ったら」
ジルはどうしただろうなんて、考えても仕方が無いことを考えた。馬鹿だなぁ、と嘲笑するように呟いて、机からペンダントを取り出した。
深い色は決してあの人を忘れさせてはくれない。
この深い蒼はどこまでもあの人の瞳を思い出させて、感傷になんて浸らせてくれない。それをゆっくりと首に着けた。
制服の下に入れた。
トントン、と石を制服の上から叩いて、笑ってみる。ひとつ、約束しようか。
「おはよ」
「おはよ、何でメール返事しなかったの?」
「うん、ちょっとね」
何気ないように言ってから、先に歩き出す。友人と、もう少し親しくしてみるのもいいかもしれない。自己防衛だけでは、この先きっとやっていけないこともあるだろうから。
「勉強した?」
「まぁ。それなりにね」
常套句のように言って、笑った。いつもどおりの、愛しい日常だった。
「テンション低いなぁ。さては、恋の病かね、お若いご婦人」
「そうだったらどうする?」
友人のからかいに、サラリと返すと目を丸くされた。
「どんな人?!」
さてどうやって答えようか。そもそも“そうだったらどうする?”と聞いただけだ。恋ではないかもしれない。恋なんて感情で済ませていいのかさえ分からない。
「すごく、優しくて、お人よし」
そして民が好きな魔王サマ。これは言わないけど。
すべて封印したはずなのに、期待をまだ持っている。
それがいいことかさえ分からない。でも答えは出してみよう。
あるかもしれない、再会のために。ないかもしれない、そのときのために。諦めが悪いというジルが納得できるような、少しのことでは動じない答えを。
「ねぇ、あたしの知ってる人?」
「どうかな?」
「それ、どういう意味よ」
こちらの世界は平和で愛しい。この平凡な日常が何より大切だ。そう気付かせてくれたあちらの世界もまた、何より愛しい。どちらも、わたしにとって大切だ。
「かっこいい?」
「かっこいい、よ」
でもそれが問題ではなく。
「笑ってほしいなって、思える人」
だから『忘れて』と言ったけど。もし機会があるなら、会いましょう。
さようなら、優しい魔王サマ。また会う日までに、わたしは答えを出すと約束します。
『大切』な人は、どんな人かという、その答えを。――優しい優しい、魔王サマのために。
〜END〜